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険非違士・出立の段

作者: 涼海 風羽

 朝霞が山肌にけぶっている。カガリは鼻梁を天へと向けた。霧潤むじゅんノ森に湧き立つ浅葱色の霧が、東雲の灯りに揺らぎを映した。霧が流れている、風が吹いているらしい。


 夜明けまでほど近い現刻、樹々の覆う森の奥まで届く光は微々たるものだ。カガリは肌を湿らす風の流れに、つん、と瘴気しょうきのにおいを嗅いだ。獣のくさった毛皮のにおい。これを感じて喜ぶ者は、そう多くはない。カガリはかぶりを左右に振った。


 艶やかな黒髪は肩口で舞い上がり、真麻色に変じた毛先を大きく躍らせ、額の先から左の頬まである白い傷跡が露わにされた。真正面に据えた視線は翡翠ひすいに近い色をしており、豊かな睫毛の落とす影でより黒々と呼吸の深さを語らせている。


 カガリは瘴気を嗅いだ風上に向けて歩を差し出した。背には大弓を提げている。みのがさを負い、左重ねの狩り装束を着た華奢な影。夜明けの灯りに従うように進む姿は、カガリの脚から伸びる影にありありと示されている。ゆるりゆるりと動くそれはさながら獣のような気配があった。


「貴方様に、供物くもつを捧げに、参りました」


 見上げた先に鎮座するのは、烏のくびを生やした鹿である。大岩に居ついた伏臥ふくがの態でこちらを気鬱そうに眺めていた。大岩の下に、巨大な猫がしかばねている。


「ヒドラノじょう様……」


 カガリが言うと、烏頸の鹿が頭を上げた。


重畳ちょうじょう険非違士(けびいし)。うぬの魂魄こんぱく、ここに出せい』


 烏の頸が喋ると瘴気のにおいがむっとあふれた。カガリは言う。


「私は御身に仕え、ほぞを切りてより二百と五つの望月もちづきを見た。もはやこれに勝れる御恩などありましょうか」


 森を震わす哄笑が鳴る。烏頸の鹿は大岩を、尾で砕き割った。あたりの樹々から鳥共が逃げた。しんと静まりきった森の奥で風とにおいが蠢いている。カガリは眼前に据わる巨大な異形にうやうやしく跪き、両掌をそっと合わせた。


「お返し申し上げます」


 光沢のないくちばしが、涎を散らして、急に迫った。


「御奉公を」


 大弓とえびらの矢を背から抜いた。空を切って引かれた弦の弾ける音は、刹那を二つも数えなかった。東雲に映える一閃の煌めき。霧ばかりが覆うこの場で、その輝きを捉えた者はただの一人も存在しえない。


 このカガリという者を除いて。


 大弓を捨て、蓑がさの裏に両手を這わす。幅広の二尺刀が二振り、光芒を迸らせる。一切の呼吸を排除した、獣の狩りの模倣である。


 カガリの狩りは、行われた。


 ごろりと烏頸の鹿が地にくずおれる。両刀にまとわりついた黒い脂を自身の衣で拭う。腰裏のさやに納めながら倒れた異形の方を見る。巨大な烏頸の鹿、そして……猫。カガリは猫の方に歩み寄り、瞼を閉じて固まった頬に顔をうずめた。


「ヒドラノ尉様……」


 すでに動かなくなったそれは、カガリが仕えていた存在だった。否、今もなお仕えているとカガリは心でそう思っている。いわんや、これからもそうであり続けたいと願っていた。


 ……願っていたのだ。


 猫の豊かな毛に身をゆだねながらカガリは感情のあふれるままに慟哭した。まだ側にいたかった、まだ教えをいたかった、まだこうを尽くしたかった、まだ名を呼ばれたかった、まだ、まだ、まだ。


 崩れ落ちるカガリをせせら笑う声が上がった。烏頸の鹿である。絶命寸前の余力を絞っているのが分かる面差おもざしだった。


『ヒドラノ尉の使役しえきするなる険非違士(けびいし)すえぬしを失くしたうぬと森とがけがれる前途に喝采を賜う』


 そう言って嘴から吐き出したのは、小さな勾玉まがたまだった。


「お前も毛堕物(けだもの)と化したのか。それほどまでに大和ダイワは荒れたか」

『化けねば滅ぶは常世のならいよ、清きは穢れに喰らわれるのみ、険非違士(けびいし)よ』

険非違士(けびいし)ではない。私はカガリだ」


 断として言う姿を、再び嘴が大きく笑った。


『哀れなり、人の子よ。我が同胞にほだされおって』

「……聞かせよ、お前は何という名を持っていた」

『……サラヅノすけ。語り継げ、うぬの主を滅した我が悪名を』


 それを最後に異形の動きは完全に止まった。カガリが勾玉を拾い上げると色も無く透き通っており、さかきの葉に似た印があった。知っている、これはヒドラノ尉の左眼である。


 カガリは勾玉を胸に抱きこむように握りしめ、そして烏頸の鹿――サラヅノ輔へ向き直って再び刃を抜く。その刃を、烏の眼窩に目がけて突き立てた。柄を両手に持って、そのままほじくる。


 ぽろりと、透明な勾玉がまろび出た。榊の印も同じである。


「……お前も、暗き穢れに怯えていたのか」

 

 眉根に哀しい力がこもってしまう。二つの勾玉を両手に取る。勾玉に映るカガリのかおのみで彫ったように直線的な形だが、顎は細く、目元に涼しさが与えられた造りであった。それが悲哀に翳る。


 風が森の中を吹き抜けてゆく。浅葱色の霞が揺らぎ、あたりのにおいをさらってゆく。いつしか陽が昇りかけ、夜明けの空は白みはじめている。冷えた森の木の葉はすでに色がくすみつつあった。


 主を失くしたこの森は、やがて瘴気に侵されるだろう。言外にサラデノ輔は語った。それほどまでに森の外は穢れ果てたと。カガリの仕えたヒドラノ尉は、外から来たサラデノ輔と大岩の座を争い、そして敗れた。


 森の主として彼の座に居座れるのは、ただ一柱だけなのだから。それが人でも獣でもない異形の彼ら……〈神〉と呼ばれる存在が持つ宿命である。


 しかしサラデノ輔は生き残るべく、道を違えた。瘴気を纏った神はもはや神と非違なる物と呼ばねばなるまい。神を殺した欲望の獣。すなわち毛堕物けだものである。


 ヒドラノ尉を殺したサラデノ輔さえ森の外に怯えていたのだ。地上には毛堕物けだものが蔓延っていることだろう。ヒドラノ尉が死んだ今、この森を守れる神はもういない。


 ただしヒトだけがここにいる。森の外に広がる大和ダイワの国がどうなっているのか。カガリはまだ何も知らない。


(なればこそ……)


 スズミは胸中で、熱い物を決した。






 土中に眠るかつての主に深く頭を下げた。今はもう帰れる場所はどこにもない。黄金に染まる天を仰いでカガリは大きく遠吠えをした。森のはりつく山々に残響しながら、カガリの声は消えてゆく。


 カガリは森を出ることにした。黒と真麻の髪を結い、左右の耳に透いた勾玉を飾りつけ、真一文字に引き締めた口元には確固たる情熱が力強く、それでいて澄んだ凪のように玲瓏な色もある。


 翡翠に近い瞳は、跳梁跋扈で荒れ狂う大和ダイワの大地を見据えている。


(戦乱の世、というわけか)


 面白い。カガリが口に笑みを浮かべた。腰に提げるは二振りの剣。生き抜く術なら身に持っている。主たる神と生まれ育った故郷の森を、毛堕物けだもの共から救うべく、カガリは未知に挑みだす。


 荒ぶる神と守り神。その狭間に生きるヒト、カガリは森を踏み出し、旅に出る。


 これはまだ、この世に神がいた日の物語。

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