第2章 隣国の姫と未完成の原稿
隣国の姫が、魔導士の塔へさらわれた。
その一文は、翌朝になってもリョウの頭から離れなかった。
目覚ましの音が鳴る前に目が覚めた。
天井の白いクロスを見上げたまま、リョウはしばらく動かなかった。カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。窓の外では、道路を走る車の音と、近所の家の玄関が閉まる音がした。
いつもの朝だった。
だが、頭の中には、図書室の奥で見た白紙のページが残っている。
題名のない本。
背表紙の、開いた頁と門を重ねた紋章。
自分の筆跡で浮かび上がった「ファンタ」という名前。
そして、閉館後のあの本に浮かんでいたはずの一文。
リョウは、そこまで考えてから眉を寄せた。
閉館後の本に文字が浮かんだところを、自分は見ていない。
見ていないはずだ。
なのに、知っている。
知っているような気がする。
「……気持ち悪い」
小さく呟いて、リョウはベッドから起き上がった。
机の上には、黒いノートが置いてある。昨夜、鞄から出したあと、開かないように伏せておいたものだ。
リョウはしばらくそれを見た。
開けば、何かが書かれているかもしれない。
昨日の図書室で、白紙のページに浮かんだ文字と同じように。
そう思うと、指先が冷えた。
馬鹿らしい。
リョウは自分に言い聞かせ、ノートを手に取った。表紙には何も書いていない。角が少し擦れている。どこにでもある大学ノートだ。
ページを開く。
一頁目は、白紙。
二頁目には、昨日までの書きかけがある。
北境都市セレイン。
境界崩落。
巡境騎士団。
ファンタ=レイヴァン。
その先に、問題の一文はなかった。
リョウは、息を吐いた。
ほっとしたのか、がっかりしたのか、自分でも分からなかった。
机に置いたシャーペンを手に取り、空いている行へ先端を近づける。
書こうと思えば書ける。
隣国の姫が、魔導士の塔へさらわれた。
文字は、もう頭の中で形になっている。
ファンタが任務を受ける。
親友が同行する。
魔導士の塔へ向かう。
そこで事件が起きる。
いつもなら、そこから先を考えるのは楽しかった。
現実では何も決められない自分が、紙の上だけでは何でも決められる。誰が走り、誰が剣を抜き、誰が誰を救うのか。そこでは、迷いも怒りも、全部場面にできる。
だが今は、シャーペンの先が紙に触れる直前で止まった。
昨日のはつかの声が蘇る。
――まだ、書かないでください。
何を知っているのか。
何を恐れているのか。
どうして、リョウが書こうとしていることを知っているような顔をしたのか。
リョウは舌打ちした。
シャーペンを置き、ノートを閉じる。
「遼、起きてる?」
部屋の外から母の声がした。
「起きてる」
「朝ごはん、冷めるわよ」
「今行く」
返事をして、リョウはノートを鞄に入れた。
念のため、奥のポケットへ押し込む。教科書と文庫本で挟み、外から見えないようにした。
自分でやっておきながら、少し嫌になる。
まるで危険物を隠しているみたいだった。
*
ダイニングテーブルの半分は、母の仕事場になっていた。
赤字の入ったゲラ、付箋の束、校正記号の一覧、ノートパソコン、湯気の消えたマグカップ。
久世真琴は、朝食の味噌汁を温め直しながらも、片手で原稿へ付箋を貼っていた。
四十三歳。
在宅の校閲者。
母親というより、紙と文字に囲まれている時間のほうが長い人だと、リョウは時々思う。
「また食べながら仕事?」
「締切が近いの。食べながらじゃないわ。仕事の合間にご飯を作ってるの」
「それ、もっと悪い言い方だろ」
「そう?」
真琴は悪びれずに笑った。
エプロンのポケットには赤ペンが刺さっている。
リョウは食卓につき、味噌汁をすすった。少し熱い。母はそれを確認してから、自分の椅子へ戻った。
「学校の図書室、今日も行くの?」
「たぶん」
「最近、よく行くわね」
「図書委員だから」
「図書委員の仕事って、毎日そんなにある?」
「ある日もある」
「ない日もあるのね」
「……うるさい」
母は笑いながら、ゲラの一枚を手元へ引き寄せた。
「書く場所としては、図書室はいいと思うわよ。家だと落ち着かないでしょうし」
リョウの箸が止まる。
「何の話」
「小説」
「書いてない」
「そういう顔をする時は、書いてる時よ」
「母親の勘みたいなのやめて」
「校閲者の観察力です」
「もっと嫌だ」
真琴は、赤ペンのキャップを閉めた。
「読ませろとは言わないわ」
「前は言った」
「言ったわね」
「直そうとした」
「直そうとしたんじゃなくて、気になったところを言ったの」
「同じだろ」
少しだけ、テーブルの上の空気が変わった。
母は、すぐには言い返さなかった。
リョウも、味噌汁の椀を持ったまま黙る。
小学生の頃、リョウが書いた話を母に見せたことがある。
母は喜んだ。褒めた。
そして、ここはもっとこうしたら伝わる、ここは言葉が重なっている、登場人物の気持ちが少し急に変わっている、と丁寧に指摘した。
それは、母にとっては愛情だったのだと思う。
でもリョウには、自分の内側へ赤ペンを入れられたように感じた。
それから、家族に作品を見せなくなった。
「……ごめん」
母が先に言った。
「悪気はなかったのよ」
「分かってる」
「分かってる、って顔じゃないわね」
「分かってるのと、嫌だったのは別」
口にしてから、リョウは自分で驚いた。
こういうことを、母にそのまま言うのは珍しかった。
真琴も、少し驚いた顔をした。
けれど、怒らなかった。
「そうね」
彼女は静かに頷いた。
「別ね」
その短い返事で、会話は終わった。
リョウは白米を口に運ぶ。
母は再びゲラへ目を落とす。けれど、さっきより赤ペンを動かす速度が遅い。
沈黙が重くなりかけたところで、母がふと思い出したように言った。
「そういえば、学校で文芸展示があるんでしょう?」
「なんで知ってる」
「学校のサイトに載ってたわよ。校内短編企画。保護者向けのお知らせにも」
「見るなよ、そんなの」
「見るでしょ、保護者だもの」
「出さないから」
「まだ何も言ってないけど」
「顔が言ってた」
母は少し笑った。
「出すかどうかは、遼が決めればいいわ」
「そうする」
「でも、もし出すなら、私は読まないで待ってる」
リョウは顔を上げた。
母は、いつものように柔らかく笑っている。
その笑顔に、少しだけ遠慮が混じっていた。
「展示されたら読む。そういう順番にするわ」
「……出さないって言ってる」
「分かってる」
「分かってないだろ」
「分かろうとはしてる」
その言い方が妙に正直で、リョウは何も言えなくなった。
食器を流しへ運び、鞄を持つ。
玄関で靴を履いていると、背中から母の声がした。
「遼」
「何」
「書くのが怖いなら、怖いまま書いてもいいと思う」
「朝から重い」
「職業病」
「それで済むと思うなよ」
母は少し笑った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関の扉を閉める。
外の空気は、昨日の雨を少しだけ残していた。アスファルトの端に、水たまりが薄く光っている。坂の下へ向かう道の先に、綴原市の駅前ビルが見えた。新しい建物のガラスに、古い商店街の看板が歪んで映っている。
記録が事実を保存するだけじゃなくて、何を事実として扱うかを決める装置でもある。
授業で答えた言葉が、不意に頭に戻ってきた。
リョウは鞄の中のノートを意識した。
そこにまだ書かれていない一文が、ずっと紙の奥で待っている気がした。
*
朝の教室では、校内短編企画の話題が思ったより広がっていた。
黒板の右端に、担任の字で「校内短編企画 作品募集 来週金曜〆切」と書かれている。
その下に、誰かが小さく「出せる人いる?」と落書きし、さらに誰かが「相馬が朗読するらしい」と書き足していた。
「何だこれ」
リョウが黒板を見て言うと、カイが後ろから現れた。
「宣伝」
「お前が書いたのか」
「朗読するらしい、は俺じゃない。俺は『出せる人いる?』まで」
「半分犯人じゃねえか」
「半分なら無罪」
「有罪だろ」
カイは自分の席に鞄を置き、くるりと振り返った。
「ていうか、朗読はしない。紹介音声を作るだけ。古賀先生が『生徒の声が入ると親しみやすい』とか言うから」
「お前、断れよ」
「面白そうじゃん」
「それで、人の作品を勝手に読むなよ」
「まだ読んでない」
「まだ?」
「言葉のあや」
カイは笑ったが、リョウは笑わなかった。
「俺のは出さない」
「まだ何も言ってないじゃん」
「言う顔だった」
「今日のお前、顔から未来読むの流行ってんの?」
「朝も言われた」
「誰に」
「母親」
「親子仲いいな」
「どこが」
カイは椅子にまたがるように座った。
朝の光が窓から入り、首に掛けたイヤホンコードが細い線のように光る。
「なあ、リョウ。ほんとに出さないの?」
「出さない」
「一回だけ読ませろよ。提出するかどうかはその後でいいから」
「嫌だ」
「俺だけでも?」
「お前だから嫌だ」
「それ、地味に傷つくんだけど」
「傷つけてる」
「はっきり言うなよ」
カイは軽口で返したが、少しだけ目が細くなった。
その変化に気づいて、リョウも少しだけ言いすぎたと思った。
けれど謝る前に、カイが先に続けた。
「俺さ、お前の書くやつ、ちゃんと面白いと思うんだよ」
「読んでないだろ」
「断片は知ってる」
「それは知ってるって言わない」
「名前とか、設定とか、お前がたまにぼそっと言うじゃん。北境とか、境界災害とか、剣士とか」
「俺、そんなに言ってる?」
「言ってる。自覚ないの怖いな」
リョウは渋い顔をした。
カイは少し身を乗り出す。
「お前が隠してるのって、つまんないからじゃないだろ。むしろ本気で書いてるから隠してるんだろ」
「勝手に決めるな」
「でもそうだろ?」
「そういうところだよ」
「何が」
「お前は、相手が言う前に決める」
カイの表情が一瞬止まった。
教室のざわめきが、その間だけ少し遠くなる。
黒板の前で女子が提出物の話をしている。廊下では一年生が走って注意されている。斜め前の席では、はつかが静かに教科書を開いている。
彼女は二人の会話を聞いていないように見えた。
けれど、ページをめくる指が、少しだけ止まっていた。
「……悪かったよ」
カイが言った。
軽い声だった。
でも、いつもの冗談より少しだけ低かった。
「けど、俺はさ。お前が本当は読まれたいのに怖がってるだけなら、もったいないと思うわけ」
「だから、それをお前が決めるなって言ってる」
「決めてない。聞いてる」
「聞いたあと、押してくるだろ」
「押さなきゃ、お前一生動かないじゃん」
その言葉に、リョウの胸の奥が少し熱くなった。
「動くかどうかも、俺が決める」
「それで後悔しても?」
「するなら俺がする」
「ほんとに?」
カイは、まっすぐリョウを見た。
「お前、自分で後悔するのはいいけど、周りが何か言うとすぐ閉じるだろ。自分の中で全部処理したことにして、誰にも触らせない。俺はそれ、ずっと見てきたんだけど」
「だから?」
「だから、たまには外に出せって言ってる」
「余計なお世話だ」
「知ってる」
「知っててやるな」
「知っててもやる時はやる」
「最悪だな」
「親友だからな」
カイはそう言って笑った。
その言葉が、普段なら少しだけ許せたかもしれない。
カイがそういう男だと、リョウも分かっている。昔から、そうやってリョウを外へ引っ張ってきた。
でも今朝は、どうしても笑えなかった。
「親友なら、何してもいいのか」
口にしたあと、リョウはしまったと思った。
カイの笑顔が、今度こそはっきり止まった。
教室の前の扉が開き、国語教師の古賀晴臣が入ってきた。
ホームルーム前なのに、手にはポスターの束を抱えている。
「おーい、相馬。放送部の原稿、昼までに一回見せてくれ」
「あ、はい」
カイはすぐに顔を戻した。
いつもの、周囲へ向ける明るい顔。
それが戻る速度の速さに、リョウは少しだけ傷ついた。
「久世もいるな」
古賀がリョウへ目を向ける。
三十代半ば、丸眼鏡で、髪は少し癖がある。生徒に人気がないわけではないが、熱が入ると話が長い教師だった。
「お前、図書委員だろ。放課後、展示スペースの準備手伝えるか?」
「図書室の仕事があるなら」
「ある。短編企画の応募箱も置くからな。御影先生にも話は通してある」
「……分かりました」
「助かる」
古賀は黒板に新しいポスターを貼った。
校内短編企画。
未発表作品募集。
ジャンル自由。
匿名可。
選出作品は図書室展示および紹介音声作成。
匿名可。
その文字に、カイがちらりとリョウを見る。
リョウは見返さなかった。
*
綴原の曇った空とは違う青が、そこにはあった。
高く、乾いて、どこまでも遠い。
雲は細く引き伸ばされ、草原の向こうに連なる丘陵の上を、ゆっくりと流れていた。街道の両脇には低い石柱が等間隔で立ち、その表面には旅人の名、宿駅までの距離、境界災害の警告記号が刻まれている。
異典層。
王都西方、巡境騎士団の街道詰所。
白い外套を片肩にかけた少年が、詰所の中庭を横切っていた。
ファンタ=レイヴァン。
淡い金の髪が、風で少し跳ねる。本人は気にしていないが、頭頂部の一本だけは、何度直しても立ち上がる癖があった。腰には旅装の留め具、肩には大剣。正式な騎士鎧ほど重くはないが、濃紺の外套と銀灰色の軽装甲が、彼をどこから見ても巡境騎士だと示している。
「ファンタ」
背後から呼ばれ、彼は振り返った。
詰所の石段に、カイン=ローデルが立っていた。
灰褐色の髪を右へ流し、灰緑色の瞳でこちらを見ている。ファンタより少し低いが、姿勢がよく、旅装のあちこちに地図筒、方位器、薬草袋、道標用の赤い紐が整然と吊られている。
「もう聞いたか」
「王女の件?」
「聞いた顔だな」
「グレン隊長に呼ばれた」
「俺もだ」
カインは石段を下りながら、手元の記録板に目を落とした。
「王都から早馬。リヴェルナ王国第一王女、ミレシア=リヴェルナ。星見校典塔エル・オルド付近で消息を絶つ。王宮発表では、塔の魔導士による拉致の疑い。王家から救出要請。国境軍はまだ動かせない。巡境騎士団から少数精鋭を先行派遣」
「よくそこまで一息で言えるね」
「お前が途中で『行こう』って言い出す前に全部言いたかった」
ファンタは少しだけ苦笑した。
「言い出すと思った?」
「思った」
「じゃあ期待に応えないと」
「応えるな」
カインが記録板でファンタの胸を軽く叩いた。
「情報が少なすぎる。塔の魔導士という言い方も曖昧だ。星見校典塔は、本来は古い観測施設で、禁忌塔じゃない」
「でも、王女が消えたのは事実だ」
「事実として発表されている、だ」
「その違い、今必要?」
「今こそ必要だろ」
カインの声は冷静だった。
冷静すぎて、急ぎたいファンタには少しもどかしい。
詰所の扉が開き、中から賑やかな声が飛び出してきた。
「お二人とも、置いていかないでください!」
ジアが、紙片と付箋を抱えて走ってくる。
淡い桃色の髪が肩のあたりで跳ね、白い翼型の髪飾りが光を受けた。白を基調にした記述魔導士装束には、桃色と金の差し色が入っている。腰には小瓶、紙片、紐、筆記具が大量に吊られていて、走るたびに細かく音を立てた。
彼女は二人の前で止まろうとして、勢いを殺しきれず、カインの肩にぶつかりかけた。
「危ない」
「止まれました」
「俺が避けたんだ」
「それも含めて止まれました」
「含めるな」
カインはため息をついた。
ファンタは笑う。
「ジアも呼ばれたの?」
「はい。記述魔導士が必要だそうです。塔に古い術式封印があるかもしれないので。あと、王女殿下の身元確認と、魔導士による誘拐なら痕跡採取と、もし呪詛があったら解除と、もし怪我人がいたら応急治癒と、もし道に迷ったら……」
「最後は俺の仕事だ」
カインが言った。
「はい。なのでカインさんも必要です」
「当然みたいに言うな」
「必要ですよ?」
ジアは不思議そうに首を傾げた。
カインは言い返しかけて、やめた。
こういう時のジアは、皮肉が通じない。
詰所の中から、グレン=アッシュフォード隊長の太い声が響いた。
「三人とも、入れ。王女殿下は、お前らの雑談が終わるまで待ってくれるほど暇じゃない」
「ほら」
ファンタが歩き出す。
「急ぐべきだって、隊長も言ってる」
「急ぐことと、雑に信じることは違う」
カインはそう言いながらも、足を止めなかった。
ジアが二人の間に入り、小声で言う。
「お二人とも、任務前に喧嘩ですか」
「喧嘩じゃない」
ファンタとカインの声が重なった。
ジアは少し嬉しそうに笑った。
「仲がいいですね」
「どこが」
今度も二人の声は重なった。
*
巡境騎士団の会議室には、王都から届いた封書が広げられていた。
羊皮紙ではなく、耐水加工されたリヴェルナ製の記録紙。薄い灰青色で、光に透かすと水路を模した文様が浮かぶ。中央には、王家の印。七つの運河を結ぶ輪と、星路王杖の紋。
グレン隊長は、封書の横に両手を置いていた。
四十を越えた実務派の騎士で、豪快な見た目に反して、無謀な英雄願望を嫌う。ファンタにとっては、剣を褒めるより先に「その突撃の帰り道は考えたか」と聞く上官だった。
「王都経由で救出要請が来た。リヴェルナ王太女ミレシア殿下が、星見校典塔エル・オルドへ連れ去られた可能性がある」
「可能性」
カインが繰り返した。
「断定ではないんですね」
「ああ。王宮発表では誘拐。だが、現地の初期報告には食い違いがある」
グレンは別の紙を出した。
「国境宿駅からの伝令では、王女殿下らしき人物が護衛を連れずに街道を通過したという証言がある。さらに、王家の救援印が複数地点で確認された」
「自分で救援印を残した?」
ジアが目を丸くする。
「誘拐された人が、そんな余裕ありますか?」
「ある場合もある。訓練されていればな」
カインが答えた。
「ミレシア殿下は、水路王国の継承者です。避難路と公路指定の教育を受けている。道標を残すくらいはできる」
「詳しいね」
ファンタが言う。
「数年前、リヴェルナの避難路調査に同行した」
「王女殿下と?」
「調査担当者とだ」
「それ、たぶん王女殿下だよね」
「本人が名乗らなかったから、俺は聞かなかった」
ジアが小さく笑った。
「カインさんらしいですね」
「身分を隠して現地調査している人間に、わざわざ身分を聞くほうが無粋だろ」
グレンが咳払いした。
「思い出話は道中でやれ。問題は、塔だ」
机の上に地図が広げられる。
王都西方。
国境山脈の手前。
古い観測路の先に、星見校典塔エル・オルドが記されている。
だが、その周囲には赤い封鎖線が引かれていた。
「この塔は、今では禁忌塔扱いだ。人をさらう魔導士が住むという噂もある」
「噂、ですか」
カインは地図を見たまま言う。
「昔は天体観測と条約保管の中立施設だったはずです」
「お前は本当に道と記録の話になると早口だな」
「大事なので」
「大事だ」
グレンは否定しなかった。
「だから、お前をつける。ファンタ、お前は先行して殿下を確保しろ。ただし、一人で突っ込むな。カインの指示を聞け。ジア、塔の術式と負傷者対応を任せる」
「はい」
ジアが勢いよく頷く。
その拍子に、腰の小瓶がひとつ落ちかけ、カインが無言で受け止めた。
「ありがとうございます」
「任務前に薬品を割るな」
「まだ割ってません」
「割る前提で話してる」
「信用が薄いです」
「実績が厚い」
ファンタが笑いをこらえる。
グレンは三人を見渡した。
「いいか。これは姫君救出の英雄譚じゃない。境界災害の可能性も、神筆会の介入も、黒稿体の反応もあり得る。民間人を巻き込むな。王女殿下を確保しろ。塔の内部状況を確認しろ。分からないことがあれば、分からないまま報告しろ」
ファンタは真剣な顔で頷いた。
「分かりました」
「特にお前だ、ファンタ」
「僕ですか」
「お前だ。困っている人間を見た瞬間、状況を理解する前に剣を抜くな」
ファンタは少しだけ視線を逸らした。
「……努力します」
「そこは断言しろ」
カインが横から言う。
「剣を抜く前に、俺を見る」
「カインを?」
「俺が頷いたら行け。首を振ったら止まれ」
「それ、カインが判断することになるよね」
「お前が何も考えずに行くよりは安全だ」
「何も考えずには行ってない」
「考える前に足が出てる」
ジアが手を上げた。
「では、私はどうすれば?」
「ジアは術式を撃つ前に俺を見る」
「私もですか」
「お前は考えながら事故を起こす」
「ひどいです」
「褒めてない」
「分かっています」
グレンが大きく息を吐いた。
「……お前ら、仲がいいのは結構だが、生きて帰れ」
三人の表情が、少しだけ引き締まる。
生きて帰れ。
巡境騎士団で、その言葉は軽くない。
境界災害の現場では、任務成功よりも、帰還そのものが難しいことがある。
ファンタは、自分の大剣の柄へ手を置いた。
「必ず」
そう答えたのは、ほとんど反射だった。
カインが隣で小さく言う。
「その言葉、簡単に使うな」
「でも、帰るだろ」
「帰るために、準備するんだ」
カインは地図を畳み、赤い紐で結んだ。
「だから、今から準備する」
*
昼休み、綴原高校の放送室は、教室とは違う種類の散らかり方をしていた。
古いミキサー、マイク、ケーブル、録音機材、部室用のパソコン、校内放送の台本。壁には過去の文化祭放送のタイムテーブルが貼られている。窓は小さく、外の光が細く入るだけで、部屋の中は常に少しこもった音をしていた。
カイはヘッドホンを片耳だけ当て、マイクの前で台本を読んでいた。
「――今年度の校内短編企画では、ジャンルを問わず、未発表の作品を募集します。選出作品は図書室に展示され、希望者は匿名での応募も可能です。あなたの物語を、誰かの放課後へ――」
読み終えた瞬間、カイは自分で顔をしかめた。
「最後、恥ずくないですか」
隣にいた古賀晴臣が、腕を組んで頷く。
「そこがいいんだ。少し恥ずかしいくらいが、告知文としては残る」
「古賀先生、たまに青春を過信しますよね」
「教師だからな」
「教師って大変ですね」
「相馬、お前はもう少し教師を敬え」
「敬ってます。敬ったうえで言ってます」
録音卓の向こうで、放送部の音羽湊が小さく笑った。
細身の男子で、前髪が少し目にかかっている。人前で話すのは得意ではないが、音の扱いになると急に口数が増えるタイプだった。
「今のテイク、音はよかったですよ。最後の『放課後へ』だけ、相馬くんが照れて笑いかけてました」
「バレる?」
「波形で分かります」
「波形で人の羞恥を読むな」
「声に出てるので」
カイはヘッドホンを外し、椅子にもたれた。
机の上には応募要項のプリントが積まれている。
タイトル欄、作者名欄、匿名希望のチェック欄。提出先は図書室カウンター横の応募箱。担当は古賀晴臣、協力は図書委員会および放送委員会。
カイはその紙を一枚つまんだ。
「匿名可、か」
「そうだ」
古賀が頷く。
「出したいけど名前を出したくない生徒もいるだろうからな。創作ってのは、最初に出す時が一番怖い」
「先生、分かってますね」
「一応、国語教師だからな」
カイはプリントを見つめた。
リョウのことが頭に浮かぶ。
書いているくせに、読ませない。
見せたいくせに、隠す。
怖がっているくせに、怖いと言わない。
カイは、昔のことを思い出した。
小学五年の教室。
リョウが授業で書いた幻想物語を、教師が勝手に読み上げた日。
クラスの何人かが笑った。登場人物のモデル探しを始めた。
リョウは黙っていた。表情を変えずに、机の端を指で叩いていた。
あの時、カイは怒った。
本人が読んでいいと言ったのか、と教師にも言った。
あれが、リョウと親しくなったきっかけだった。
だからこそ、カイには確信がある。
リョウの書くものは、ちゃんと届く。
あいつは、自分で思っているほど、誰にも見せないほうがいい人間じゃない。
怖がっているだけだ。
背中を押せば、動けるかもしれない。
「相馬?」
古賀に呼ばれ、カイは顔を上げる。
「どうした。ぼんやりして」
「あ、いえ」
「誰か出しそうな生徒、心当たりあるか?」
「あります」
「お、いいな。声をかけてみてくれ。もちろん無理強いはするなよ」
カイは少しだけ笑った。
「分かってます」
自分でそう言ってから、胸のどこかに小さな引っかかりが生まれた。
無理強いはするな。
その言葉は、簡単だった。
簡単なはずだった。
*
ファンタたちが出立したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
街道は乾いていたが、遠くの山の稜線には灰色の雲がかかっている。春の終わりにしては風が冷たい。西へ向かうほど、人の気配は薄くなり、宿駅の間隔も広くなる。
ファンタは先頭を歩いていた。
大剣を肩に乗せるようにしている。格好つけているわけではない。重さを逃がすための癖だった。
その後ろを、カインが地図を確認しながら進む。時折、街道脇の石柱へ触れ、刻まれた記号を読み取っていた。
ジアはさらに少し後ろで、紙片に何かを書いている。歩きながら書くので、文字が少し跳ねている。
「ジア」
カインが振り返る。
「歩きながら術式を書くな」
「これは術式ではありません。持ち物一覧です」
「なら余計に今じゃなくていい」
「忘れる前に書かないと、忘れます」
「何を持ってきたかを?」
「はい」
「持ってきた物を忘れるのか」
「忘れます」
ジアは真面目に頷いた。
「でも、書いておけば思い出せます」
ファンタは少し振り返って笑った。
「ジアらしいね」
「褒めていますか?」
「褒めてる」
「では、ありがとうございます」
「ファンタ、甘やかすな」
カインはため息をついた。
「任務中に荷物をなくされると、俺が困る」
「大丈夫です。なくして困るものは、なくした時のための予備があります」
「予備をなくしたら?」
「予備の予備が」
「荷物が多い理由が分かった」
ファンタは笑ったが、すぐに前方へ視線を戻した。
街道の先に、分かれ道が見えてきた。
右は宿駅へ向かう正規路。
左は古い観測路。星見校典塔へ向かう道だ。
通常なら、左の道には封鎖札が立っているはずだった。
しかし、石柱の前には、灰青色の布が結ばれていた。
リヴェルナ王家の救援印。
カインが足を止める。
「……あった」
彼は石柱へ近づき、布に触れた。
布地はリヴェルナ製の耐水布。中央に水路紋。結び方は、避難時の救援要請を示すものだった。
「王家の印?」
ファンタが問う。
「ああ。救援を求める印だ。訓練を受けた者の結び方だな。手が震えた様子はない」
「なら、ミレシア殿下がここを通った」
「可能性は高い」
「だったら急ごう」
「待て」
カインは布の下、石柱の陰に膝をついた。
そこに、細い赤い紐が結ばれていた。
ほとんど目立たない。道守や測路士でなければ、ただのほつれた紐と見落とすかもしれない。
カインの表情が変わる。
「何ですか、それ」
ジアが覗き込む。
「測路記号だ。道守同士の簡易暗号」
「何と?」
カインは赤い紐の結び目を指で確かめた。
「正規路を信じるな。追跡者へ警告。近づくな、ではないな。もっと正確には……」
彼は少しだけ眉を寄せる。
「この筋書きを信じるな」
風が吹いた。
救援印の灰青色の布が揺れ、その下で赤い紐が小さく震える。
ファンタは二つの印を見比べた。
「救援を求めてるのに、信じるなって?」
「そうだ」
「誘拐犯が偽装した可能性は?」
「ある。だが、この赤紐の結び方は古い。リヴェルナの公路調査で一部の関係者だけが使っていたものだ。俺も現地で教わった」
「ミレシア殿下が?」
カインは少しだけ沈黙した。
「少なくとも、彼女なら知っている」
ファンタは街道の先を見た。
観測路は、細く、静かで、どこか人を拒むように森の中へ伸びている。
奥に塔はまだ見えない。
「なら、やっぱり急がないと」
「違う」
カインの声が少し強くなった。
「救援印は、俺たちを呼んでいる。赤紐は、その呼び方を疑えと言っている。これは、ただの誘拐じゃない」
「ただの誘拐じゃないなら、なおさら危険だ」
「急ぐことと、筋書きを信じることは違う」
ファンタは黙った。
その言い方に、どこか引っかかるものがあった。
筋書き。
誰かが、彼らに「姫を救いに行く騎士」の役割を与えている。
そう言われているような気がした。
ジアが、二人の間で手を上げた。
「あの、試してみてもいいですか」
「何を」
カインが警戒する。
「探査術です。塔の方向に、記述魔法の痕跡があるか見ます。古い術式なら、ここからでも少し拾えるかもしれません」
「危なくない?」
ファンタが聞く。
「危ない術式ではありません。ええと、たぶん」
「たぶん?」
「手順の三番目が少し怪しいだけです」
「やめろ」
カインが即答した。
「でも、今知っておいたほうがいいです」
「怪しい手順を含む術式を街道で使うな」
「怪しいのは私の記憶で、術式そのものは安全です」
「もっと悪い」
ファンタは少し考えた。
「カイン、ジアの術式で何が分かる?」
「成功すれば、塔周辺に残っている記述魔法の種類が分かる。失敗すれば、俺たちの位置が向こうに伝わる可能性がある」
「では、位置を隠す補助を入れます」
ジアはもう紙片を取り出していた。
「あと、失敗したらすぐ燃やします」
「燃やすな。森だぞ」
「あ、そうですね。では、濡らします」
「紙片を濡らしたら術式が崩れる」
「崩すために濡らすんです」
「術式を最初から崩す前提で組むな」
ファンタは二人のやり取りを見ながら、少しだけ笑った。
そして言った。
「やろう」
「ファンタ」
カインが睨む。
「ただし、カインが補助。ジアは危なくなったらすぐ止める。僕は周囲を見る」
カインはまだ不満そうだったが、最終的には頷いた。
「……三十呼吸だけだ。それ以上は切る」
「はい」
ジアは嬉しそうに膝をつき、紙片を地面に並べた。
文字を書く。
桃色の髪の先に、金色の文字光が走る。
「道は道として、名は名として、封じられた頁の耳を少しだけ貸してください」
彼女の声に合わせて、紙片が浮いた。
ファンタは周囲を見張る。
森は静かだった。鳥の声がない。風はあるのに、葉音だけが遠い。
ジアの紙片が一枚、くるりと回る。
「あれ」
「何だ」
カインの声が硬くなる。
「塔のほうに、誘拐術式の痕跡は薄いです」
「薄い?」
「はい。人を拘束したり、強制転移したり、意識を封じたりする術式は、少なくとも表層にはありません」
「じゃあ、何がある」
ジアは目を細めた。
瞳の黄緑色が、金の文字光を映す。
「古いです」
「古いって?」
「神筆会より前の……いえ、記述院の現行分類にも合いません。塔の奥に、原典保存系の術式があります。誰かが何かを隠しているというより、誰かが何かを消されないように守っている感じです」
その瞬間、紙片の一枚が黒く焦げた。
「ジア!」
「止めます!」
ジアが叫び、紙片を両手で押さえる。
カインが赤い紐を引き、紙片の周囲へ簡易遮断線を作る。
ファンタは反射的に剣へ手をかけたが、敵は現れなかった。
紙片は、かすかな黒い煙を上げて止まった。
ジアは息を吐く。
「……すみません。少し見すぎました」
「三十呼吸って言っただろ」
「二十六くらいでした」
「そこは正確なのか」
カインは焦げた紙片を拾い、匂いを確認した。
「黒稿体の反応は?」
「ありません。これは、反発です。塔が見られることを嫌がったというより、塔の中の記録が、こちらを記録し返そうとしたような……」
「記録し返す?」
ファンタが聞き返す。
ジアは困ったように笑った。
「私たちが塔を見ようとしたら、塔も私たちを見ようとしたんです」
「それは、あまりいい話じゃないな」
カインが言う。
ファンタは、観測路の奥を見た。
王家の救援印。
この筋書きを信じるなという赤い紐。
誘拐術式の痕跡は薄く、塔の奥には古い原典保存系の術式。
助けを求めているのか。
近づくなと言っているのか。
何かを見つけてほしいのか。
それとも、自分たちは見つける役を与えられているだけなのか。
分からない。
だからこそ、進むしかない。
ファンタはそう考えた。
カインなら、分からないなら止まれと言うかもしれない。
けれど、分からないまま誰かが危険の中にいるなら、止まっている時間が惜しい。
「行こう」
ファンタは言った。
カインが、予想していたようにため息をつく。
「そう言うと思った」
「止める?」
「止めたい」
「止めないの?」
「止めても行くだろ」
「……行く」
「だから、行くための道を作る」
カインは地図を開き、赤い紐を新しい印へ結び直した。
「ただし、ファンタ。塔が見えた瞬間に走るな。ジア。未知の術式を見つけた瞬間に触るな」
「分かった」
「努力します」
「ジア」
「分かりました」
三人は観測路へ入った。
その背後で、王家の救援印と赤い測路記号が、同じ風に揺れていた。
*
放課後の図書室では、短編企画の応募箱が設置されていた。
貸出カウンターの横。
白い箱に、古賀が手書きしたラベルが貼られている。
校内短編企画 応募箱
匿名可
締切 来週金曜日
リョウはその箱を見ながら、ポスター用の画鋲を指で押し込んだ。
「曲がっています」
横から、はつかが言った。
「どこが」
「右下が、三ミリほど下がっています」
「三ミリなら誤差だろ」
「掲示物は、最初に曲がると、時間が経つほど目立ちます」
「人生訓みたいに言うな」
「掲示物の話です」
はつかは真面目に言う。
リョウは仕方なく画鋲を外し、ポスターを貼り直した。
「これで?」
「今度は左上が」
「細かい」
「記録は、細部が残ります」
その言葉に、リョウは手を止めた。
はつかは、言ってから自分でも気づいたように少し口を閉じた。
昨日のことは、まだ何も説明されていない。
題名のない本。
白紙に浮かんだ文字。
はつかの動揺。
透子の不自然な冷静さ。
リョウは、応募箱へ視線を戻した。
「昨日の本」
「……はい」
「御影さんは、整理中の資料だって言ってた」
「そうですか」
「お前は?」
「私は、何も言えません」
「またそれか」
「はい」
はつかは視線を下げる。
だが、その態度に昨日ほどの硬さはなかった。むしろ、言えないこと自体を申し訳なく思っているように見えた。
「言えないなら、せめて一つだけ答えろ」
「答えられることなら」
「あの本は、俺のノートと関係あるのか」
はつかは黙った。
図書室の窓の外で、夕方の光が川沿いの桜並木を照らしている。
カウンターの奥では透子が利用記録を整理している。こちらを見てはいない。けれど、見ていないことが、逆に見ているように感じる。
はつかは小さく息を吸った。
「関係が、できてしまった可能性があります」
「できてしまった?」
「最初からあったのか、昨日できたのか、私には判断できません」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味です」
「説明になってない」
「説明すると、もっと危険になるかもしれません」
リョウは苛立ちを覚えた。
「危険、危険って、何が危険なんだよ。俺が何を書いたら何が起きる。あの本は何だ。お前は何を知ってる」
声が少し大きくなった。
近くの閲覧席にいた一年生が、ちらりとこちらを見る。
はつかはその視線に気づき、さらに声を小さくした。
「久世さん」
「何」
「私は、あなたを疑っています」
予想外の言葉に、リョウは黙った。
「同時に、あなたにしか分からないことがあるかもしれないとも思っています」
「何だよ、それ」
「私にも分かりません」
「分からないこと多すぎだろ」
「はい」
はつかは、少しだけ困ったように目を伏せた。
「だから、怖いんです」
その声は、昨日の階段で聞いたものよりもずっと素直だった。
リョウは言い返せなくなった。
はつかは、いつも感情を抑えている。
礼儀正しく、静かで、必要以上に踏み込まない。
だが、その奥には確かに恐怖がある。
自分が覚えていない少女。
周囲には最初からいたことになっている少女。
本人もまた、自分が何者か分からないと言った少女。
リョウが彼女を不気味だと思うのと同じように、彼女もリョウを不気味だと思っているのかもしれない。
自分を覚えていない唯一の人間として。
「……俺も怖いよ」
リョウは、小さく言った。
はつかが顔を上げる。
「昨日の本も、お前も、御影さんも。全部、分からない」
「はい」
「でも、分からないまま、書くなって言われるのは腹が立つ」
「そうですね」
「認めるのかよ」
「怒る理由は、あると思います」
「そこまで冷静だと、逆に怒りづらい」
「すみません」
「謝るな」
二人の間に、少しだけ空気が緩んだ。
その時、図書室の扉が勢いよく開いた。
「リョウ、いる?」
カイだった。
放送室からそのまま来たのか、首にヘッドホンを掛け、手には応募要項のプリントを持っている。
図書室の静けさに気づいて、彼は慌てて声を落とした。
「……いた」
「図書室で叫ぶな」
「叫んでない。元気に入室しただけ」
「同じだろ」
カイは近づいてきて、はつかに気づく。
「あ、廻宵もいた。図書室組?」
「補佐ですので」
「補佐って公式なの?」
リョウが言う。
はつかは少しだけ考えた。
「記録上は」
「また変な言い方する」
カイは笑ったが、リョウは笑わなかった。
「で、何」
「短編企画の応募要項。お前に渡そうと思って」
「いらない」
「即答すんな」
「いらない」
「匿名可だぞ」
「見た」
「ジャンル自由」
「見た」
「未完成でも、相談すれば展示までに整えられるって古賀先生が」
「出さないって言ってるだろ」
カイは口を閉じた。
その沈黙に、はつかが静かに視線を下げる。
彼女は自分がいていい場面ではないと判断したのか、一歩下がった。
「私は、返却処理をしてきます」
そう言って、カウンターの方へ向かう。
カイはその背中を見送り、少しだけ眉を上げた。
「何かあった?」
「別に」
「別に、の顔じゃないけど」
「お前、今日そればっかだな」
「お前の顔が分かりやすいのが悪い」
「分かった気になるな」
リョウの声が、思ったより硬くなった。
カイは一瞬、言葉を止める。
それでも、すぐに笑おうとした。
「悪い。けどさ、ほんと一回だけでいいから――」
「嫌だ」
「お前、ほんとは読んでほしいんだろ」
その言葉で、リョウの中の何かが閉じた。
「違う」
「怖いだけじゃん」
「違う」
「じゃあ何で書いてんだよ」
「お前に説明する義務はない」
「親友にも?」
「親友なら、聞かないで待つこともできるだろ」
カイの表情が、少しだけ傷ついたものになる。
リョウはそれを見て、自分がまた言いすぎたと分かった。
分かったが、止まれなかった。
「お前は、俺のためって言えば、何でも通ると思ってる」
「思ってねえよ」
「思ってる」
「リョウ」
「俺が出さないって言ってるなら、それで終わりだろ」
「……分かった」
カイは応募要項のプリントを丸めかけて、やめた。
それを机の上に置く。
「でも、もったいないとは思ってるからな」
「思うだけにしろ」
「はいはい」
カイは笑ってみせた。
けれど、その笑いは少し雑だった。
「じゃ、放送室戻るわ」
背を向けるカイへ、リョウは何か言おうとした。
悪かった。
言いすぎた。
今は見せたくないだけだ。
いつかは、分からないけど。
いくつかの言葉が頭に浮かんだ。
しかし、どれも声にならなかった。
カイは図書室を出ていく。
扉が閉まる音は、普段より少しだけ重かった。
カウンターの奥で、透子が静かに本を揃えていた。
はつかは返却カードを手にしたまま、こちらを見ていない。
リョウは、机に置かれた応募要項を見下ろした。
あなたの物語を、誰かの放課後へ。
リョウはそれを裏返した。
*
観測路の先に、星見校典塔エル・オルドの影が見え始めたのは、夕方近くになってからだった。
塔は、山の斜面に刺さるように立っていた。
白い石造り。
だが、長い年月で表面は灰色にくすみ、ところどころに蔦が絡んでいる。上部には天体観測用の円環があり、壊れた歯車のように空へ向かって開いていた。塔の周囲には古い防壁があるが、軍事施設というより、何かを守るための書庫に近い印象だった。
ファンタは足を止めた。
「見えた」
「走るな」
即座にカインが言う。
「まだ走ってない」
「走る顔をした」
「今日、みんな僕の顔を読みすぎじゃない?」
「読みやすいんだよ」
カインは周囲を確認する。
塔へ向かう道には、争った跡がない。
馬車の轍も少ない。
誘拐犯が王女を連れて逃げ込んだにしては、足跡が整いすぎている。
ジアが塔を見上げ、胸元の緑青色の留め具に触れた。
「やっぱり、変です」
「何が」
ファンタが問う。
「怖い塔の感じがしません」
「怖い塔の感じって何」
「こう、呪いが漏れていたり、悪い魔導士が笑っていたり、入口に骨が飾ってあったり」
「噂に影響されすぎだ」
カインが言う。
「でも、これは違います。中で何かが保管されています。閉じ込めているというより、読まれないように守っている」
ファンタは塔を見る。
さらわれた姫。
魔導士の塔。
古い原典。
信じるなという道標。
物語なら、ここで剣士が塔へ踏み込み、囚われの姫を救うのだろう。
だが現実の道には、もっと多くの線がある。救援印の下の赤い紐のように、表向きの筋書きから外れた小さな警告がある。
カインが、塔へ続く石段の前でまた膝をついた。
「また印がある」
灰青色の布。
王家の救援印。
そのすぐ横に、赤い紐。
カインは読み取る。
「救援要請。追跡者を選別。王家発表を疑え。塔内で合流不可。証拠優先」
「証拠?」
ファンタが聞く。
「そう読める」
「救出より証拠を優先しろってこと?」
「少なくとも、この印を残した人物はそう言っている」
ジアが不安そうに塔を見上げた。
「ミレシア殿下が、本当に自分で……?」
ファンタは答えられなかった。
もし王女が自分で塔へ来たのなら、救出任務とは何なのか。
誰が、彼女をさらわれたことにしたのか。
誰が、自分たちをここへ向かわせたのか。
塔の上部で、古い円環が風を受けて低く鳴った。
その音は、遠くの鐘にも、閉じた本の背が軋む音にも似ていた。
「入ろう」
ファンタは言った。
カインは今度は止めなかった。
「入る。ただし、助ける相手が、本当に助けを求めているとは限らない」
「分かってる」
「分かってない顔だな」
「顔で判断するのやめてくれ」
「じゃあ言葉で確認する。ファンタ、塔の中で王女殿下を見つけても、抱えて走るな」
「状況による」
「状況によらず、まず本人へ聞け」
ファンタは少しだけ不満そうにした。
「危険だったら?」
「危険だと説明しろ」
「説明している間に危険が来たら?」
「その時は俺が言う」
ジアが小さく手を挙げる。
「私も、王女殿下に聞いたほうがいいと思います」
「ジアまで」
「はい。治療も、本人の意識があるなら説明してからです。前に、それで怒られました」
「誰に?」
「カインさんに」
「当然だ」
カインは短く言った。
ファンタは二人を見て、少しだけ息を吐いた。
「……分かった。まず聞く」
「よし」
カインは石段へ足をかけた。
その瞬間、塔の扉に刻まれた古い文字が、淡く光った。
ジアが目を見開く。
「記述反応」
「攻撃か」
ファンタが剣へ手を伸ばす。
「違います」
ジアは光を見つめる。
「名前を求めています」
扉の文字が、三人の前へ浮かび上がった。
来訪者は、己の名を記せ。
ファンタは一歩前へ出た。
「ファンタ=レイヴァン。王都巡境騎士団」
文字が揺れる。
カインが続く。
「カイン=ローデル。同じく巡境騎士団、測路支援班」
ジアは少しだけ迷ってから言った。
「ジア。独立記述魔導士です」
家名のない名。
扉は、ジアの前で少し長く光った。
まるで、足りないものを探すように。
しかし、やがて文字は沈み、扉がゆっくり開いた。
塔の内部から、古い紙と星灯りの匂いが流れてくる。
ファンタはその匂いを吸い込んだ。
知らない場所のはずなのに、どこかで読んだことのある場面へ踏み込むような感覚があった。
*
現実層の夕方は、異典層の塔よりもずっと平凡だった。
チャイムが鳴り、生徒たちが帰り支度をする。
教室には、掃除当番が机を下げる音と、部活へ急ぐ生徒の足音が響いていた。
リョウは図書室の仕事を終え、二年三組へ戻ってきた。
目的は、机の中に置いたままだった文庫本を取ることだった。
鞄は持っている。黒いノートも入っている。そう思っていた。
教室には、もう数人しか残っていない。
カイの姿はない。
放送室か、職員室だろう。
リョウは自分の席へ行き、机の中を探った。
文庫本を取り出す。ついでに、プリントの束も出てきた。古い小テスト、授業プリント、不要な連絡用紙。
その中に、朝には入れた覚えのない紙があった。
校内短編企画の応募要項。
カイが図書室で置いていったものだ。
リョウはそれを丸めようとして、やめた。
捨てるほどではない。
出すつもりはない。
ただ、それだけだ。
彼はプリントを机の上に置き、鞄を開いた。
奥のポケットを探る。
黒いノートがない。
リョウの手が止まった。
もう一度探す。教科書を出す。文庫本をどかす。筆箱、折りたたみ傘、予備のプリント、眼鏡ケース。
ない。
朝、確かに鞄へ入れた。
図書室で開いた。
そのあと、どうした。
はつかと話し、カイが来て、言い合いになって、応募要項を裏返して――。
閲覧机の上に、置いたままだ。
「……最悪だ」
リョウは鞄を掴み、教室を出ようとした。
その時、廊下の向こうから古賀の声が聞こえた。
「相馬、応募箱の鍵は御影先生に預けておけばいい。今日のところはプリント配布だけで十分だ」
「了解です」
カイの声。
リョウは反射的に足を止めた。
廊下の角から、古賀とカイが歩いてくる。
カイは手にいくつかのプリントと、放送用の台本を持っていた。もう片方の手には、黒いノート。
リョウのノートだった。
「カイ」
声が出るより先に、カイがリョウに気づいた。
「あ」
その「あ」は、何かを隠そうとする前の声だった。
リョウは一瞬で理解した。
「それ、俺のだろ」
「ああ、うん。図書室の机に置きっぱなしだったから」
「返せ」
リョウは手を伸ばす。
カイはすぐに返そうとした。
だが、その前に、古賀がノートへ目を向けた。
「久世の原稿か?」
「違います」
リョウは即答した。
カイは同時に言いかけていた言葉を呑み込む。
古賀は、二人の間の空気を見て、少しだけ眉を上げた。
「……まあ、違うなら違うでいい。相馬、職員室に台本だけ置いておいてくれ」
「あ、はい」
古賀は深入りしなかった。
そのまま廊下を曲がっていく。
教師の足音が遠ざかるまで、リョウはカイを見ていた。
「返せ」
もう一度言う。
カイはノートを差し出した。
「悪い。勝手に持ったのは、ほんと悪い。ただ、机の上に置きっぱだったから、誰かに見られる前に回収しただけで」
「読んだのか」
「読んでない」
カイは答えた。
少し早かった。
リョウはそれを見逃さない。
「読んだんだな」
「表紙と、最初の何行かだけ」
「読んだんだな」
「だから、全部じゃないって」
「読んだんだな」
カイは口を閉じた。
その沈黙が、答えだった。
リョウの指が、ノートの端を掴む。
カイは手を離す。ノートの重さがリョウの手に戻る。
戻ったはずなのに、もう同じものではない気がした。
誰かの目に触れた。
自分が許可していないのに。
自分の内側へ、また誰かが入った。
「最初の何行」
リョウは低く聞いた。
「……ファンタって名前と、北境都市ってところくらい。あと、隣国の姫がどうとか」
リョウの背中に、冷たいものが走った。
「それだけか」
「それだけ。ほんとに」
「誰かに話したか」
「話してない」
「古賀先生には?」
「言ってない」
「本当だな」
「本当だって」
カイは少し苛立った顔をした。
「そんな疑うなよ。俺だって、勝手に全部読むようなことはしない」
「最初の何行は読んだんだろ」
「だから悪かったって」
「悪かったで済むと思ってんのか」
声が強くなった。
廊下の向こうを通りかかった生徒が、ちらりとこちらを見る。
カイは気まずそうに目を逸らし、リョウへ近づいた。
「場所変えよう」
「嫌だ」
「ここで揉めるほうが嫌だろ」
「揉める原因を作ったのはお前だ」
「だから謝ってる」
「謝れば、読んだことが消えるのか」
カイの顔から、いつもの軽さが消えた。
「リョウ」
「何」
「お前のそれ、やっぱ面白いよ」
リョウは言葉を失った。
カイは、本気の顔で言った。
「最初の数行だけでも、分かった。ちゃんと読みたいと思った。古賀先生にも、たぶん伝わる。匿名でいいなら出せるだろ。お前、ほんとに――」
「黙れ」
リョウの声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「それ以上、言うな」
カイは黙った。
数秒の沈黙。
リョウはノートを鞄へ押し込んだ。
「二度と触るな」
そう言って、廊下を歩き出す。
カイは追ってこなかった。
背中に視線を感じたが、リョウは振り返らなかった。
*
塔の中は、外から見たより広かった。
円形の玄関広間。
壁一面に古い星図が刻まれ、床には方位線と文字が重なっている。中央には、乾いた水盤のような円形装置があり、その底には割れた鏡片が沈んでいた。
ジアは壁の文字へ近づき、触れないぎりぎりの距離で目を凝らす。
「やっぱり、現行の記述院式じゃありません。もっと古いです。術式というより、記録そのものが魔法になっている感じです」
「触るなよ」
カインが言う。
「触ってません」
「今、指が近かった」
「近いだけです」
「近いは、ジアの場合ほぼ触るだ」
「ひどいです」
ファンタは広間の奥を見る。
階段が三方向に分かれていた。
左は上階へ。
右は地下へ。
正面は閉じた扉へ続いている。
正面扉には、リヴェルナ王家の水路紋が残されていた。
新しい。
ミレシアがここを通ったのは間違いなさそうだった。
だが、その横にまた赤い紐がある。
カインが読み取る。
「正面を選ぶな。上は見張り。地下に原典」
「原典って、ジアが言ってたものか」
「たぶんな」
ファンタは正面扉を見る。
「でも、王女殿下は?」
「王家印は正面。私的な測路記号は地下。つまり、表向きには正面へ向かったことにしながら、実際には地下へ誘導している」
「誰を?」
「俺たちを。あるいは、俺を」
カインの声がわずかに低くなった。
「この記号を読める相手にだけ、地下へ来いと言っている」
ファンタは、カインを見る。
「なら、カインを呼んでるのか」
「期待されている、というほうが近い」
カインは表情を変えずに言った。
「それは、信頼とは限らない。利用かもしれない」
ファンタは少し黙った。
カインは、いつもそうだ。
誰かの意図を、好意だけでは受け取らない。信頼されていると言われても、その信頼が自分に何をさせようとしているのかまで考える。
ファンタには、その慎重さが時々遠回りに見える。
けれど、今はその慎重さが必要なのだと分かる。
「地下へ行こう」
ファンタは言った。
「正面は?」
「後で確認する。まず、ミレシア殿下が読ませたいものを見る」
カインが少しだけ目を細めた。
「珍しく、筋書きに乗らない判断だな」
「褒めてる?」
「まだ分からない」
「厳しいな」
「評価は帰ってからだ」
ジアが地下階段の前へ立った。
「下から、強い記述反応があります。あと……」
「あと?」
「誰かが、読まれるのを待っています」
ファンタは大剣の柄を握り直した。
「人か?」
「本かもしれません」
「本が待つのか」
ジアは真面目に頷いた。
「待ちますよ。読まれたい本は、けっこう多いです」
その言葉に、ファンタはなぜか胸の奥がざわついた。
読まれたい本。
読まれたくない本。
閉じられたままの本。
知らないはずの感覚が、一瞬だけ指先をかすめた。
紙をめくる音。
窓の外の雨。
黒いノート。
ファンタは足を止めた。
「ファンタ?」
カインが見る。
「いや」
ファンタは首を振った。
「何でもない」
そう答えながら、彼は自分の言葉が嘘だと分かっていた。
*
リョウは、帰り道で一度もノートを開かなかった。
鞄の中にあるだけで、肩が重い。
駅前の再開発地区を抜け、古い商店街の横を通る。夕方の店先には、惣菜の匂いと、自転車のブレーキ音と、どこかの店のラジオが混じっていた。
カイに読まれた。
最初の数行だけ。
そう言っていた。
だが、どこまで読まれたかは問題ではない。
許可していない。
それが全てだった。
母の赤ペン。
小学生の頃の朗読。
クラスメイトの笑い。
見せていないはずのものを見られる感覚。
カイは、そのことを知っているはずだった。
知っていたから、あの時怒ってくれたはずだった。
なのに。
リョウは信号待ちで立ち止まる。
交差点の向こうを、学校帰りの生徒が何人か渡っていく。
大型車が一台、低いエンジン音を響かせながら横を通り過ぎた。排気の匂いが、雨上がりの湿った空気に混じる。
スマートフォンが震えた。
カイからだった。
『悪かった。
でも、ほんとに面白かった。
それだけは言わせて。』
リョウは画面を見つめた。
指が返信欄へ動く。
『二度と触るな』
そこまで打って、消した。
『読んだことを謝れ』
それも消した。
『面白いとか言うな』
それも消した。
結局、何も返さずに画面を閉じる。
信号が青になった。
リョウは歩き出した。
*
放送室に戻ったカイは、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。
音羽湊がパソコンの前で編集作業をしている。
スピーカーから、昼に録った告知音声が小さく流れていた。
――あなたの物語を、誰かの放課後へ。
カイはその声を聞いて、顔をしかめる。
自分の声なのに、妙に他人事みたいだった。
「相馬くん」
湊が振り返る。
「今のテイク、やっぱり少し笑ってますね。録り直します?」
「……後で」
「大丈夫ですか」
「うん」
カイは笑おうとして、うまくいかなかった。
机の上には、応募要項の残りと、古賀から預かった応募受付用の封筒がある。
放送室から職員室へ持っていく予定のものだ。
カイは、ポケットからスマートフォンを出す。
リョウへ送ったメッセージは、既読にならない。
怒っている。
当然だ。
でも、カイにはどうしても納得できない部分が残っていた。
リョウの原稿は、面白かった。
最初の数行だけで、知らない世界の空気があった。
ファンタという少年が、ちゃんとそこにいる気がした。
カイは、もっと読みたいと思った。
それを誰にも見せずに閉じるのは、やっぱりもったいない。
リョウは怖がっている。
怖がっているから、ああやって怒る。
怒って、自分から全部閉じる。
昔からそうだ。
だったら、誰かが少しだけ開けてやる必要がある。
カイは、自分の考えに引っかかりを覚えた。
少しだけ開ける。
それは、誰のためだ。
リョウのため。
そう言えば、答えになる気がした。
でも、今日のリョウの声が耳に残っている。
――お前は、俺のためって言えば、何でも通ると思ってる。
カイは机の上に肘をつき、額を押さえた。
「……分かってるって」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
その時、放送室の扉が開いた。
古賀が顔を出す。
「相馬、応募箱の初期分、今日中に図書室へ置いておけるか?」
「あ、はい」
「封筒の予備も一緒にな。匿名希望の生徒は、作品だけ封筒へ入れて出せるようにしておく」
「分かりました」
古賀はそれだけ言って戻っていく。
カイは封筒の束を手に取った。
白い封筒。
作者名を書かなくてもいい。
タイトルが未定でも、仮題でいい。
リョウのノートには、題名がなかった。
カイは、しばらく封筒を見つめた。
リョウが出さないと言った。
それは分かっている。
でも、あいつは本当は読まれたいのではないか。
自分では出せないだけではないか。
もし匿名で出して、評価されたら。
もし誰かが、面白いと言ったら。
リョウは怒るかもしれない。
でも、その後で少しは、書くことを怖がらなくなるかもしれない。
カイは立ち上がった。
「音羽、ちょっと図書室行ってくる」
「はい」
「編集、先進めといて」
「分かりました」
廊下へ出る。
夕方の校舎は、人が減って静かになっていた。
窓の外は青く沈み、旧校舎へ続く渡り廊下の奥だけが薄暗い。図書室へ向かう階段を上りながら、カイは何度も自分に言い聞かせた。
勝手に読むわけじゃない。
勝手に全部を直すわけじゃない。
匿名で出すだけ。
もし駄目なら、あとで取り下げればいい。
古賀先生なら悪いようにはしない。
リョウのためだ。
リョウのため。
図書室は、もう閉館準備に入っていた。
カウンターには御影透子がいる。
はつかの姿はない。
「御影先生、応募用の封筒と受付用紙です」
「ありがとうございます、相馬さん」
透子は封筒を受け取り、応募箱の横へ置いた。
カイはカウンターの端を見る。
そこには、図書室で回収された忘れ物がいくつか置かれていた。筆箱、ハンカチ、教科書。
その横に、数枚の紙があった。
黒いノートから外れたのか、リョウの筆跡の原稿用紙だった。
カイは息を止めた。
昼間、リョウにノートを返す時、数枚だけ挟まっていた紙が落ちたのかもしれない。
表紙はない。題名もない。
ただ、最初の一行に、ファンタ=レイヴァンという名前がある。
透子は別の本へ視線を落としている。
気づいているのか、気づいていないのか、分からない。
カイは紙へ手を伸ばした。
「それは」
透子の声がした。
カイの指が止まる。
「久世さんの忘れ物ですか」
「あ、はい。たぶん」
「届けますか」
「……俺が渡します」
透子はカイを見た。
灰色の瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
「本人の許可は、取っていますか」
カイは笑おうとした。
「友達なので」
「答えになっていません」
静かな声だった。
カイは言葉に詰まる。
それでも、原稿用紙から手を離さなかった。
「返します。ちゃんと」
「そうですか」
透子はそれ以上、止めなかった。
カイは原稿用紙を手に取る。
その紙の上の文字が、目に入ってしまう。
北境都市セレイン。
帰る道を見失わない鳥。
若い剣士ファンタ。
隣国の姫。
魔導士の塔。
やっぱり、面白い。
カイは胸の奥でそう思ってしまった。
思ってしまった瞬間、もう戻れない気がした。
彼は応募用の白い封筒を一枚取った。
原稿用紙を入れる。
タイトル欄は空白。
作者名欄も空白。
受付用紙に、仮題を書く欄があった。
カイはペンを握る。
少し考えてから、そこに書いた。
『隣国の姫と魔導士の塔』
違う。
たぶんリョウなら、こんな説明的な題名はつけない。
でも仮題ならいい。あとで変えればいい。
カイは封筒の口を閉じた。
手が少し震えていることに気づいた。
悪いことをしているからではない。
そう思おうとした。
背中を押しているだけだ。
リョウが自分では出せないものを、代わりに出しているだけだ。
応募箱の投入口は、思ったより細かった。
カイは封筒を差し込む。途中で一度、紙が引っかかった。
その一瞬、リョウの声が蘇る。
――親友なら、何してもいいのか。
カイは唇を噛んだ。
封筒を押し込んだ。
箱の中で、紙が落ちる小さな音がした。
カイはしばらく、その音の余韻を聞いていた。
カウンターの奥で、透子が静かに応募箱を見ている。
「相馬さん」
「はい」
「提出物は、本人の意思で出されるものです」
カイの喉が詰まった。
「……分かってます」
「そうですか」
透子はそれ以上、何も言わなかった。
図書室の窓の外では、夕方の光が完全に沈もうとしていた。
川沿いの桜並木が、青黒い影へ変わっていく。
応募箱の中で、題名のない原稿が沈黙している。
その同じ頃。
どこか遠い塔の地下で、ファンタたちは、まだ開かれていない原典の扉の前に立っていた。
扉には、古い文字が浮かんでいた。
――読まれることを望む者は、名を残せ。
――読まれることを拒む者は、ここで引き返せ。
ファンタは、その文字を見つめた。
なぜか胸の奥が、紙の擦れる音のようにざわついていた。




