うちの可愛いおひめさま!~隣国から嫁いできたツンデレ令嬢はどうやらお菓子作りが上手いらしい~
「勘違いしないでくださいまし、ジュリアン様! べ、別に、あなたのために作ったわけではありませんからね! 我がヴァルモア帝国の最先端の流行を、未開の……ゲフン、お隣のルミエール王国の方々に教えて差し上げようと思っただけですわ!」
真っ赤な顔をして、ふいっと視線を逸らした僕の可愛いお姫様――クロエ。
隣国のヴァルモア帝国から、ルミエール王国の最高峰である我がヴァレンタイン公爵家へと嫁いできた彼女は、自他共に認める高飛車なツンデレ令嬢だった。
くるくるの輝く金髪に、勝ち気な琥珀色の瞳。
いかにも非の打ち所がない、ツンと澄ました帝国のお姫様。
結婚式の日の夜、彼女は豪華なドレスの裾を揺らしながら、「私はあなたに媚びるつもりはありませんわ! 形式だけの夫婦として、お互い干渉せずに過ごしましょう!」と言い放った。
だが、拒絶される覚悟をしていた僕の目に映ったのは、緊張のあまり小鹿のように膝をガタガタと震わせ、今にも泣き出しそうなのを必死に堪えている愛らしい少女の姿だった。
(……なんだこの可愛い生き物は。守らなければ、人類の損失だ)
僕はその瞬間に彼女に完全に恋に落ち、この手で世界一幸せにしようと固く誓ったのだ。
それなのに、である。
結婚して一ヶ月。ようやく環境に慣れてきたかと思いきや、ここ一週間ほどクロエは僕の執務室にまったく顔を出さなくなった。それどころか、朝食や夕食の席でも「少し用事がありますの」と、そそくさと退席してしまう。
「まさか、僕との結婚生活に限界が来て、実家に帰る準備でもしているのでは……」
寂しさと不安に耐えかねた僕が、彼女の行方を追って屋敷の片隅にある厨房へと足を運ぶと、そこには公爵家の歴史を揺るがすような驚くべき光景が広がっていた。
「クロエ……?」
「ひゃあ!? じゅ、ジュリアン様!? な、なぜここに!? 公爵たる者が、このような神聖不可侵な……ではなく、不衛生な場所に立ち入るなど、正気を疑いますわ!」
白いエプロンを身にまとい、美しい頬に白く輝く小麦粉をつけたクロエが、猫のように跳び上がった。
いつもは髪の毛一本乱さない完璧な公爵令嬢が、今は袖をまくり、少し汗をかいて、まるで泥だらけの小動物のようになっている。その無防備な姿が愛らしすぎて、今すぐ抱きしめて頬ずりしたいのを、僕は公爵としての理性を総動員して必死に堪えた。
「いや、クロエが最近忙しそうにしているから心配でね。……ところで、その机の上にあるものは何だい?」
僕が視線を向けた先、普段は厳格な肉料理やスープが並ぶはずの調理台の上には、見たこともないカラフルなお菓子が並んでいた。
丸くて、ぷっくりとしていて、パステルカラーのピンク、ミントグリーン、レモンイエロー。上下のサクサクしてそうな生地の間に、艶やかなクリームが綺麗に挟まれている。
「……っ。み、見ましたわね! これは『まかろん』というものですわ。我がヴァルモア帝国の宮廷でも、ごく限られた一流の菓子職人しか作れない、極上の焼き菓子です。生地の乾燥具合やオーブンの温度管理がとっても繊細で難しいのですから、私のような完璧な頭脳と技術を持った人間でないと、絶対に成功しませんのよ!」
ふん、と自慢げに胸を張るクロエ。だが、隠しきれないその耳たぶは熟したトマトのように真っ赤だ。
ふと彼女の後ろを見ると、我がヴァレンタイン公爵家が誇る、気難しくて有名なベテラン料理長・ハンスをはじめとする一流の料理人たちが、全員揃って白いコック帽を脱ぎ、床に膝をついていた。
「若奥様の料理技術は神の領域です……」
「あの異世界の如き完璧なピエの焼き上がり、感服いたしました……」
涙ぐみながらクロエを神聖な生き物のように拝んでいる。
どうやら彼らは、すでにクロエの圧倒的な胃袋掴みによって、完全に買収されて臣下となっていたらしい。
「ジュリアン様、その、お口に合うかは分かりませんけれど……。ほ、本当にたまたま、焼きすぎて少し形が不揃いになってしまった『失敗作』がありますの。捨てるのはもったいないですし、我が国の慈悲の精神として、毒見をして差し上げてもよろしくてよ?」
失敗作、と言いながら、彼女がトレイに乗せて差し出してきたのは、どこからどう見ても完璧な丸みを帯びた、一番出来の良いピンク色のまかろんだった。
僕は微笑みながら、それをそっと指でつまみ、一口かじる。
サクッ。
儚いほど繊細な外側の食感。その直後、内側のしっとりとした生地の歯触りと、挟まれたフランボワーズクリームの甘酸っぱさ、そして高級なアーモンドの香ばしい香りが口いっぱいに広がった。
「――っ! 美味しい! 素晴らしいよ、クロエ! 我が国の王宮の最高級デザートでも、これほど繊細で、心を豊かにしてくれるお菓子は食べたことがない!」
「なっ、大袈裟ですわ! ……でも、ふん、当然ですけれど! 私の手作りを食べて美味しくないはずがありませんわ!」
嬉しそうにふんぞり返る彼女の背後に、僕には見えた。大きな狐のような、あるいはふさふさしたリスのような尻尾が、嬉しさのあまりパタパタと超高速で振られている幻覚が。本当に、この妻は分かりやすくて可愛い。
「そうだ、ジュリアン様。そこのむさ苦しい男たちにも、少し分けてあげましたの。味の感想を、今後の外交の参考にして差し上げますわ」
クロエがそう言うと、後ろの料理人たちが「おおお……!」と地鳴りのような歓声をあげた。
「若奥様、このハンス、一生ついていきますだ!」
「次のお菓子のご指導もよろしくお願いいたします!」
「な、なによ、うるさいですわね! 私はただ、あなたたちの手際が悪くて見ていられなかっただけですわ!」
キャンキャンと怒鳴るクロエだが、料理人たちに慕われて嬉しそうなのは一目瞭然だった。こうして、公爵邸の厨房は完全にクロエのお菓子帝国へと変貌を遂げたのだった。
それからというもの、クロエの「お菓子作り」は日課になった。
ある日は香ばしいパウンドケーキ、ある日は口の中でとろける生チョコレート。
その度に、彼女は「廊下に落ちていましたの」「多めに作りすぎて我が国のゴミ箱が溢れそうでしたから」と、常人には理解できないツンデレ理論を展開しながら、僕の執務室に素晴らしいお菓子を届けてくれた。
おかげで、僕の毎日の激務はクロエの甘いお菓子と、彼女の可愛さによって完全に癒やされていた。
しかし、幸せな日々は時に試練を伴う。
ここ数日、隣国との貿易協定の更新と、領地での魔獣の小規模な大量発生が重なり、僕は文字通り不眠不休の事態に陥っていた。
執務室の机には山のような書類。目の下には濃いクマ。食事を摂る時間さえ惜しく、給仕が運んできた豪華な肉料理も、喉を通らずに手付かずのまま下げさせることが続いていた。
「はぁ……。クロエに会いたいな。彼女のツンツンした声を聞けば、一発で元気になれるのに」
机に突っ伏して、僕は限界を迎えていた。僕の心が完全に折れかかっていた、その時だった。
コンコン。
いつもより、少し遠慮がちで、静かなノックの音が響いた。
「どうぞ……」
僕が掠れた声で返事をすると、ゆっくりとドアが開き、クロエが姿を現した。
いつもなら「ジュリアン様、入って差し上げますわ!」と堂々と入ってくる彼女が、今は小さなガラスの器を乗せた銀のトレイを、両手で大事そうに抱えて、おずおずと歩いてくる。
「ジュリアン様。……あ、あら、お疲れのようですわね。ルミエール王国の公爵ともあろう者が、そんな情けない顔をして、見苦しいですわ。仕方のない方。これを食べるといいですわ」
クロエは僕の目の前に、そっと器を置いた。
器の中で、淡い黄色のまあるい食べ物がぷるぷると揺れている。その上には、焦げ茶色の艶やかな、少し苦味を予感させるソースがとろりとかかっていた。
「これは『ぷりん』というものですわ。卵と牛乳、そして砂糖だけで作った、とても柔らかくて優しいお菓子ですの。あなたが……その、最近あまりご飯を食べていないと、風の噂で耳にしましたので。これなら、咀嚼する力すら残っていない無能なあなたでも、ツルリと喉を通るかと思いましてよ」
最後の方は、いつもの勢いはなく、まるで蚊の鳴くような小さな声だった。
彼女の琥珀色の瞳は、傲慢さなど微塵もなく、ただただ僕の体を本気で心配そうに見つめている。
「ありがとう、クロエ。せっかく君が持ってきてくれたんだ、いただくよ」
僕は震える手でスプーンを握り、ぷるぷるの黄色い生地をすくって口に運んだ。
「――ッ!?」
口に入れた瞬間、言葉を失った。
濃厚な卵のコクと、ミルクの優しい甘みが、噛む必要もなく口の中でとろけて消えていく。そして、その後に広がる、ほんのりほろ苦いカラメルソースの絶妙なアクセント。それは、疲れ切った脳と胃袋に、一切の負担をかけずに染み渡っていく、魔法の栄養液のようだった。
「美味しい……。美味しいよ、クロエ。なんだか、張り詰めていた頭が、すごくホッとする。体が温かくなっていくみたいだ」
「だ、誰があなたの為などと! さっきも言いました通り、材料の卵の賞味期限が危なかったから、処分に困って作っただけですわ! 勘違いしないでくださいまし!」
いつものように顔を真っ赤にして、ふいっと横を向くクロエ。
けれど、僕は気づいてしまった。
彼女が持ってきたトレイの端に、一枚の小さな紙片――彼女がいつもお菓子のアイデアを書き留めている、可愛い刺繍入りのレシピノートを剥ぎ取ったメモが、紛れ込んで挟まっていることに。
そこには、彼女の見た目に反した、丸っこくて愛らしい筆跡で、こう書き残されていた。
『ジュリアン様が、最近お忙しそうで本当に心配。お顔の色も悪いし、お食事も残されているみたい。お疲れの時には、胃に負担がかからなくて、栄養がある卵を使った優しいぷりんが良いかしら。甘さは控えめにして、カラメルを少し苦めにすれば、大人の男性である彼も喜んでくださるはず。どうか、ジュリアン様が美味しく食べて、元気になりますように。私の大好きな、彼の笑顔が戻りますように』
「私の、大好きな、彼の笑顔……」
メモの文面を頭の中で反芻した瞬間、僕の脳内で何かが弾けた。
疲労感など一瞬でどこかへ吹き飛んだ。愛しさと、尊さと、圧倒的な多幸感が、僕の全身の細胞を駆け巡る。限界突破、という言葉すら生ぬるい。
がたんっ!
「ひゃうっ!?」
僕がいきなり勢いよく立ち上がったため、クロエが肩をすくめて驚いた。
僕は机を回り込み、大股で彼女へと近づく。
「じゅ、ジュリアン様? まだぷりんが残って……むぐっ!?」
驚くクロエの言葉を最後まで言わせず、僕は彼女の華奢な体を、背後からこれ以上ないほど強く、優しく抱きしめた。
「じゅ、ジュリアン様!? な、何、何をしますのーーー!? ここは執務室ですわよ! 誰か入ってきたらどうするのですか! 不潔、破廉恥、公序良俗に反しますわ!」
「嫌だ。絶対に離さない」
「なっ……!」
彼女の背中に僕の胸をぴったりと押し付け、その細い腰に腕を回して固定する。クロエの体から、甘いバニラと砂糖の香りがして、それだけで僕の荒んだ心が完全に満たされていく。
「嘘つきな、僕の可愛いおひめさま」
「う、嘘などついていませんわ! 私はいつでも真実のみを……」
「じゃあ、これは何だい?」
僕は自由な方の手で、トレイから抜き取ったレシピノートのメモを、彼女の目の前にかざした。
「――っ!!!!」
クロエの動きが、完全にカチコチと固まった。
自分の書いた「大好きな彼の笑顔」という文字を目視した瞬間、彼女の白い肌が、みるみるうちに首筋から耳の裏、そして頬へと、爆発したかのように真っ赤に染まっていく。
「な、ななな、なぜそれを持っていますのーーー!? 悪趣味ですわ! 泥棒ですわ! 他人の機密文書を盗み見るなんて、我が国の法律なら即刻、禁錮刑ですわよ! 早く、早く離してくださいまし!」
「嫌だよ。これは僕宛ての、世界で一番甘くて美味しいラブレターだからね。家宝にするよ」
「ラ、ラブレターなんて、そんな破廉恥なものではありませんわ! ただの業務連絡用のメモですの!」
「自分の旦那様への愛が詰まった業務連絡なんて、聞いたことがないな。クロエ、君のお菓子も世界一美味しいけれど……僕は君のその、僕を想ってくれる優しい心が、何よりも愛おしくてたまらないんだ。ねえ、本当は僕のことが好きなんだろう?」
やがて、彼女は抵抗するのをやめ、小さな両手で、僕の服の袖をぎゅっと、引きちぎらんばかりの強さで掴んだ。
「……意地悪。……本当に、意地悪ですわ、ジュリアン様」
「うん、自覚はあるよ。君が可愛すぎるのが悪いんだ」
「……だって、仕方がありませんでしょう。あなたが……あなたが、他の方とお話ししている時はあんなに冷徹で怖いお顔をなさるのに、私の前では、いつも優しく微笑んでくださるから……。私の作ったお菓子を、世界一幸せそうに『美味しい』って笑ってくれるから……。私、あのお顔が、一番、好き、なんですの……っ」
消え入りそうな声で、ついに本心を、最大級のデレを吐露してくれた、我が家のおひめさま。
腕の中でそっと向き直らせると、彼女の琥珀色の瞳には、恥ずかしさと愛しさで、じわりと涙が浮かんでいた。その表情は、どんな精巧な芸術品よりも、どんな甘い高級菓子よりも、言葉にできないほど綺麗で、僕の心を完全に狂わせるのに十分だった。
「クロエ。僕は君と結婚できて、本当に幸せだ。政略結婚だなんて、二度と言わせない。僕たちは、世界一の恋愛結婚だよ」
「……ふん、当然ですわ。私を妻にできたのですから、あなたは毎日、神に感謝の祈りを捧げるべきですわね」
「そうだね。毎日捧げるよ。……だから、ご褒美をちょうだい?」
「ご褒、び……?」
それからのヴァレンタイン公爵邸は、文字通り劇的な変化を遂げた。
領地の魔獣問題も、貿易協定も、元気を取り戻した僕の超高速ワークによって数日で完結。時間ができた僕は、毎日のように厨房へと通い詰めるようになった。
「ちょっと、ジュリアン様! 邪魔ですわ! 小麦粉をこねる私の手を、後ろから握って一緒にこねる必要がどこにありますの!?」
「だって、こうしないと均等に力が入らないだろう? ほら、クロエ、次はこっちのイチゴのヘタを一緒に取ろう」
「な、何を言っていますの! ただベタベタ触りたいだけでしょう! あ、料理長! あなたからもこのバカ旦那様に何か言ってくださいまし!」
助けを求められた料理長ハンスは、静かに目を逸らし、十字を切った。
「いやあ、若奥様。公爵閣下がこれほど生き生きとされている姿は、生きてて初めて見ましただ。我々厨房一同、お二人の熱いご様子で、オーブンの火力を節約できて大助かりでございます」
「なっ、料理長まで何を言っていますのーーー!?」
顔を湯気が出るほど真っ赤にして怒るクロエを、僕は再び、全肯定の笑顔で抱きしめる。
「ご馳走様、クロエ。これからは、お菓子だけじゃなくて、君のことも毎日たっぷり、一生をかけて愛させてね」
「……もう、勝手になさいまし。その代わり、毎日『美味しい』って、私だけを見て言わなければ、絶対に許しませんからね!」
ツンとそっぽを向きながらも、僕の胸にトスッと頭を預けてくる我が家のおひめさま。
今日もヴァレンタイン公爵邸の厨房からは、お菓子よりも何百倍も甘い、二人の幸せな声が響き渡るのだった。




