覚悟はないまま
応接室でゆっくりと座っていたら、廊下で人が動く気配が伝わってくる。どうやら到着したようだ。自然と笑みが浮かぶ。
体調を崩してからしばらく苦しい状態であったが、五日ほどですっかり起き上がれるようになっていた。熱も出ていないので、非常に体が楽だ。それでも安静にと言われて、ゆったりとしたドレスで訪問客を待っていた。
「シェリル」
扉が開かれ、家令に案内されたクリフが姿を現す。シェリルは嬉しくて立ち上がった。そして勢いよくクリフに飛びついた。
「お兄さま!」
「シェリルは変わらないね」
遠慮なく抱き着いてきた妹を危なげなく抱き留める。シェリルは久しぶりの兄に思わずぎゅっと抱き着いた。クリフは自分と同じ色の髪を優しく撫でた。その撫で方が子供の時と変わらなくて、シェリルは思わずすり寄った。
「会いに来てくれて嬉しい」
「すぐに来ようと思っていたのだけど、色々とあってね。起きていて辛くはないか?」
クリフは妹の体をそっと離すと、長椅子へとエスコートする。二人は並んで腰を下ろした。クリフは隣に座る妹の顔を両手で包み込み上向かせた。心配そうな色を浮かべた目にシェリルは明るく振舞う。
「大丈夫よ。少し疲れが出て熱が上がってしまったけど、すごく調子はいいの」
療養でシェリルが十一歳の時に領地に移動してから、クリフと過ごすのは領地にやってきたときだけだ。兄妹として過ごす時間はさほどないのだが、それでも何かにつけて気にかけてくれていて、手紙などは本当にマメに書いてくれていた。
大切にしていた妹が突然婚約したからと離宮に連れていかれて、連絡が来たと思えば熱を出して寝込んでいる。さぞかし心配しただろう。
「そのようだ。顔色もいいし、少しふっくらとした気がする」
「ふっくらは余計よ! 健康的になったと言ってちょうだい」
むっとする言葉を使った兄を睨みつけた。クリフはくすくすと笑い、ようやく両手を離した。
「父上が婚約のこと、説明していなかったと聞いた。まさかそんなことになっているとは……驚いただろう? 私がちゃんと確認をすればよかったんだが……すまない」
クリフは申し訳なさそうな顔で謝ってくる。シェリルは思わず笑ってしまう。
「お父さまはどうしています?」
「色々な人から散々ダメ出しされて今は落ち込んでいるよ」
「そうなの?」
「ああ。特に伯母上にはこってりと絞られていた」
母親の姉である伯爵夫人を思い出す。母とは違った雰囲気の夫人で、療養していたシェリルによく気を配ってくれる優しい人だ。王都の流行の品や菓子など、定期的に送って来てくれてその華やかな品を見ては心が躍ったものだ。
「伯母さまにも会いたいわ」
「もっと元気になればお会いできるだろう。第二王子殿下に嫁ぐのだからと色々と準備をしてくれているそうだよ」
「お父さまは?」
「そういう方面には疎いからね。やはり女性の支度は男には難しいよ」
何とも言えない表情で肩を竦めた様子に、シェリルは目を見開いた。
「もしかしてお兄さまが準備しようとしたの?」
「まあね。お祖母さまは領地だし、父上はそういう気を遣う性格ではない。伯母上に相談しに行ったら、ダメ出しを食らった」
「ふふ。お兄さま、ありがとう」
「ダメダメだけどな」
大げさに息を吐いて、首を左右に振る。その芝居がかった仕草にシェリルも笑みを見せた。
「ところで」
クリフはしゃんと背筋を伸ばすと、妹をじっと見つめた。雰囲気が変わったことにシェリルも笑みを消す。
「体調を崩したのは今回が初めてか?」
「……熱を出して寝込んだ後からとても調子がいいの。ここに来たばかりの頃はオスニエル様に魔力をもらっていたのだけど、熱を出した後はそれもほとんどいらなくなっていて」
「そうか。ずっと気になっていたんだ。シェリルの健康と幸せが家族全員の望みだよ」
安心したように呟くと、クリフは黙り込んだ。何か言いたそうで迷っているような様子に、シェリルは落ち着かない気分になる。沈黙に緊張しながら、クリフの言葉を待った。
「こんなことを聞くのはどうかと思うけど……シェリルはこのまま婚約をしてもいいと思っているかい?」
「お兄さま?」
驚いて固まってしまった。そろりと部屋の中を見回せば、ジェニーと護衛がじっとこちらを窺っている。迂闊なことは言えないとクリフに視線を戻した。目が合えば、苦笑される。
「大丈夫だ。これぐらいで不敬罪にはならない。兄としてシェリルの気持ちを確認しているだけだ」
「でも」
「言いにくいということは、やはり婚約はしたくないということでいいかな?」
強引に結論付けるクリフに驚いてしまった。兄は穏やかな性格だ。王族に対して不敬だとわかっていそうなことをあえて口にすることはない。でも、今こうして聞いてくれる。
伯爵が望むように健康な体を手に入れるための婚約はとても喜ばしいことだ。だけどこうしてシェリルの気持ちを慮ってくれる兄にほんわりと心が温かくなる。オスニエルにもウォーレンにも告げていることをクリフにも告げた。
「わたしに王子妃が務まるとは思えないの。教養も経験も何もかも足りないのよ」
「それが気になること? 立場とか関係なく、オスニエル殿下自身についてはどう思っている?」
「オスニエル様は……わかりにくいと思うけどとても優しいわ」
熱を出したときも時間が許す限り、側にいてくれたと後から知った。夢うつつであったが、側にいてもらえたことで安心できたことをぼんやりとだが覚えている。
「そうか。オスニエル殿下はシェリルにとても好意的なんだ」
「すごく大切にしてくれていると思う」
不意に思い出したのはオスニエルの前の婚約者のことだ。大切にしていた女性を亡くしたのだから、心を残していても不思議はないのに。シェリルは大切にされればされるほど、どうしても気になってしまう自分が嫌だった。
オスニエルは優しくて大切にしてくれる。だけど、女性として愛してもらえるかはわからない。
「シェリル?」
黙り込んだ妹の様子にクリフはそっと肩を揺らした。自分の考えにどっぷりつかっていたシェリルははっと意識を兄の方へと向ける。クリフは心配そうな顔をしていた。
「何か不安なことでもあるのか?」
「わたし」
どう説明していいのかわからないが、このモヤモヤした気持ちを聞いてもらいたくて言葉を探した。
「どうやら間に合ったようだ」
「オスニエル様」
こんなに早い時間に帰ってくるとは思っていなかったため、驚いてしまった。クリフはすっと立ち上がると、礼をする。
「お邪魔しております」
「久しぶりに兄君に会えたのだ。会話も弾んだことだろう」
何とも言えない顔をすれば、オスニエルは座ったままのシェリルへ身をかがめ、額と頬に唇を落とす。表情は硬いままだが、向けられる眼差しがいつも以上に甘い気がする。
居たたまれなくてちらりと立っているクリフを見れば、こちらも何とも言えない表情をしている。妹が女性として扱われている姿に戸惑っているようだ。クリフはしばらく黙っていたが、すぐに息を吐いた。
「どうやら心配はいらないようですね」
「ああ。安心してもらっていい。シェリルを幸せにしたいと思っている」
「オスニエル様?」
いくら兄がいるからと言って、気安く言っていい言葉ではない気がする。咎めるような目を向ければ、なんてことはないように優しく頬を撫でられた。
「そうですか。シェリルも今の方が元気で幸せそうだ」
逃げ道が塞がれた気がした。