14話 昏睡
母、レア・グレイシアの容態が急変した。
その日は、なんて事のない日常だった。
当たり前の毎日だった。
あまりに突然だった。
俺はいつものように朝起きて、学校にでも向かい、
そうして…帰ってから、
母は目を覚まさなくなった。
おかしいと思ったんだ。
母はいくら病弱とはいえ、
昼頃まで寝ているような人じゃなかった。
ずっとだ。
ずっと、母は昏睡状態のまま、目覚めない。
「母さん…」
俺は寝ている母の手を握る。
母が倒れてから祖父のエドは、世界中から名医とこの世界での最高と言われる医療器具をこの家にかき集めた。
母とのこの思い出の部屋も、こうなればもはや病院のようで、無機質な音を立てる酸素を送り込む為のマスクに、人工心肺。高価なそれら人命補助具をつけなければ生きる事すらできないそんな母。
こんなの、もはや人とは呼べなかった。
死体を動かしているだけだ。
「いつかこうなる日が来るとは分かっていた」
母の病は、不治の病だ。
それは母の母である俺の祖母から受け継いだ遺伝性の病で、こうなれば最後。
眠ったまま、穏やかに2、3年をかけて死んでいくんだという。
だから覚悟はしていた。
いつ、母が倒れてもいいように。
いなくなってもいいように、
俺は精一杯母と過ごして来たはずだ。
でも。
「あまりに突然すぎるだろ」
もっと時間があると思っていた。
勝手な期待と憶測で、
母はまだ死なない。
いやこのままずっと元気なのだと思い込んでいた。
こんなことなら
産んでくれてありがとうって、言っておけばよかった。
愛してくれてありがとうって、言っておけばよかった。
最後に交わした言葉だってもう、覚えていない。
「言ってくれよ」
辛かったんだろ、最近。
それなのに心配させるからって誰にも言わずに、倒れるまで我慢してさ。
そんで目覚めないって。
…何してんだよ。
我慢するのは、
悪い癖だって、グレンにも言われてただろ。
辛い時は辛いって言えって、俺も言ってただろ。
「言ってくれよ…母さん」
分かれば。
少しでも弱音を吐いてくれれば。
もっと、いろいろなことをしてやれたのに。
学校なんて行かずに、ずっと貴方のそばにいたのに。
倒れるその時まで、そばにいたのに。
「俺には…どうすることも、できないのか?」
このまま、母が死んでいくのを待つしか無いのか?
母に感謝すら伝えられないまま、ただ見送ることしかできないのか?
貴方に愛を返すことは出来ないのか?
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
母を失いたくない。
こんなんで別れられるか。
なにか方法はないのか。
母の命を救う方法はないのか?
…。
分かってるよ。
できないんだ。
俺には何にも出来ない。
なにか方法があれば、
それが俺にでもできるような方法なら、
そんなのはとっくにエドがやっていたはず。
だから、俺なんかじゃ出来ないのは分かっている。
「何をしていたんだ俺は…」
こうなることはいくらでも予期できていたことだ。
なら、俺は対策考えれた。
その時間ならいくらでもあっただろ!
なにが!
なにが、なにがなにが、暇だ!
なにが強くなりたいだ!
なんのための転生だ!
俺は母の為に何をした?
母の身体が悪いと知って治そうと努力したか?
…努力ってなんだよ、
俺がどう努力すればよかった?
医学の勉強とかか?
俺が母の病気を治せばよかったか?
無茶だろ。
世界中の名医をかき集めても治らない病気をどうして俺に治せるってんだ。
でも挑戦なら出来ただろう。
俺なら少なくとも、やってみるくらいなら出来たはずだ。
必死になって勉強をして、
医者にでもなって、
母の病気を治す為に研究する。
考えるだけで困難な道だけど、出来ないわけではなかった。
その時間なら9年もあった。
…なんで俺はそれが出来なかったか。
実行しなかったか。
それは俺が無力だからだ。
「貴方を救えない、俺を許してください…母さん。
俺は無力な…1人の人間でしかないんです…」
拳を強く握る。
手のひらに爪が食い込んで血がポタリポタリと流れてる。
痛い。
酷く痛い。
でも今はこの痛みを感じたい。
「坊ちゃま…」
部屋に入ってきたのはグレンだった。
「もう寝てください。
今日も学校があるでしょうに」
グレンが言う通り、もう既に時刻は深夜。
いや早朝とも呼べるような時間だった。
「学校にはもう行かない」
「行かないってどうして?」
「母さんがこんな状態で行けるわけないだろ!」
俺がそばにいないと。
今でも母は遠くに行ってしまいそうな気がした。
「お嬢様のことなら…」
「なんだよ、まさか、目覚めないって言いたいのかよ?」
「ええ」
グレンは、はっきりと言い切った。
俺が居たって居なくたって母の容態は変わらないと。
「出てけ」
「…出ていきません」
「出てけよグレン。
頼む、出てってくれ。
じゃなきゃ、強い言葉を使ってしまう」
「…」
「分かってくれ、家族に嫌われたくないんだ」
・・・
グレンが部屋から出てからしばらくして真っ赤な顔をしたエドが部屋に入ってきた。
きっとさっきまで酒でも飲んでたのだろう。
「元気かユキ」
「グレンの次は爺ちゃん…か」
グレンが呼んだのだろう。
俺は昔からエドには頭が上がらないからな。
グレンも頑固だ。
よっぽど俺を寝かせたいのだと見える。
「安心しなさい。
レアのことなら医者が全部やってくれる」
「爺ちゃんは本当にそんなこと思ってるのか?」
「…」
エドはなにも言わなかった。
「答えろよッ!爺ちゃんは!
本当に母さんが治ると思うのか!?」
「思わん」
「じゃあなんでッ!!
それなのに、なんでこんな…こんな…」
言葉を続けなかった。
それはエドを責める言葉だったから。
なにも悪くないエドを、ただ俺の気晴らしのために責めしまうような言葉だったから。
今、一番悔しいのは誰だ?
一番、母の側に居たいのは誰だ?
それはエドだ。
彼はこの病気に妻を殺され、
そして今は娘さえも殺されようとしている。
俺が今感じている無力感やイラつきなんか彼に比べりゃちっぽけなもので、これまで想像もできないほどの悲しみを受けてきたはずだ。
それを少しでも味わってる俺だからこそ、
エドを責めることなんか出来るはずもなかった。
「悔しいか?」
エドは俺に聞く。
「悔しいよ。凄く悔しい」
「腹立たしいか?」
「腹立たしい、誰かのせいとかじゃなく、
何より自分に腹が立つ」
「ワシもじゃ」
エドは座った。
俺の隣に椅子を持ってきて座った。
「妻が死んだ時。
ワシは悔しくて悔しくて仕方がなかった。
今のユキのように、自身の不甲斐なさに腑が煮え繰り返っていた」
「どうやって乗り越えたの?」
「乗り越えとらん。
引きずりながらも無理矢理先に進んどるだけだ」
「強いな、爺ちゃんは」
「強くなんかない。
守るべきものが他にあったから、進むしかなかった。
妻の時はレアを。
レアの時はユキを」
エドは俺の頭を撫でた。
「じゃあ爺ちゃんみたいに、
守るべきものがない俺はどうすればいい?」
「自分があるじゃろ。
今はそれを大切にしてやればいい」
「…」
「ユキは母を愛しているか?」
「愛してるよ、いつだって愛してる」
「そうか。
…しかし、その愛以上にレアはお前を愛していた。
そんなユキがレアに返せるものがあるとしたら。
ただ健康にすくすくと生きること。
母が愛したお前を大切にできるのはそれは他でもなく、お前にしかできないことじゃ」
…。
「本当に母を愛するなら。
その想いと同じくらい、自分だって愛してやれ」
「…爺ちゃん」
「なんじゃ?」
「負けたよ。
爺ちゃんとの口喧嘩はいつも勝てないな」
「ふっ…当たり前じゃ、口先だけでワシはこれまで生きてきたんじゃ」
「爺ちゃん」
「なんじゃまた?」
「母さんの為にも、俺もっとナルシストになるよ」
「…ん?
あー、ああ、そうか、そうきたか。
まぁ、それでもいいか。
うん、頑張るんじゃぞ」