舌なめずりを扇で隠す
姫は清らかな心の美しい女性だった。
明朗快活で誰からも好かれていた。
しかし、ある時魔の宝石がその手に渡ってしまう。
何も知らない彼女はそれをとても気に入り、常に身につけるようになったが、宝石から漏れ出る闇はやがてその心を蝕んでいった……
窓辺にいつの間にか置かれていた、黒いダイヤのネックレス。
誰のだろうと色々尋ねてみたけれど、結局分からずじまいなの。
綺麗に細かくカットされたその宝石は、見るたびにコロコロと表情が変わって。
キラキラと細かく輝いて白っぽく見える時もあれば、底の見えない深い黒にもなる……なんとも不思議な色味なのよ。
今まで見たことがないような珍しい宝石だったし、そりゃあもう興味深々だったわ。
でも、持ち主がきちんと見つかるまではあまり触らずにそっと保管しておこうと思っていた。
けれど、持ち主は一向に現れず。
それでもしばらく我慢していたのだけれど……
ある日、とうとう私は好奇心に負けてしまった。
気になって気になってどうにも仕方なくて。
だから、誰も見ていない時を見計らって……こっそりケースから取り出して自分の首にかけてみたの。
ダイヤモンドなのに真っ黒で、最初はなんだか不気味で怖かったわ。
でも、しばらくそのまま身につけていたら……なにか魔法にかけられたかのように、ふわふわと心地よくなって。
なんだか不思議と心が落ち着くような気がしたの。
すぐにそのネックレスを気に入った私。
持ち主はどうせいない……それならと、その日からそれは私の物となった。
今じゃ肌身離さず常に身につけているわ。
今晩は晩餐会。
私はいつもみんなの注目の的。
自分で言うのもなんだけど、顔は結構整っている方なのよ。
あとスタイルもそれなり……細くて華奢で、でも胸はそこそこあって。
だから、何もしなくても向こうからどんどん来るのよね。
今日も当然のように、私の周りに人だかりができていて。
今はこうやって頭で別の事を考えつつ、押し寄せてくる人達をなんとか捌いているところよ。
ちょっと慌ただしいけど、もう慣れっこ。
同じような作り笑顔で同じような言葉を吐き出す、ただの作業。
流れるようにこなしながら、でもその顔ぶれはしっかりチェック。
いい男は心からの笑顔でにこにこ対応して。
隙を見て体を寄せたり、さりげなく胸を押しつけたり。
いけそうなら『次』を約束、楽しい駆け引きの始まり。
それ以外は……まぁ、適当に。
可哀想だけど、時間は有限なのよ。
ふと、けたたましい女の声が耳に入ってきた。
まぁ、なんて品の無い……また騒いでるのね、あの女。
仏頂面で大口叩いていて。相変わらず見苦しいわ。
彼女の周りには何事かと野次馬が集まってきていた。
その一人に尋ねてみると、大臣が使用人の誰かを面白半分でからかったたんだそうで……それがなんともひどい言葉だった、と。
だからって。なにもそんなくだらない事で怒って、言い合いにまでなるなんて……私には分からない。
そのくらい宮廷ではよくある事、気にするほどでもないでしょうに。
罵倒だの、ひどい侮辱だの、あの女はギャーギャー言ってるけど。
ちょっとちょっかい出しただけじゃない、そんなの。
ただのお遊びよ。
それなのに、大臣本人に噛みついてまで下の者を庇って。
そりゃあ使用人は喜ぶでしょうけど……だからなんなの、って話。
彼らがどうであろうと私達には関係ないもの。
もし駄目になってもどうせ次を雇うのだから、今のその人にこだわる必要なんてないの。
いくらでも代わりはいるのよ。
彼らなんてここじゃ人間以下なの。ただの家畜なの。
それが私達貴族の常識、こんなの当たり前の話よ。
あの女はそれすら気に食わないらしいけど。
あんなの適当に放っておけばいいのに……わざわざそうやって下の者を庇って、上の者に楯突いて、事を荒立てる……
ほんと、みっともない女ね。協調性のかけらもない。
見ていられないわ。
揉めている二人を必死に宥めつつ、必死にフォローを入れる男……確か、あの女の婚約者だったかしら?
やりたい放題の彼女の代わりに、怒り心頭の大臣相手に必死に何度も頭を下げて……かわいそうに。
……ふぅん。こうして見ると結構いい男ね。
気が弱そうで少し頼りない雰囲気だけど、なかなかじゃない。
いまいちパッとしなくて、今まで全然眼中になかったけど……よく見たら長いまつ毛にスッキリした鼻筋、ちょっと艶っぽい垂れ目……
へぇ、なかなかじゃないの。悪くないわ。
私は王子に見初められ、宮廷にきた。
そのまま一生、王子一筋で生きていくつもりだった。
しかし行き交う人々を見ていると、彼に足りないものが色々と見えてしまって。
彼こそが完璧で理想的な人だと思い込んでいた、昔の私。
でも、すぐに現実を知ってしまった。
彼以外にもまだまだもっともっとたくさん……魅力的な人がこの世界にはいるって、気づいてしまった。
小さな寂れた農村からここ、宮廷に移ってきて。
世界は広いと知ってしまった。
だから今の彼じゃどうにも、どこか物足りない。
無い物ねだりなのは、分かっているわ。
十分理解している。
でも。でもね。
軽く着飾って猫なで声で近づけばみな一様に落ちるの。
コロっと、いとも簡単に。
人の物だろうがなんだろうが、この美貌で落ちない者はいない。
最初はそれこそ自分の良心に咎められたけど、一度やってしまえば大したことなかったわ。
それに、そもそもこれってそんなに悪い事なのかしら?
ただ『遊んでるだけ』なんだもの。
なにも犯罪行為なんかじゃないわ。殺人とか窃盗とは訳が違う。
だから、私に罪はない……そうでしょう?
強いて言うなら、あっさり浮気されるほどたいして魅力もない女達が悪いのよ。
あら?口が悪いって?
あの女の汚い言葉遣いがうつっちゃったかしら。
いやだわ、さっきからずっと近くにいるから……
……さてと。
それじゃあ早速、声をかけてみましょうか。
つまみ食い。ほんの少し齧るだけよ。
ちょっとくらい、いいでしょう?
◇ ◇ ◇
美味しそうな獲物を前に、鋭い眼光を扇子で覆い隠しながらペロリと舌なめずり。
その動きはまるで肉食獣のよう。
そして、しっかり狙いを定め……獲物の元へゆっくりと歩いていった。
しかし……この行動がのちに彼女自身の人生を大きく変えてしまうことを、彼女はまだ知らなかった。