人間の友達がいっぱい出来たあおいさんだけど毎日僕の部屋に帰って来ます
「こう……ぬらりと入口をすり抜け、ひょん! と姿を現すんだ」
「そ……、そんなことを言われても……」
狭いアパートの一室で、僕はぬらりひょんから講義を受けた。
でも僕は人間だ。妖怪の技なんて真似できるわけがない。
そう思っていると、早川准教授はたった一つだけ、極意を簡単に教えてくれた。
「技は真似できなくとも、心構えを真似することは出来るだろう?」
「心構え……?」
「一人で賑やかな場所に入って行けない──その最も大きな理由は何だと思う?」
「え……。単に苦手だから」
「違うな。そもそも苦手になった理由があるんだ」
「そ、それは……何でしょう?」
早川准教授はズバリ言った。
「君は自意識過剰なのさ」
〇 〇 〇 〇
早川准教授に教わった極意を胸に、僕は居酒屋『ぱりぴ』の前に立っていた。
夜の冷たい風が僕のメガネを撫でる。
店の中からは賑やかな声が聞こえている。
僕は准教授から教わった呪文を何度か口に出して復唱する。
「誰も僕のことなんて気にしちゃいない」
「誰も僕のことなんて気にしちゃいない」
「僕はただのカボチャだ」
「僕なんてただのピーマンだ」
店の扉に手をかけた。
意を決して──なんて気張っちゃいけない。僕はぬらりとその扉を開けると、ひょんと店の中へ入った。
「いらっしゃいませー!」
元気な女性店員の聞き覚えある声が飛んできた。
「あー! ひろくんだ! よく来てくれたねー! 1名様、歓迎、歓迎! ごあんない!」
何も見ないようボーッとしている僕の視界に、見知ったかわいい笑顔が飛び込んでくる。
白い着物にエプロン姿のあおいさんの笑顔が、やたらと眩しかった。
僕はぬらりと歩くと、ひょんとカウンター席に着いた。
メガネを外し、カウンターに置く。
「ふふ。何になさいますか?」
注文を取りに来たあおいさんに、無愛想に答える。
「ウーロン茶」
「えー? それだけ?」
「じゃ、焼き鳥」
「はい! ウーロン茶ひとつと焼き鳥一本ですね?」
「はい」
するすると滑るような動きで注文を伝えに行くあおいさんの背中を見送った。
お金ならある。
早川准教授からお小遣いをもらって来たのだ。さすがぬらりひょん、人間界に五百年もいるだけあって金持ちなようだ。
でもお酒を飲むような気分にはならないし、何よりここに来たのは飲み食いするためじゃない。
たくさんの客を相手に、何人かの店員に混じって、あおいさんはとても楽しそうに、ハキハキとお酒や料理を運ぶ仕事をやっていた。やれていた。
さすが人間界に憧れていた雪女だ。きっとドラマかなんかでこういう場面も観たことがあるんだろう。
「はい! ウーロン茶と焼き鳥一本、お待ちどぉさま!」
トンとそれらを僕の前に置くと、意地悪そうな目で僕の顔を覗き込んでくる。
「よく一人で来れたねー? ひろくん珍しい種類の人間なのに。えらい、えらい!」
「う……、うるさいな!」
「もしかして、あたしの働いてる姿が見たくて来てくれたの?」
「そんなんじゃないよ!」
本当にそんなんじゃなかった。
出来れば強引にでも連れて帰ろうと思って来たのだ。
でも賑やかな雰囲気に押されて、そんなこと出来る力が奪われてしまう。
それをする代わりに、聞いてあげた。
「暖房効いてるよね? と、溶けたりしない?」
「あー! 心配してくれてんの? 大丈夫、この着物姿だったら耐えられるし、裏の大型冷凍庫で定期的に涼んでるから」
あおいさんはそう言うと、エプロンを見せびらかすようにしてピョンと跳ねた。
「見て見て! エプロン初めて着けちゃった!」
ブラジャー初めて着けちゃったみたいに言う。
「お店の制服で地味だけど、かわいくない?」
確かにかわいかった。
エプロンはべつにかわいくない。ただの紺一色のエプロンだ。
かわいいのは──
「ねぇ、あおいさん。帰ろうよ」
小声で、耳打ちするように僕は雪女に言った。
「こんなところ、あおいさんに似合わないよ。僕の部屋で一緒にケーキ食べようよ。ぬらりひょんがお金持ちだったんだ」
「えー? 迷惑かけるなって言ったの、ひろくんじゃん」
「それはそうだけど……」
「あたし、あっという間にこのお店の人気者になったよ。……あっ、そうだ! ひろくんにアレ忘れてた!」
「アレ?」
あおいさんが僕の注文したウーロン茶のグラスを取り上げた。
「はいっ! キンキンに冷やして差し上げまーすね!」
キンッ!
あっという間にウーロン茶の入ったグラスが凍る。
ついでに中身のウーロン茶までカチカチに凍った。
あおいさんがドジっ娘みたいに声を上げる。
「ああっ! そうか! ビールじゃなかったんだ、コレ!」
「……もしかして、お客さん全員にコレ、やってる?」
「ウン! ビールを凍る一歩手前のマイナス2℃で提供してあげてるよ」
「……つまり」
僕は絶望にメガネをずり落とした。
「雪女だってこと、みんな知っちゃってるの?」
「はぁい! それが人気のヒミツでぇす!」
向こうのお客から声が飛んできた。
「おーい、あおいちゃん! ビールがぬるくなっちゃった! アレやってくれよー!」
「はいはーいっ!」
滑るようにおじさんたちのところへ行くと、愛嬌を振りまきながら、あおいさんが着物の裾をまくった。
そしてビールジョッキを手に持つと、次から次へとキンキンいわせる。
「ありがとう!」
お客どもから明るい感謝の声が飛ぶ。
「ウーム。やっぱり凍ったジョッキで飲むキンキンに冷えたビールは冬でもうまい」
「雪女ってやっぱ最高だわ」
「こんなかわいい雪女なら怖くないよ」
店長らしきオッサンが向こうのほうで、頼もしそうにうなずきながら、あおいさんのことを見ている。
僕は頭を抱えた。
僕だけの雪女が、みんなの雪女になってしまった……。
雪女も雪女で、人間と仲良くなってしまった……!
僕のものだったのに! 僕だけの怪異だったのに!
僕よりも一緒にいて楽しい人間がいっぱいいるって知って、あおいさんはもしかしたら、もうあのアパートの部屋には帰って来ないかもしれない。
僕なんかよりもパリピどものほうが面白いって知って、二度と僕なんかとは会話もしてくれなくなるかもしれない。
くそっ! 妹の雪ん子を人質に取って、僕と一緒にいるよう、脅迫してやろうか……。いや、雪ん子を怖がらせちゃダメだダメだダメだ。
いっそのこと、前から考えてたように、あおいさんを小さな箱に閉じ込めて、標本みたいにしてずっと僕の部屋の棚に飾っておいてやろうか。
それともあおいさんが本当は怖い雪女だって、嘘の噂をばらまいて、人間たちのほうから怖がって離れてもらおうか。
そんなことを考えながら、僕は何も出来なかった。
アルバイトをする雪女は、輝いて見えた。
あおいさんが楽しそうで、幸せそうで、出来るならそれをぶち壊したいと思いながらも、その笑顔が消えるのが嫌だった。
そして僕はようやくわかったのだった。
あおいさんが、僕の雪女なんかじゃないって。
彼女は自由な存在で、キラキラしたものやかわいいもの、甘いものが大好きな、どこへでも行ける雪女なんだってこと。
僕なんかが独占してるより、自由に人間界を歩き回らせてあげたほうが、彼女はよっぽど幸せなんだってこと。
僕はカチカチに凍ったウーロン茶の表面をひと舐めし、焼き鳥を歯で引きちぎると、席を立った。
お会計はあおいさんじゃない店員がした。
僕が店を出て行ったことを、たぶんあおいさんは気づかなかった。
〇 〇 〇 〇
アパートに帰るとぬらりひょんが起きて待っていてくれた。
「雪ん子は寝たよ。……で、どうだった?」
「……風呂、入ります」
湯船に浸りながら思いついた。
この約40℃のお湯の中に雪女を突っ込んでやれば、きっとあっという間に──
なんでだよ!
僕はあおいさんを消したいんじゃないんだ!
でも、僕のものにならないのなら──
嫌だ!
あおいさんが消えてなくなるのはもっと嫌だ!
僕は風呂の中で悶々とした。
風呂から上がり、メガネを装着し、冷蔵庫を開けていると、後ろにいつの間にか立っていたぬらりひょんが言った。
「フフ……。君はあおいに恋しているんだね?」
僕はオレンジジュースをごくこくと飲むと、冷静に答えた。
「……違う。恋してるのは怪異だ。あおいさんに限らず、怪異現象が大好きなんだ」
「フフ……。それなら俺でもいいのか?」
「アンタはあんまり怪異っぽくないし、人間界に馴染みすぎてて……」
「なるほど。つまり、あおいが人間界に馴染みはじめたのが嫌で、あんなに悶々としていたのか?」
「あんなに……とは?」
「フフ……。悪いが見ていたよ。さっき、浴室に、ぬらりと忍び込んで、立って見ていた。気がつかなかったかい?」
「ぬわぁ!?」
持参したらしいウイスキーを水割りで飲むぬらりひょんと食卓で向かい合わせに座り、僕は相談することに決めた。
このままじゃ胸が張り裂けそうで、苦しかった。
あおいさんが僕だけのものじゃなくなることを、僕はどうすれば納得して、心を平穏に出来るのか、ちっともわからなかった。
まずは人間としてきちんとしておきたいと思い、謝った。
「……すみません。雪ん子のお守りをお任せしてしまって」
「いいよ、いいよ。どうせ自分の家に帰っても誰もいない。それに雪ん子、かわいいしね」
エロいことが好きと言っていたが、ペドのケもあるのだろうか。……まぁ、いい。
「あおいさん……楽しそうでした。今夜はもしかしたら帰って来ないかもしれない」
「それはないだろう。雪ん子がいるんだ。帰って来るよ」
「あぁ……、そうか」
妹がいるんだから、そりゃ帰って来るよな、と当たり前のことに気がついた。
僕のところへではなく、妹のところへ帰って来るんだ。
カラン、と水割りの氷を鳴らすと、ぬらりひょんが言う。
「雪ん子を怖がらせないために俺がこの部屋に呼ばれたのは、君がいるからだ。なんなら俺がアパートを借りて、姉妹を二人だけで住ませてやってもいいが?」
そうか──と、また当たり前のことに気がついた。
人間が一緒に住んでなければ、雪ん子も怖がるものがなくなり、ぬらりひょんに迷惑をかけることもないのだ。
僕さえいなくなれば、雪女姉妹は平穏に、楽しく人間界で暮らして行けるのだ。
それを考えるとまた胸の奥が悶々としはじめた。
ぬらりひょんが言う。
「……でも、君が嫌だろ?」
「えっ?」
顔を上げると、ぬらりひょんは僕の心の内を覗き込むような目をして、薄笑いを浮かべていた。
「前にも言った通り、あおいは俺の妹みたいなものだ。俺がくだらないと判断する人間とは付き合ってほしくないし、あおいがくだらない人間につけ回されてたら……あぁ、いや、こっちの場合はあおい自身が手を下すから、心配はないか」
「何が言いたいんですか? ……僕、べつにあおいさんと恋人どうしになりたいとかじゃないんですけど?」
「そもそも雪女に恋愛感情はわからんだろうからな、その心配をしているわけではない」
「じゃあ……、何です?」
「聞くが……、君は人間でありながら、人間が嫌いなようだな。なぜだ?」
「人間がくだらないからですよ」
僕は即答すると、オレンジジュースを一口飲んだ。
「つまらないことに執心して、つまらないことばかりして自然を破壊して、バカみたいに騒いで……」
「そうだ。君の言う通りだよ」
一笑に付されるかと思ったら、ぬらりひょんは僕に同意してきた。
「あおいはそんな人間のことをよく知らず、ただネットで見るその煌びやかさに憧れているだけだ」
「そう! その通りです!」
僕は身を乗り出していた。
「あおいさんの目を、なんとか覚まさせたいんです! だから僕は……」
「人間を絶滅させたいと思うかい?」
ぬらりひょんが真剣な顔でそんなことを言い出した。イケメンがそんな顔をすると、ちょっと怖い。
「どうやら君は、俺が見込んだ通りの人間だったようだ。君以外のくだらない人間をすべて滅してしまえば、あおいは君だけのものだ」
ごくりと唾を飲み込んだ。
僕は……そんなことを望んでいるだろうか?
僕以外は、すべてくだらない人間? そうなんだろうか?
考えれば考えるほど、くだらないのは自分のほうのような気がしてしまう。
僕はただ静かに怪異と一緒にいられればいい。
絶滅なんて、そこまでは──
そう口にしようとした時、あおいさんが帰って来た。
「ただいまー! あー、楽しかった。ひろくん、なんで何も言わずに帰っちゃうのー? みんなに紹介しようと思ってたのに!」
ぬらりひょんが柔和なイケメンの笑顔に戻る。
「お帰り、あおい」
「あっ、ぬらちゃん、ごめんねぇ〜。きんこ、いい子にしてた?」
奥の部屋から寝ていた雪ん子がスパーン! と駆け出して来た。
「おかいりー! おねーたん!」
ホッとした。
僕はぬらりひょんとの会話を中断させられて、ホッとしていた。