第2話:それは戦闘ではない、ただの『染み抜き』だ
その時、日本中のスマホが震えた。
D-Liveの緊急災害チャンネルが、新宿地下で発生した異常事態を通知したからだ。
『S級災害認定:ダスト・ドラゴンの覚醒を確認』
お昼時のサラリーマン、授業中の学生、家事の合間の主婦。
数千万人が一斉に画面を開く。
そこに映し出されていたのは、地獄のような光景だった。
腐敗したヘドロの海から鎌首をもたげる、ビルほどもある巨大なドラゴン。
そして、その足元に立つ、くたびれた作業着姿の小さなオッサン。
『は? 誰これ』
『一般人!? 逃げろオッサン死ぬぞ!』
『いや待て、あれダスト・ドラゴンだぞ! S級モンスターじゃねえか!』
『終わった……これ国家転覆レベルの災害だぞ』
絶望的なコメントが流れる中、灰坂ソウジだけは冷静だった。
いや、彼の目には「絶望」など映っていなかった。
彼の装着した『解析ゴーグル』のレンズには、無機質なARウィンドウがポップアップしていたからだ。
【警告:特大の「複合汚れ」を検出】
【種別:換気扇の油汚れ(数百年モノ)】
【推奨:強力アルカリ洗浄剤による中和】
「うわぁ……やっぱり油汚れか。しかも層が厚いな」
ソウジは眉をひそめた。
彼には、眼前の神話級モンスターが「キッチンの換気扇にこびりついた、茶色いネバネバの塊」にしか見えていない。
数百年蓄積されたドラゴンの魔力障壁も、彼にとってはただの「頑固な油膜」だった。
「グルルルルゥ……!!」
ドラゴンが大きく息を吸い込む。
口腔内にどす黒い紫色の霧が充満する。触れれば骨まで溶ける、即死級の腐敗ブレスだ。
『ブレス来るぞ!!』
『アカン』
『グロ注意』
視聴者が画面から目を背けようとした瞬間。
ゴーグルが赤いアラートを点滅させた。
【警告:悪臭ガスの噴出を確認】
【対処:消臭および除菌を行ってください】
「ったく、換気もしないで焼き肉したのか? 臭うんだよ!」
ソウジは腰のホルスターから、黄色いボトルを抜き放った。
トリガーに指をかけ、ドラゴンの口内めがけて一気に噴射する。
「くらえ、『スライムキラー・ハイパー(業務強酸性モデル)』!」
シュッシュッ、と軽快な音が響く。
ノズルから放たれたのは、彼が独自に調合した、界面活性剤濃度99%の特製洗剤だ。
それがドラゴンの口内に着弾した、次の瞬間。
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!」
鼓膜をつんざく絶叫が響き渡った。
洗剤に含まれる成分が、ドラゴンの魔力障壁(油膜)と化学反応を起こし、激しい白煙を上げて分解(乳化)していく。
『!?』
『ファッ!?』
『何が起きた??』
『今、洗剤かけただけだよな? なんでドラゴンが悶絶してんの?』
『目に入ったんじゃね?』
『いや、HPバー見てみろ! 「魔力障壁」が全損してるぞwww』
視聴者の混乱をよそに、ソウジはゴーグルの表示を見て「よし」と頷いた。
【進捗:表面コーティングの剥離に成功】
【ステータス:汚れが浮きました】
「うんうん、いい感じで汚れが浮いてきたな。やっぱプロの洗剤は違う」
彼にとっては、相手の悲鳴は「汚れが落ちていく音」にしか聞こえない。
激痛に狂ったドラゴンは、なりふり構わず巨大な前足を振り上げた。
質量数トンの踏みつけ。
物理的な破壊力が、ソウジの頭上に迫る。
だが、ゴーグルの解析は冷徹だ。
【警告:泥汚れの付着を予測】
【対象:泥だらけの靴】
【推奨:モップによる拭き上げ】
ソウジの目には、それが「掃除したばかりの床を汚そうとする泥だらけの靴」に見えていた。
「あーっ! こら! そこワックス掛けたばっかりだぞ!」
カッッッ!
ソウジの愛用モップが閃いた。
それは剣術のような鋭い一撃ではなく、あくまで手首のスナップを利かせた「床拭き」の動作。
だが、スキル【完全清掃】の概念干渉が乗ったそのモップは、ドラゴンの前足を「床に不要なゴミ」と判定した。
――ズンッ。
床に叩きつけられたのは、ドラゴンの足首から先が消失した断面だった。
血は出ない。
切断面は、まるで最初からそこになにも無かったかのように、ピカピカに磨き上げられていた。
「GYAGYAAAAAAAAAAAA!!!」
バランスを崩し、巨体が横倒しになる。
『うおおおおおおおおおおおおおお!』
『足消えたああああああああああ!』
『斬ったんじゃない、拭き取ったんだ! マジで何者だこのオッサン!?』
『背中のロゴ見ろ! レイディアントの清掃員だぞ!』
『同接100万人突破www』
画面の向こうで世界中が熱狂し、スパチャの雨が降り注ぐ中。
当のソウジは、消しゴムで消したように消滅したドラゴンの足跡を見て、ゴーグルの中で深いため息をついていた。
【評価:拭き残しあり】
「はぁ……やっぱり安物のモップじゃ、キレが悪いな」
彼は額の汗をぬぐい、倒れ伏すS級ドラゴンを見下ろす。
「さて。こびりついた汚れの核(心臓)、ピンセットで摘出するか」
彼が腰のポーチから工具を取り出したその姿は、英雄というよりは、精密機械の修理工そのものだった。
(続く)




