不如帰の声
女の手から奏でられるそれは 少なくとも尖っていた神経を癒した。
何時ものように、何時もの場所で、何時もの酒を飲む。
そんな生活がずっと続いている男がいた。未だ其の男は二十歳のくせに酒を浴びる毎日だとこの酒屋の主人が言っている。
何故、とは聞いたものの其の男は只只、
「黙れ」
としか言わないそうで。
今日も朝から夜まで酒を浴び続ける男がいると聞き、興味も手伝ってか其の酒屋を訪れた。
確かに酒屋の主人が言っていた通り、机に突っ伏しながらも酒を飲んでいる若い男が見える。
其の男は普通ではないほどの真っ白な髪の色をしていた。
普通ではないのは髪だけではなく。
顔色も蒼白であきらかに尋常ではない。
主人も何度医者にかかれと言ったのだが断固としてここから動かないそうだ。
しかし本当にこのままでは倒れるのではないか、家族は如何した、と聞くと
「奴には家族はいない。家族の話も聞いたこともない」
と溜息混じりの答えが返ってきた。
「兄ちゃん、その辺にしとかないか」
近づいておきまりの台詞をその男にかけてみる。
男は青白い顔色、死んだような目をこちらに向けた。
「誰だ。あんた」
殆ど掠れきったような声。少し痛々しくも見える。真っ白な髪の毛がするり、と男の頬をかすめた。
「私は不如帰。この町の芸者さ」
兄ちゃんの名は、と聞こうとするもこの男は顔を歪めてみせた。あきらかに嫌悪を表している表情。
「その芸者が俺に何の用だ」
虚ろな目をまた酒瓶に移した。
「兄ちゃんまだ若いのになぁ。そんな飲んだら身体壊します。もう止めなさいな」
それでも不如帰の話を聞くわけがなく。
「俺に構うな」
其れだけ言うとまた机に突っ伏した。
しかし数秒か経った後、男の身体が少し起こされた。未だ目は虚ろなままだが口には笑みを浮かべている。
嘲笑のような笑みで口元を歪めていた。
「御前は倭を如何思う」
いきなりの質問にえ、と聞き返してしまった。
それに気付いた店の主人は慌ててこちらに向かってくるのが見える。
「すんませんねぇ。不如帰姐さん。こいつ、いっつもこんな調子で」
頭を下げて謝ってくる主人に男はチ、と舌打ちをする。
……とても不愉快そうだ。
だが何故か其れは少し安心したような奇妙な表情をしていて。
それが無性に頭に残ったまま商いの時間が来てしまった。
別れ際に男をちらと見るとやはり机に頭を乗せて眠っているのだろうか、ぴくりとも動かなかった。
これが現なのかも分からないまま女の声が遠のいていった。
己が己だという証明がもう見当たらなくなってしまったからなのか。
此のまま永劫に眠っていたいと
前までは絶対に思わなかった事が今では卑しい程に其れが魅惑的に思えた。
もう、良いのだろうか。
もう、この世にいなくても良いのだろうか。
どうせ倭や神殿の連中は俺を何時か殺すと決めているのだから。
どうせならば奴等の手に追われる前にいっそ自らの手でこの世から姿を消すというのも良いだろう等とは思ってはいてもますます惨めさが増すだけで。
机に置かれた手をぎゅう、と赤くなるまで握った。
其の痛みが何とか俺を正常なものに変えている。
再びまどろみの中に身を投じそうになった其の時。
懐かしい響きが聞こえた。
机から頭を上げると何故か周りには大勢の客が座っているのが自分が今いる奥の座敷からでも見える。
ふらつく足をなんとか引きずって客の視線を追った。見たのは、昼間……女。
右手に撥を持って三味線を奏でている。
昔、母や祖母が聞かせてくれたあの曲を。
足に限界がきたのかそのまま無様に膝をついてしまった。
其れをあの女に見られクスリ、と笑い再び弓を弾きはじめる。
何故だろう、胸の痞えが少し取れたような感覚がした。
不本意だが、俺はあの良く分からない女に背中を押されたような気がしてならなかった。




