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婚約破棄されたけど、殿下が泣きながら復縁を求めてきました

 玉座の間は、夏の陽よりも冷たかった。

 磨かれた床に、私の影だけがひどく細く伸びる。


「侯爵令嬢リリアーナ・フェルメール。そなたとの婚約を、ここに破棄する」


 王太子エルネスト殿下の声は、氷の刃のように澄んでいた。

 側には殿下の“友人”と噂される伯爵令嬢ミレーネが寄り添っている。彼女の唇は、勝者の色をしていた。


「罪状は?」私は丁寧に問い返す。

「嫉妬深く、醜悪な妨害。ミレーネ嬢の舞踏会用ガウンに硝子粉を仕込み、肌を傷つけた。さらに毒入りの菓子を……証言と証拠は揃っている」


 差し出された銀皿の上に乗る小瓶と、見慣れぬ刺繍針。

 私のものではない。だが、無関係というだけで逃れられる場ではなかった。


「無実です」

 それでも、私は口にする。

 殿下は目を伏せ、ほんのわずかに睫毛を震わせた。その震えは迷いにも、演技にも見えた。


「……王家の決定だ。退廷を」


 私は礼をとり、ひとつ息を吐いた。ここで声を荒げる女は、都合よく“醜悪”にされる。

 踵を返した時、ミレーネの甘い香水が鼻を掠める。蜂蜜に漬けた花。濃すぎる匂いは、やがて喉に苦い。


 扉が閉まり、私の婚約も閉じられた。


     ◆


 昼過ぎの馬車は、王都の喧騒を小さく引き剥がしていく。

 窓の外に瓦屋根が連なり、やがて土壁と草原に変わった。


 屋敷に戻ると、父は短く言った。「しばらく領地を離れよ」

 母は濃いヴェールで目元を隠した。「……嵐が過ぎるまで」


 嵐は、ただ待てば過ぎるものだろうか。

 私は答えず、最低限の衣服と裁縫道具、帳簿ひとつを皮鞄に詰めた。貴金属は置いていく。誰かがそれを“盗んだ”と言い出さぬように。


 向かったのは、王都から北へ三日の辺境の町。交易路の途切れる手前、森の縁に張り付くように家々が並ぶ。

 街道には兵の姿が多かった。国境での小競り合いが続き、王都には負傷兵が溢れているという。


 宿の女将は、私の身なりを一度だけ見て、余計なことを訊かなかった。「干し肉とスープならすぐ出せるよ」

 そして布巾を指さす。「手が空いてるなら、これらも縫い直しておくれ。客が多くてね」


 針と糸は、私にできることだった。

 襟を返し、端をまつり、布の疲れを撫でるように繕う。帳簿を借り、足りないものと余るものを見える形に置き直す。

 翌朝、私は市場に出て、根菜と丈夫な布を少し仕入れた。値切らない。かわりに「明日の朝、余りを買うわ」と約した。


 その夜、宿はほんとうに満室になった。

 泥だらけの外套を脱ぐ兵たち。肩や脇腹に巻かれた包帯が赤く滲んでいる。医師は足りず、薬は薄い。女将は困ったように眉をひそめた。


「湯を沸かしましょう。塩を多めに。干したハーブはあります?」

「裏の棚だよ。まさか、嬢ちゃんが?」

「毒ではありません。ただの台所の手当てです」


 私は鍋に湯を張り、塩と砕いたハーブを入れ、布を浸した。熱すぎない温度に冷ましてから、傷の周りを丁寧に拭う。

 痛む顔が少しずつ緩む。

 私は医師ではない。でも、医師のいない夜にできることはある。


 そんな夜に――


「宿の主はいるか」


 低い声が戸口から落ちた。

 振り向くと、濃紺の軍衣を着た男が立っていた。濡れた外套から、森の匂いがする。

 鋼のような横顔。灰色の瞳が、室内を一度で計る。


 女将が慌てて前に出る。「あ、あの、満室でしてね、将軍様」

 将軍? あの名高い北辺の――


「構わん。兵は外で寝る。二刻だけ、屋根と湯を借りる」

 男は短く言い、私の手元を見た。

 湯に浸した布、草の香り、整然と並んだ包帯、そして――私の顔。


「……誰だ」


 視線は武器より鋭い。私は手を止め、礼をした。

「行きずりの繕い手です、将軍。宿の手伝いを」

「名は」

「リリアーナ」


 男は一拍ののち、ふっと、風が向きを変えるように口端だけ笑った。


「ヴァルター・エッカルト。北辺軍第二師団、臨時司令」

 噂に聞く、冷徹の将。敗走すれば容赦なく切り捨て、勝てば徹底的に守るという。


 彼は濡れた手袋を外し、私の掌の上に置かれた布を持ち上げた。「この混ぜ物は」

「塩とタイムと、よく乾かしたセージ。熱を落ち着かせ、匂いを抑えます」

「毒ではないのだな」

「ええ。台所のほうが、よほど生命に効くものです」


 ヴァルターは短く頷き、部下に命じた。「このやり方で全員の傷を拭け。糧食の支払いは倍にしておけ」

 そののち、私に向き直る。

 灰色の瞳が、氷の下の水のように静かに揺れた。


「リリアーナ。――婚約者を譲れ」


 私は、布を落としそうになった。

「……は?」

「王都でお前を捨てた馬鹿のことだ。譲れ。うちの隊は人手が足りん。帳簿が読めて針が持てて、嘘をつかない女が必要だ」


 婚約者、という言葉の選び方は不器用だったが、意図は理解できた。

 “お前を貰う”。

 無骨で、まっすぐで、汚れていない求婚。


 笑ってしまった。嬉しさではない。そんな自分が少し哀しくて、でも少し救われることが、可笑しかった。

「……譲るも何も、もう破棄されました」

「なら都合がいい」

「私を雇う、と言ってください」

「――雇う」


 彼の声は短いが、重みがあった。私は頷いた。


     ◆


 私は隊の野営に加わった。

 薪を割る音、湿った土の匂い、夜毎の咳。

 私は湯を温め、塩と草を撹拌し、兵の衣を繕い、破れた荷袋を補修し、奪い合いになりがちな配給表に数式の秩序を与えた。

 ヴァルターは夜明け前に地図を広げ、黙って私の前に置いた。私は道の状態、村の倉、井戸の位置、噂の流れを書き足した。

 彼は無駄口を叩かず、しかし誰かが倒れれば自ら担いだ。粗野だが、手は荒くない。


 いつからか、兵たちは私を“奥方”と呼び始めた。

 否定すれば茶化され、黙れば笑われた。

 ヴァルターは一度だけその呼び名を咎めた。「まだそうではない」

 まだ――彼の言い方に、私の指先は熱くなった。


 夜、篝火の向こうで、ヴァルターが言った。

「王都では、泣いたか」

「泣きませんでした。泣いた顔を彼らに渡したくなかったから」

「今は」

「今は――」


 言い淀む私に、彼は小さく「そうか」とだけ置いた。

 静かな慰め。そこには言葉より確かな“居場所”があった。


     ◆


 冬が来る前、北辺は一度大きく燃えた。

 敵は森に火を放ち、風下の我々に煙を浴びせた。

 混乱する野営地で、私は食糧袋と薬草箱を背負い、数歩の距離で迷子になりかけた。

 腕を引く手がある。ヴァルターだった。


「離れるな」

「はい」

「……いずれ、式を挙げろ」


 炎の音に紛れての言葉は奇妙に穏やかだった。

 私は頷いた。燃える森の向こうに、新しい生活の形が、一瞬見えた気がした。


     ◆


 春が来た。

 戦は、境界線を薄く塗り直しただけで終わった。

 その頃、王都で疫が出たという報が入る。

 乾いた咳、夜の熱、高い子供の泣き声。

 私はかつての屋敷の薬草庫を思い出した。母が密かに配っていた小袋。

 王家は医師団をすぐには動かせない。人の噂は兵より速い。北辺の“台所の手当て”の効き目も、いつの間にか街道を駆けた。


 やって来たのは、王都からの正式な使者だった。

 冠羽のついた帽子、紋章入りの封蝋。

 使者は私とヴァルターを見比べ、苦渋の声で告げる。「王太子殿下のご命令だ。王都へ戻り、治療と物資の管理を――」


「断る」

 ヴァルターの返答は速かった。

「命令だぞ。違反すれば」

「この隊は国境を守る。王都の混乱に兵を抜けば、国境は穴だらけだ」


 使者は唇を尖らせ、視線を私に移す。

「嬢君。殿下は、あなたをお呼びだ」

 私は一度だけ目を閉じ、開いた。


「……行きましょう。物資と手順を置いてくれば、こちらの負担も減ります」

 ヴァルターは何も言わなかった。ただ、出立の朝、私の指に古い銀の指輪を嵌めた。

「戻ってこい」

「ええ。――式を挙げるのでしょう?」

 彼はほんの少しだけ笑った。


     ◆


 王都は、私が知っていた形をして、違う匂いをしていた。

 消毒の硬い匂い、焦げた薬草、汗と涙。

 私は広場に鍋を置かせ、子供でも作れる塩水の作り方と、布の洗い方と、熱の測り方を説明した。神殿にも同じ手順を教え、帳簿係に配給の列の作り方を教えた。

 それだけで、いくつかの家の夜が穏やかになった。王宮の立派な薬棚は、使い道のない虚飾を半分抱えていた。


 ――三日目の昼下がり。

 呼び出しが来た。

 玉座の間の扉は、前より重く感じた。


 王太子は、やつれていた。

 睫毛は以前より長く見えた。あの時の震えは、今度は迷いではなく、後悔の形をしていた。


「リリアーナ……」

 呼び捨てでも、過剰な敬称でもない、私の名。

「すまない。私が、間違っていた。君を傷つけた。ミレーネは――」


 私は手を上げて、言葉を止めた。

 謝罪の言葉は、私の傷口の形に合わない。

 殿下はまっすぐに膝をついた。床に、乾いた音。


「戻ってきてくれ。私には君が必要だ。国にも、君が――」


 私は、静かに微笑んだ。

 ずっと練習してきた笑み。誰にも渡さなかった笑い方。


「――あなたの涙は、もう届きませんわ」


 殿下の瞳が、大きく開いた。

 私は続ける。低く、しかし誰の耳にも届く声で。


「私は捨てられたのではありません。あなたが、手放したのです。

 そして私は、自分の手で、私を拾い上げました。台所で、野営地で、泥の上で。

 私を必要とする場所は、涙で濡れた床の上ではなく、薪の火のそばにあります」


 背後で、ざわめきが起きた。

 誰かが「よく言った」と小さく呟いた。

 誰かが「黙れ」と叱った。言葉は波のように寄せては返す。


 殿下はなおも尚書のように言葉を並べようとしたが、私は首を振った。

「あなたが必要としたのは“無実の私”ではありません。あなたの都合に合わせて沈黙する私です。

 私はもう、沈黙しません」


 玉座の間に、風が入った。

 重い緞帳が揺れ、埃が光った。


「……では、君の望みは」

「国境に、人と、塩と、布を。兵と村に、同じ手順を。王都の余りの見栄を削って、そこへ回してください」

「そんなことは私が指示すれば――」

「指示して、実行して、続けてください。名誉は要りません。私の名も要りません。

 ただ、国が、持ち堪えれば」


 殿下は顔を覆い、肩を震わせた。

 泣いているのだと遅れて気づく。

 私は近づかない。手も差し伸べない。そこは、私がいるべき場所ではない。


 踵を返すと、衛兵が道を開けた。

 扉が閉まる直前、私は振り向かないまま言う。


「さようなら、殿下。どうか良い王になって」


     ◆


 王都を出ると、春はもう初夏の柔らかさを帯びていた。

 街道の端で、子供が塩水の比率を書いた板を掲げ、競うように暗唱している。

 私はひとつ微笑み、馬車の帆を下ろした。


 北へ。

 風は森の匂いを運ぶ。遠くから、金属の打ち合う音。

 野営地に近づくと、最初に聞こえるのは笑い声だ。たぶん、あの陽気な弓兵。次に、おどけた調子で私を“奥方”と呼ぶ軽口。

 最後に、短く「戻ったか」と言う低い声。


 幕舎の前で、ヴァルターが立っていた。

 陽に焼けた皮膚、額の古い傷、灰色の瞳。

 私は歩み寄り、彼の胸に額を預けた。金属の匂いと、薪の匂い。


「ただいま」

「ああ」


 指先に、銀の指輪。

 彼の掌が、私の背をゆっくり撫でる。


「王都は」

「忙しくて、賑やかで、……少し、泣いていたわ」

「お前は」

「泣かなかった。でも、今は安心して泣ける」


 彼の胸の中は、私が泣いても崩れない。


「式を挙げよう」

「はい。花は、野にあるもので良いかしら」

「森が貸してくれるさ」


 私は顔を上げ、野営地を見渡した。

 兵のテント、干された布、湯気の立つ鍋。

 どれもが、私の居場所の輪郭をしている。


 ヴァルターが、ふと眉を上げた。

「王太子は、どうした」

「泣いて、謝って、そして――王になるでしょう」

「そうか」


 彼は素っ気なく言い、次の瞬間には真面目な顔に戻った。「配給表の新しい案を見せろ。人数が増える。南から新米が来るし、森の道は雨で悪い」

 私は笑った。

「了解しました、司令殿」


 紙束を受け取り、私は地面に膝をつく。

 墨の匂い。指先の確かな仕事。

 私が捨てられたのではない。私が選んだのだ。

 台所の火のそばにいることを。

 涙の床から遠く、風の通る場所で生きることを。


 鍋がふつふつと音を立てる。

 私は木杓子で、湯の温度を確かめた。


 新しい生活は、いつだって、台所から始まる。

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