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ある夏の日の出来事

 清々しく晴れ渡った海の如き空に、燦々と燃え盛る太陽が浮かぶ。地から沸き立つ陽炎は現の世を幻と化し、耳を劈かんばかりの蝉の声はしかし、今この時を精一杯に謳歌する魂の叫びとなって辺り一帯に木霊した。そよぎ立つ風ですら蒸発してしまいそうな程の熱を持つ中、俺は短パンにシャツ一枚という軽装で家を出た。尻ポケットに金の詰まった長財布を差し込み、草履を突っ掛けていざ夏祭りへ出陣する。本番である盆踊りまでの数時間、存分に昼の祭りを堪能してやるのだ。


 友人知人と巡る祭りも悪くは無いが、ただ独りぶらぶら自由気ままに祭りを楽しむのも中々に乙なものである。誰に気兼ねする事もなく、ふわふわとした足取りで向かった近所の稲荷神社の境内には、すでに多くの屋台が立ち並び、的屋が張り裂けんばかりの声で客を呼び込んでいた。向かい合った対の狛狐の前を通り鳥居を通り抜ける。


 イカ焼きやたこ焼き、人形焼きにりんご飴、他にも冷やしきゅうりなどを扱う屋台。当たりもしないくじ引きなどは、小さな子供達に夢を売る定番だろう。金魚掬いなんてもう十何年もしていない。最近は金魚だけでなくスーパーボールやら指人形、更には百円均一なんかで売られているジュエルポリマーを代わりにしている屋台なんかもあって、幼かった日々の記憶とは随分変わった印象を受ける。


 俺が小さい頃には型抜きなんてモノもあったが、どうやらこの祭りではそんな屋台はないらしい。或いは時代の流れに淘汰されて消えていったのか……

 いずれにせよ、そこにある祭りの風景は幼き日の思い出と似てはいても、それとはまた異なった雰囲気に包み込まれ真新しさも同居させているのだった。


 大学の仲間達との集合時間まではまだ五時間程。夏休みに入り勉学から解放された俺たちは、この長い休暇を存分に満喫する為に計画を立てた。海へ川へ山への日帰り旅行、ゼミでの研究を兼ねた寺社仏閣巡り、そして本日の夏祭りである。


 他の奴らは俺と違い女が居て、今頃は約束の時間まで各々彼女と宜しくやっているらしい。実にけしからんことである。しかしながら独り身であるが故にどこへ行くにも何をするにも何者にも囚われず自由であることは大きな利点である、と俺は自身を誤魔化しながらまだ人の少ない露店を覗いて回った。軍資金の詰まった財布は膨れ上がり何だってできそうだが、いざこうして巡ると巡っただけで満足してしまうのは何故だろうか。それに加えて連れの居ない我が身が客観的に見て何とも寂しく思え、段々と情けなくなっていった。


 俺はそのまま屋台を抜け、正面に佇む社殿へと足を向けた。賽銭箱に小銭を投げ入れ、鈴を鳴らし、柏手を打って力の限りに神様へ願い事を口にする。


「彼女が出来ますように! さもなくば今この時だけで良いので美人のお姉さんと楽しいひと時を楽しませてください! なんなら奮発して千円賽銭箱に投げても良い!」


 汗を垂れ流しながら暫くそのまま目を瞑り、入念に何度もしつこく頭を下げ、漸く気が済んでから顔を上げた。社殿に背を向け、改めて露天の立ち並ぶ境内に足を踏み出す。それから数歩進んだところで。


「もし、そこのお兄さん」


 突然後ろから声を掛けられ振り向くと、そこには白地に赤い金魚の散りばめられた浴衣を着た美人のお姉さんが立っていた。つり上がった目は細く笑みをたたえ、唇許には赤い小さな金魚が泳いでいる。緑の黒髪は綺麗にまとめ上げられ(その髪型を何と呼称するのか俺は知らない)、白い頸が何とも言えず色っぽかった。


 いったい、いつの間に、どこから、と思いはしたが、そのあまりの美しさに最早そのような疑問など問題ではなかった。


「これ、落としましたよ」

 そう言ってお姉さんが差し出したのは、俺の尻ポケットに入れておいたはずの長財布だった。うっかり落としてしまったのか。

「あ、ありがとうございます……」

  お姉さんに見惚れながら、俺は受け取った財布を再び尻ポケットに入れ直した。

「お兄さん、ひとり?」

「え、えぇ、まぁ……」

「あら、ちょうど良かった」とお姉さんはニコリと微笑み、「あたしも独りなの。ここで会ったのも何かのご縁。一緒にお祭りを回りません?」


 神様ありがとう! などと声高に叫びたかったが大人らしくその気持ちを必死に抑え、俺はにやつく顔をそのままに「喜んでご一緒致します!」と答えていた。



 それから俺たちは並んで境内の露店を見て回った。お姉さんから仄かに香る石鹸のような爽やかな匂いが鼻腔を刺激し、その一挙手一投足の慎ましやかな所作は清楚にして可憐。最早非の打ち所のない完全にして完璧なる我が理想の女性像だった。時折頸を流れ落ちる汗の何と悩ましいことか!


 なんて事を只ひたすらに悶々と考えていると、

「はい、どうぞ」

 突然目の前に赤いボールが差し出された。いや、ボールではない。赤い透明なシロップにコーティングされた拳大ほどのりんご飴だ。ヘタの方から刺された割り箸を持つ綺麗な細い指の先にはお姉さんの輝くような笑顔があって。

「あ、すみません! すぐに金出しますんで……!」

 慌てて尻ポケットから財布を取り出そうとすると、お姉さんは「いいの、いいの」と言いながらその手にりんご飴を握らせた。

「私から誘ったんだから、私に奢らせて?」

「あ……ありがとうございます……」

 素直にそう礼を述べると、お姉さんは満足そうに自分のりんご飴を口に運んだ。


 その後も俺はお姉さんに奢られっぱなしだった。金魚掬いにヨーヨー釣り、射的にキャラクタークジ、兎に角端から端まで渡り歩いて全ての露店を制覇していった。イカ焼きやたい焼き、箸巻きなんてモノもあって腹も膨れてパンパンだ。支払いの度に俺は何度も財布を出したが、お姉さんは「いいから、いいから」と決して財布を開かせてはくれなかった。男として何だか情けない反面、奢って貰って悪い気はせず、逆に無理に俺が支払うのもお姉さんの好意に対して失礼な気がしてならなかった。


 ならばどうすれば良いか?


 そんなものは決まっている。素直に奢られれば良いのだ。それが礼儀、それが正解。奢る側は奢ることによって、自身の地位を相手より上に保とうとしているのだ。ここでその意思に抗うべきではない。俺はただへりくだり彼女の思うままに身を委ねていればよいのである。それが道理、それが真理。


 もし宜しければ友人らなんぞ放っといて、このままお姉さんと夜まで愉しい時間を満喫できればそれで良い、と思っていると、


「あら、もうこんな時間」とお姉さんはおでこに手を当てながら傾いた陽に顔を向け、「ありがとう、お兄さん。楽しかったであろう? 妾も楽しかった。しかし、そろそろ妾も行かなければならぬ。ではな」


 言うが早いか俺がその言葉の意味を理解するよりも早く彼女は鳥居の方までスタスタと足早に去って行くと、すっとその姿を消してしまった。あとには呆然とする俺一人をその場に残して……


 俺は何だか良く分からないまま暫くその場に突っ立っていたが、やがてまた独りぼっちになってしまったことに深い溜息を一つ吐いた。



 やれやれ。結局何だったんだ、あのひとは。何がしたかったんだろう。まさか本当に暇潰しに付き合わされただけだったのか? 何だか遣る瀬無い思いに満たされていく自分がヤケに惨めに思えて仕方がなかった。けれど、それで自分の何が変わった? 何か損でもしたか? 否、俺はここまでの時間を美人のお姉さんと有意義に過ごしたのだ。これまでの俺の人生からするれば明らかな得である。しかも全てお姉さんの奢りだった。いったい何処に不満があると言うのか。不満があれば俺は俺を殴り飛ばしているところだ。


 ……そう思わなければやっていられなかった。


 それにしても食べ過ぎた。胸焼けがする。ちょっと水でも飲んで、友人が来るまでのんびり待つか。

 俺は境内の隅に自販機があるのを見つけ、そちらに向かった。尻ポケットから長財布を取り出し、ファスナーを開く。


「……は?」


 開いた財布の中には、青々とした緑の葉っぱがまるでそこにあるのが当たり前であるかのように、綺麗に整えられた状態でお札のように入っていたのだった。


「……まさか!?」


 振り向いたさきには、しかし当然のように、お姉さんの姿は何処にもなかった。


その先に見える鳥居の下で、狛狐が小さく嘲り笑ったような気がした。



 了

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