第9話:世界の天井に『シミ』がついた日
その日、東京の空が割れた。
正午過ぎ。
都心の上空に、突如として巨大な「黒い亀裂」が走ったのだ。
それはまるで、世界という絵画を引き裂いたかのような傷跡だった。
「緊急速報です! 東京上空に『次元の裂け目』が発生! 測定不能の魔力が降り注いでいます!」
「S級探索者の攻撃も通用しません! 物理攻撃が透過してしまいます!」
「避難してください! このままでは東京が消滅します!」
街中にサイレンが鳴り響き、人々が逃げ惑う。
裂け目からはドス黒い瘴気が垂れ流され、触れたビルが飴細工のように溶解していく。
それは、まぎれもなく「世界の終わり」の始まりだった。
――しかし。
株式会社クリーン・ファンタジーの屋上では、一人の男が呑気に空を見上げていた。
「あーあ。天井のクロス、張り替えたばっかりなのに」
灰坂ソウジは、腰に手を当てて溜め息をついた。
彼の目には、空の裂け目が「白い天井に広がった、コーヒーの大きなシミ」にしか見えていない。
「誰だよ、上階でコーヒーこぼしたの。雨漏りしてんじゃねーか」
彼はスマホを取り出し、スケジュールを確認する。
今日の午後の予定は空いている。
「しゃーない。大家さんに怒られる前に、チャチャッと直しておくか」
彼はポケットから無線機を取り出し、階下の資材置き場にいる社員たちに指示を飛ばした。
「おーい、コアちゃん、セシリア。資材搬入頼むわ。いつもの『足場』組むから」
***
数分後。
クリーン・ファンタジー社の屋上から、一本の塔が天に向かって伸びていった。
それは、ソウジが以前ダンジョンで回収した「巨大な鉱石」を、適当なサイズに切り出して積み上げたものだ。
地球上で最も硬く、魔法を弾く伝説の金属。
それが惜しげもなく「工事用の足場」として組まれていく。
「しゃ、社長……これ、国宝級のオリハルコンですよね……?」
「ん? ああ、あの石ころか。丈夫で滑らないから、足場に丁度いいんだよ」
ソウジは電動ドライバーでオリハルコンをガガガッと固定しながら答える。
手伝っているセシリア(聖女)は、震える手でその光景を配信していた。
『嘘だろ……オリハルコンで足場組んでる……』
『バベルの塔かな?』
『総工費いくらだよこれ』
『丈夫で滑らない(数兆円)』
視聴者がドン引きする中、足場はあっという間に雲を突き抜け、成層圏に近い高さまで到達した。
強風が吹き荒れ、気温は氷点下。
普通の人間なら即死する環境だが、ソウジは作業服(ファン付き作業着)一枚で平然としている。
「よし、到着」
ソウジは足場の最上段に立ち、目の前の「シミ(次元の裂け目)」と対峙した。
近くで見ると、やはり酷い汚れだ。
裂け目の奥からは「グォォォォ……」という地獄の呻き声が聞こえるが、ソウジには「風の音がうるさいな」程度にしか認識されていない。
彼は腰のベルトを確認し、指差し確認を行った。
「足場ヨシ! ヘルメットよし! 安全帯(命綱)ヨシ!」
カチャリ、とフックをオリハルコンの手すりに掛ける。
どんな現場でも、労働安全衛生法を守るのがプロの流儀だ。
「そんじゃ、行きますか」
彼が取り出したのは、最長10メートルまで伸びる『業務用・高所作業用伸縮モップ』。
先端には、汚れを吸着するマイクロファイバー製のクロスが装着されている。
「伸びろ、如意棒!」
シュパッ!
モップが伸び、次元の裂け目に接触する。
「愚かな人間よ……我に触れれば、その魂ごと消滅――」
裂け目から響く邪悪な意志。
だが、ソウジは聞く耳を持たない。
「ゴシゴシゴシゴシ!」
彼は一心不乱にモップを動かした。
スキル【完全清掃】が発動し、モップの繊維が次元の歪みを「汚れ」として絡め取ろうとする。
「ギャァァァァァ!? 痛い! 擦るな! 我は次元だぞ!?」
「くっ……やっぱり染み込んでるな。表面だけ擦っても落ちないぞ」
ソウジは眉をひそめた。
普通の汚れならこれで落ちるはずだが、今回のシミは天井(空間)の繊維の奥まで入り込んでいる。
ただの拭き掃除では、完全に除去するのは難しそうだった。
『効いてるぞ! 裂け目が悲鳴上げてる!』
『次元をモップで擦る男』
『高所作業のおっさんが世界を救う映画』
『安全帯ヨシ!』
世界中が固唾を飲んで見守る中、ソウジはモップを収め、ポケットからスマホを取り出した。
そして、地上で待機しているコアちゃんに連絡を入れる。
「あー、コアちゃん? 悪い、手洗いじゃラチが明かないわ」
『えっ、じゃあ撤退しますか?』
「いや、アレを使う。倉庫から『洗濯機』持ってきてくれ」
その言葉に、全世界の視聴者が首を傾げた。
洗濯機?
こんな空の上で?
何を洗うつもりなんだ?
ソウジはニヤリと笑い、眼前の「巨大なシミ」を見据えた。
「ここは一回、丸洗いだな」
職人の目は、まだ死んでいなかった。
むしろ、頑固な汚れを前にして、楽しそうに輝いていた。
(続く)




