雪女
小泉八雲の書いた『雪女』の話は有名だ。
ある雪の晩、茂作じいさんと美少年の巳之吉が小屋で寝ていると、雪女が入ってきて、茂作じいさんに白い息を吹きかけ凍らせてしまう。
巳之吉さんの命も取ろうとするが、あまりにイケメンだったので惜しいと思ったのか、見逃してくれる。その代わり「このことはけっして誰にも言ってはいけませんよ」と言い残し、夢かあるいはただの雪だったかのように消え失せる。
その後無事に人間界へ帰った巳之吉は、お雪という超絶美少女と知り合い、恋仲になり、結婚して10人もの子どもを間に作った。
お酒を飲んでいる時、お雪の美しい顔を見ながら、昔に出会った雪女に似てるとつい口にしてしまうと、お雪はその正体を現す。「あれほど言ってはいけないと申しましたのに」と──
いつの間にかキッチンの真ん中に立っていた白装束の女の人は、横目で僕に冷たいまなざしを向けてきた。
ぞっとするほどの美人とはこのことか。その横顔に、女性に興味のない僕でも見とれてしまった。
ぬらりひょんが言った。
「お雪さん、久しぶり」
名前を呼ばれた雪女のボスは虹色の唇を開いて、聞いた。
「あの子は?」
「あおいはバイト中だ。たくさんの人間に囲まれてるよ」
「人間に正体を晒しているのね。……馬鹿な娘」
そしてくるりと僕のほうを向いた。冷たそうな美しい唇を上品に動かしたが、それは僕に対して喋っているのではないようだった。
「人間に正体が知られたら殺しなさいと教えてあるのに。あの娘はあやかしの名折れ──」
殺される、と思った。
僕はたぶん、巳之吉さんみたいなイケメンじゃないから、たぶん。
──殺される!
足が崩れ、床に尻もちをつく僕を切れ長の目で見下ろしながら、しかし雪女は何もしてはこなかった。
僕の顔をじっと見つめながら、懐かしそうに言う。
「巳之吉を思い出すわ……」
似てるのか……?
僕はイケてない自覚があるけど、もしかして江戸時代だったらイケてたのか?!
ここぞとばかりに、自らの命を守るため、僕は渾身の嘘をついた。
「そうです。僕、巳之吉の生まれ変わりなんです!」
ばしっ! と後ろからツッコミの平手打ちを後頭部に食らった。
振り向くと雪ん子が、軽蔑するみたいな顔をして立っていた。これが最初で最後のスキンシップとなった。
「きんこ……。帰るわよ」
雪女が無表情に言う。
「……まだどうぶつプリンもべりべりパフェも食べてない」
雪ん子がママに反抗的だ。
「また冬が人間の熱に侵されたら帰れなくなる。この機を逃したら人間界から出られなくなるわ。吹雪のうちに帰らなければ」
「あのっ……!」
僕は勇気を出して、雪女に質問した。
「巳之吉さんのこと……愛してたんですか?」
雪女は関心もなさそうに僕のほうを見ると、しかし初めて僕と会話をしてくれた。
「雪女にそんな感情はない。あなたもそれはよく御存知でしょう」
「でも……10人も子どもを作ったんですよね? そして……」
「そんなものは作り話です。雪が人間と暮らせるとお思いですか?」
確かに──。お風呂に入っただけで溶けてしまうのに、おかしいとは思ってた。
あれは小泉八雲の作り話だったのか!
「じゃあ……、巳之吉さんとはどういう関係だったの?」
僕が聞くと、雪女は懐かしそうに目を細めた。
「後にも先にも一人だけの、人間の友人でした」
「友人……?」
「人間とあやかしは相容れぬもの。人間はあやかしの住む世界を壊し、あやかしは人間を災害のように苦しめる。でも巳之吉は、変わった種類の人間だったわ」
うわ! 巳之吉さんて、僕みたいな怪異オタクだったのか? と思った。
「とにかく帰りますよ、きんこ」
雪女が雪ん子の手を引っ張る。
いやいやをする雪ん子の頭を撫でながら、ぬらりひょんがママに言う。
「あおいは? 連れて帰らないのか?」
「あの子にはお勉強が必要。人間がどれだけあやかしと相容れぬものか、その身をもって知る良い機会だわ」
雪女は少し上を向き、アンテナを立てるような動作をすると、すぐに下を向いた。
「人間に囲まれているからか、連絡もできない。このまま置いて帰ります」
「あのっ……! 人間が嫌いなんですか?」
僕はまた聞いた。
雪女のボスは怖かったけど、このまま帰らせてしまうのはもったいなかった。色々とインタビューしてみたいことがあった。
「好きとか嫌いとかいう感情は雪女にはありません。ただ雪山に迷い込んだ人間がいたら凍らせて殺すだけのことですよ」
「きんこはパフェ好きー! ……食べてないけど」
「冬がこんなに暖かくなった原因は御存知なんですよね?」
「……知らないわ。ただ、人間が関わっているようね? わたくしたちを絶滅させるつもりなのかしら?」
「お雪さん」
ぬらりひょんが明るい声で、言った。
「ここにいる佐奈田ひろゆきくんは人間嫌いだ。人間を絶滅させたがっている。俺と、彼と、そして貴女の力が合わされば、人間を滅ぼすことができるぞ」
「またそのような、ぬらりとしたことを……」
雪女があっさりと言った。
「そんな嘘をその人間に教えて遊んでらっしゃるのね? わたくしたちと人間は切っても切れぬ関係。人間がいなくなれば、わたくしたちも消え失せる。わたくしたちを存在させているのは人間ですよ。人間がいなくなれぱ、この世はただのまぼろし。ただ曠野に雪が吹き荒れるだけですわ」
「騙したな?」と僕が小声で言いながら睨むと、ぬらりひょんは「はっはっは」と笑った。
「では、帰ります」
そう言って白い光になって消えかけるお雪さんに、急いで僕は声をかけた。
「お母さんっ!」
急いだのでへんな言葉が口から出た。
「あおいさんを僕にください!」
言葉はへんになったけど、本心だ。
お嫁さんにしたいという意味じゃないけど、僕はあおいさんが欲しい。僕の愛する怪異として、ずっと側にいてほしい!
少しの動揺も見せずに、お母さんはクールに答えた。
「それはあなた次第。雪女には好きとか嫌いとかいう感情はないと先ほど申しましたけど、あおいは珍しい種類の雪女のようです」
消えながら、お母さんは言った。
「あおいがあなたを気に入るなら、あなたに差し上げましょう」
あおいさんのお母さんはまるで柔らかいところの少しもない、カッチカッチに凍ったドライアイスみたいな人だった。
あおいさんとは正反対だった。
やはりあおいさんは珍しい種類の雪女で、人間が大好きだと言ってたし、好きや嫌いの感情があるようだ。
でも……
僕はきっと、嫌われた。
アルバイト先の楽しい人間たちのほうがよくなって、もう、ここには帰って来てくれないかもしれない。
僕が、人間として、きちんとしてないやつだから……。
お雪さんと雪ん子が帰って行くのを見送ると、ぬらりひょんが僕を振り向き、言う。
「それじゃ、俺の役目も終わったようだ。自分のタワーマンションに帰るとするよ」
雪ん子がいなくなったから、ぬらりひょんもいなくなる。
そして、あおいさんも──
○ ○ ○ ○
「ただいまーーっ!」
合鍵で玄関のドアを開け、元気よくあおいさんが帰ってきた。
「おみやげに焼鳥もらってきたよー。食べるよね? ひろくん」
そう言って手に持った冷凍食品状態の焼鳥の入ったビニール袋を差し出してくる。
僕はあおいさんの胸に飛び込んだ。
「ど……、どうしたの、ひろくん?」
あおいさんの清々しい冷気を含んだ声が、頭の上から僕を心配するように降りてくる。
「……きんこ、帰ったんだよね? お母さんから連絡あったよ」
僕の頭をナデナデしながら優しく言う。
帰ってきた──
帰ってきてくれた、もう雪ん子はいないと知りながら──
僕のものだ──
これは僕の雪女だ。誰にも渡すもんか。
パリピどもに横取りされる前に──
「聞いて聞いて!」
あおいさんが僕の行動を遮るように、明るい声で言った。
「店長がね、お給料、前借りさせてくれたの!」
そう言って白い着物の袖から茶封筒を取り出した。
「20万円ってどれくらい? あたし、お金の価値わかんない」
バイトに一月20万円払うのかよ?
それじゃ税金払わないといけなくなるよ。確か年に103万円超えたら所得税を納めないと──
あ。雪女だから、戸籍ないから、いいのか?
「とにかくね、このお金でひろくんに恩返ししたい」
そう言ったあおいさんの言葉に引っかかって、僕は顔を上げた。
「……恩返し?」
「うん! 溶けかかってたとこ助けてもらったし、色々とスイーツも奢ってもらっちゃったからね。何がいい? 何が欲しい?」
正直に「あおいさん」と答えたかった。
でもなんだか恥ずかしくて……っていうか癪に障る気がして、言えなかった。
とりあえず、雪ん子がいないことを知りながら、あおいさんが僕のところへ帰って来た理由はわかった。
恩返しなんだ。
恩を返したら他の人間のところへ行ってしまうんだ。
嫌だ……。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
……でも、わかってたはずじゃないか、ひろゆき。
あおいさんは、僕のものなんかじゃないって。
自由な一人の、自分の意思をもった存在なんだって。
それが嫌なんだ!
出来ることなら殺して、はらわたをすべて取り除いて、はく製にして部屋にずっと飾っておきたい!
……でも、彼女は雪女だから、たぶんはらわたを取り除くなんて出来なくて、それどころか殺した途端に溶けてなくなってしまうのだろう。
「ねーねー、何がいい?」
あおいさんがしつこく聞いてくる。
「何が欲しい? ひろくん」
「じゃあ……」
僕は答えを決めた。
「僕を殺して」
「……は?」
あおいさんの笑顔が凍りついた。
「楽しそうなあおいさんを見てるとおかしくなりそうなんだ」
僕の口から勝手に言葉が漏れて出た。
「恩返しが済んだらここを出て行くつもりなんだろ? 僕なんかよりも一緒にいて楽しい人間がいるって知っちゃったからね……。あおいさんがいなくなるなら、僕なんていないほうがいい。そのほうが僕にとっても楽だし、あおいさんにとっても安全だ。だから……殺して?」
そう口走りながら、あおいさんの二つの乳房の間の胸板を、人差し指でいじいじといじった。
「あっはっは!」
あおいさんが、おおきな声で、笑った。
そして、感激したように言う。
「かわいい!」
「……は? かわいい……?」
「うん! かわいい、かわいい! ひろくん、かわいいねー」
「な……、なんだと?」
ムカついた。
「あたしになついてくれてるんだねー? ……で、他の人間とあたしが仲良くしたらいじけちゃうんでしょ? かわいいー」
頭を犬のように撫でてくる。
「ぼ……、僕は犬じゃないっ!」
「チューしたろっか?」
「はぁ?!」
「人間て、愛情表現するためにこう、唇を尖らせて、くっつけ合うんだよね? ネットのドラマで観た」
そう言ってニコニコ目を閉じ、尖らせたあおいさんの唇を、僕はじっと見た。
してほしいな……。
そう思ったら、僕も自然に唇を尖らせていた。
あおいさんの顔が近づいてくる。
ゆっくりと……ではなく、ぶつかるように。
その唇が、僕の唇と、チュッて、した……
「ぎゃああああ!」
僕は悲鳴をあげていた。当たり前だ。唇が凍傷になった。
「あっ、ごめんごめん」
あおいさんが笑い飛ばす。
「やっぱ人間と雪女じゃチューって出来ないんだね。あっはっは!」
この雪女……やっぱりはく製にしたろか。




