過去のあやまち
1979年9月
私は当時20歳。父の経営する平和島のネジ工場は高度経済成長期が終わっても売り上げは落ちず、私たちの生活を潤してくれていた。私はその父が稼いだお金でニューヨークへと旅立った。父に無理を言い、当時としてはまだ珍しい海外留学をするためだった。
初めてする海外生活、初めてするホームステイでの他人との生活。ステイ先の娘、エミリーとは同い年で同じ大学に通っていた。私の英語の不自由さを気にする事無く、ランチを一緒に食べたり、学校帰りにニューヨークの街を案内してくれたりといつも私たちは一緒に居た。そんな私たちが深い関係になるのにそんなに時間はかからなかった。
1979年12月15日
エミリーは何か相談があると言って私を呼び出した。深刻な顔をして。
「健司の子供ができたみたい」
私は耳を疑った。まだ付き合いだして3ヶ月。ホームステイ先の娘と生徒という関係上セックスもそんなにしょっちゅうできる訳でもない。そんなにすぐに妊娠などする訳もないと思い、嘘だろと問いただすも、
「本当よ」
私はすぐさまその子を育てる事ができないと彼女に言い、部屋を出る。外に出て頭を冷やしたかった。すると彼女はすぐさま私を追いかけ、階段の中腹で話を聞いてと言い私の右腕を掴む。それを振り払った瞬間、
キャー!!!!!!!!!!!!!!!!
彼女は階段でバランスを崩し、私もそれに巻き込まれ私たちは階段から転落した。気がつくと彼女は私の横で倒れており、身動き一つとらなかった。
何事かと駆けつけた彼女の両親が救急車を呼び、私も付き添い、病院で彼女の両親に何が起きたのかと問いつめられたが、私はただ彼女が足を滑らせた抱けとしか説明出来ず、本当の理由を話さなかった、いや、話せなかった。
そして私は決心した。
日本に帰ろう。
1979年12月17日
私はニューヨークでの当面の生活費として持ってきたお金と紙切れを、まだ病院に居る主のいないエミリーの部屋に置いておいた。紙切れには、このお金を今回の入院費と子供を下ろす費用に充ててくれとだけ書いて。そして私は日本へ帰った。
その後、私はアルバイトをして貯めたお金と奨学金で日本の大学に入り直し、アメリカの留学費用を無駄にした負い目もあり、1985年4月に日本ではなくトロントの企業に就職。そこでしばらく生活していた。
2009年3月
49歳になった私はトロントの商社で働いていた。ずっと独身のままだ。今までいい関係になった女性は何人かいた。彼女たちは今一歩踏み切れない私にいつも愛想を尽き私のもとを去っていった。その理由として、30年前のエミリーへの負い目が未だにあるからだ。
そんなある日、会社から私への辞令が下った。
2009年3月10日、橋本健司に2009年4月1日より東京支社勤務を命ずる。
日本に帰る事になったのだ。トロントに来てから数回しか日本に帰っていなかった。前回帰ったのは、3年前に母が亡くなって以来。それからロクに父とも連絡を取らず、今どうしているのか解らない。帰ったらまず実家を訪れ、父に会いにいこう。