通りゃんせ
「今年は豊作だそうだ」
「去年はひどかったから助かるよ」
「倭姫様が仰るのだから、間違いない」
ひそひそ、ひそひそと。
隣で酒を飲んでいる初老の男達の声が聞こえる。
ざわつく酒屋の中、ひとり白髪の男の顔がわずかに歪んだ。
男、惟神はなんとも面白くなさそうに、酒の瓶を乱暴に叩きつけた。
なんとも騒がしい音に何事か、と隣の男たちが一斉に黙り、惟神を見上げる。
それが気に入らなかったのか、ますます不愉快そうな顔をし、
「……うるせえ」
ひとつ唸ると、そのまま酒屋を出ようときびすを返す。
だがその時、声を掛けるというなんとも度胸の座った人間がいた。
「もし」
酒場の奥の、暗がりから男とも女とも見つかないような声。鈴のような声とは、このことだろうか。
その人間を惟神は不機嫌そうに睨む。それでもその人間はひるみもせず、ただ凜と立っていた。
「誰だ、あんた」
「私は斎王と申します」
斎王、と口にした途端、黙り込んでいた周りの男達が一斉に、ええ、と腰を抜かしたような情けない声を出した。
その様子を惟神は不思議そうに見、彼の近くにいた目玉が異様に輝いている目立たない男に問う。
「知ってんのか」
その男はまるで信じられないと叫び、頭を畳にこすりつけ始めた他の男たちがほそぼそとした声で答えた。
「あのおかたは、倭姫様の側近中の側近、斎王様だ! おお、こんな所でお会いできるとは」
今にもありがたや、ありがたや、と手を合わせてしまいそうな男を横目で睨みながらふうん、と興味なさそうに相槌をうった。
「それで? そのお偉いさまが俺に何か用?」
「お、お前! バカか! 斎王様になんという口の聞き方を!」
先ほどの男が哀れなほどにわあわあ騒ぎ始めだした。その周りにいた男達も「謝れ、謝れ」と阿呆のように繰り返している。
(なんなんだこいつらは。頭でもおかしくなったのか。)
「……うぜえ」
頭を垂れるしか能のない男どもにそう言えば黙る事は知っていた。
「良いのです。彼と、少しお話がしたいだけですから」
例えるならそう、後光が差すような、神秘的な笑みで周りを見渡す。
おお、と、男たちの波のような感嘆の声が広がり、そして喧噪あふれる小汚い酒屋に消えていった。
「よろしいでしょうか」
それが、惟神にとって余計に腹立たしくさせてしまっているということは誰も知らない。
「……イヤだね。俺、あんた嫌いだから。じゃ、サヨーナラ」
「あ……」
斎王の言葉が言い終わらぬうち、酒屋を出て騒がしい町の人ごみに紛れる。
これで、奴は追ってこれないはず。ひとつため息を吐き出し、伸ばしっぱなしだった白い髪が視界の端でゆらりとゆれた。
「……」
ずきり、とうずく。
胸の疵が。
「クソが」
この痛みをとるために、今日は夜までやけ酒でもあびようか。痛む疵を手で袷の上からつかみ、小さく舌打ちした。
すでに日が傾き、辺りは薄暗くなっている。
自分でも気付かぬうちに、どうやらずいぶんと時間がたってしまったらしい。
――今日は最悪だ。
朝から着物にガキの鼻水をつけられる、下駄の鼻緒が切れる、みぞに足をとられる。
それから気に入らないあの女をほめまくる親父ども。
……一番最悪なのはお偉いさんの斎王とやらと、口を利いてしまったこと。
(まったく。)
「最悪」
気の向くまま歩いていた足をとめると、何かの祠の前だった。赤い、ちいさな鳥居の奥には、陶器でできた狐がたたずんでいた。
……こんな唄があったか。
通りゃんせ通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちょっと通してくだしゃんせ
御用のないもの通しゃせぬ
このこの七つのお祝いに御札を納めに参ります
行きはよいよい帰りは怖い
怖いながらも
通りゃんせ通りゃんせ
「……」
懐かしい気分になる。昔母と祖母と一緒に歌った記憶がある。
「通りゃんせ通りゃんせ」
無意識に歌ってしまったのがいけなかったらしい。
後ろから、あの鈴のような声がきこえたのだ。
今一番会いたくない人間の声だ。
「何の、唄ですか」