まとまらない記憶
あれはいつのことだっただろう?
体にある自分の体に少しも馴染まない熱を持て余しながら、シェリルはまとまらない記憶を無理やり手繰り寄せる。
背中を丸め、足を抱えた。少しでも体を小さくすることで、体の中で存在感を示す熱を抑え込む。早く自分の中に溶ければいいと願いながら、子供の頃にもこの熱を経験したことを思い出していた。
シェリルは発病する前までは伯爵家の令嬢らしからぬほど活発な女の子だった。母親は早くに亡くなったが、気の弱い優柔不断な父と優しい兄にたっぷり愛されて、シェリルはとても伸び伸びと育てられていた。
そんな風邪一つ引いたことのないシェリルが高熱を出して寝込んだのは、九歳の時。初めて招待された子供が参加できる茶会から帰宅した日の夜だった。
茶会から帰ってきた日の夜はとても優しい人に魔法を見せてもらったと興奮状態で遅くまで起きていたので、屋敷の誰もが風邪をひいたのだろうと簡単に考えていた。
ところが、数日たっても一向に熱が下がらない。顔を真っ赤にして苦し気に息をする娘をなんとかしたいと、伯爵は腕の良いと言われた医師たちを次々に呼んだ。子供特有の高熱だと大抵の医者は告げた。処方された解熱剤はあまり効かず、安静にと言われるばかり。
そんな彼女の病名がついたのは発病してから一カ月ほどしてからだった。伯爵の知り合いの伝手から王族をも診察する医師に見せることができたのだ。その医師は今までの経過観察記録と、ぐったりとしたシェリルの診察により心当たりのある病名を告げた。
魔力による異常症状。
体の中にある魔力が自分自身を傷つけて、ある程度の所で治癒をする。それが熱が出たり引いたりという状態になっているらしい。
告げられた伯爵は唖然とした。
この世に生きる人たちには魔力がある。持っていない人間はいないが、健康を害するほどの魔力を持つ者もいない。昔は魔力を使って生きていくことが自然であったが、技術と道具が発達し、魔力を大量に使用しなくなるにつれて人々の魔力を持つ量が徐々に減っていった。現在では、生活するのに便利な程度の魔力を持つ者がほとんどだ。貴族においてはまだ血筋によって維持されているところもあるが、最近では貴族でも平民と変わりない人も多くなっている。
「そんな馬鹿な。シェリルはごく一般の量しか持っていないはずだ」
「だからこそ発症してしまったのでしょう。きっかけはわかりませんが、体内のバランスが崩れてしまったのは確かです」
熱が少し治まった時に医師がシェリルに優しい言葉で症状を説明したが、まったく理解できなかった。シェリルが理解できたのは、この状態が死ぬまで続くということだけだ。
医師に治療法はあることはあるが、魔力が弱くなっている現実では完治するのは奇跡に近いと言われ、シェリルは現実の苦しさに癇癪を起し、泣きわめいた。
――だから忘れていた。熱を出した日にあったことを。
苦しさにぼんやりしながら何故か昔のことを思い出す。普段は表面に出てこない記憶が鮮明に浮き上がっていた。こんな古い記憶を思い出すことを不思議に思いながらも、あの時と苦しさが似ていると思う。
「気分はいかがですか?」
シェリルを気遣うような声が聞こえた。飛びそうになる意識を必死に掴み、シェリルは視線だけをそちらに向けた。そこにはここに来た時から世話になっている侍医がいた。
「先生……とても苦しい」
「どんな様子か話せますか?」
「体に熱のある異物が動き回っている感じよ。気持ちが悪い」
「そうですか。薬を飲めますか?」
額に触れたり、脈を計ったりしながら侍医が聞いてきた。シェリルは小さく頷く。
「薬でどうにかなるの?」
「今よりはもっと楽になります。体にある熱も次第に馴染んでいくでしょう」
「馴染む?」
引っ掛かりを覚えて、呟けば侍医がため息をついた。
「体がようやく整い始めたところにウォーレン殿下より王族の祝福を与えられたのです。負担が大きかったのでしょう」
ウォーレンの授けたという王族の祝福がどんなものであるのかわからなかったが、彼が触れたことによって気分が悪くなったようだ。苦しさを逃すように大きく息を吐いた。
「祝福……」
「本来は悪いものではないのですが、シェリル様の体調には少しばかり厳しかったようです」
今後一切、ウォーレンの近くには寄らないと決めた。あの美貌の王太子はシェリルにとって疫病神と同じだ。
「数日経てば落ち着くはずですから、心配せずに療養してください」
「……ありがとうございます」
侍医は軽く頷くと、側にいた侍女のジェニーを呼ぶ。侍医は薬の与え方を指示しているようだ。
ぼうっとする頭で二人の会話を聞いていたが、そのうち眠気が襲ってきた。逆らうことなく目を閉じる。こうして目を閉じてじっとしていると、体の中の熱が存在感を示してくる。早く消えて欲しいと願いながら、意識は闇に沈んだ。
時間の感覚がわからないまま、半分眠って、半分覚醒して、を繰り返した。何度か誰かが体を拭き、寝間着を取り替えてくれた気がする。それも覚えていられなくて、体が望むまま眠った。
誰かが頭を撫でた。目を開けたいけど、今は眠っていたい。ゆっくりと撫でる手が温かくてとても気持ちいい。離れそうになる手が寂しくて、すり寄る。
「大丈夫だ。心配はいらない。エルザとは症状が違う」
そんな優しい声を聞いていると、体が暖かな何かに包まれるようになり、次第に心地よくなっていく。意識が軽く浮き上がり、側にいる人を探すようにうっすらと目を開けた。
あたりは小さな灯りが灯されていたが、側にいる人も陰になってしまい顔がよくわからない。
「オスニエ……」
無理やり声を出したら驚くほど喉がしゃがれていた。優しい手が再び頭を撫で、目を覆った。
「何も考えなくていい。ゆっくり休むんだ」
伝わってくる温もりに促されるように、再び暗闇に落ちていった。
何度も何度も夢とうつつを行ったり来たりしながら、シェリルは過ごした。飲まされている薬のせいもあるかもしれないが、非常に意識が曖昧で、誰かと会話をしていたような気もするけど、ぼんやりとしていてはっきりしない。
そんな曖昧な意識のまま、誰かに抱き起された。重い体が浮き上がり、支えられると口元に何かが当てられる。何かが口の中に差し込まれた。とろりとした何かが入り込み、舌の上に苦みが広がった。
反射的に口を閉じ、うっすらと目を開けた。目の前にはオスニエルの心配そうな顔がある。どうやら抱きかかえてくれているのはオスニエルのようだ。
口を開けた時にまた匙を入れられたら嫌だから、顔を少しだけ背けた。
「これ、美味しくない」
顔を逸らしたままぽつりと呟く。オスニエルが口元を緩めた。
「この薬は味が最悪だが、飲めば体調がよくなる。我慢しろ」
強い言葉に顔をしかめた。普段なら甘やかしてくれるオスニエルも薬だけは譲れないらしく、もう一度口の中に匙を入れた。薬を飲まなくてはいけないことはわかっているので、仕方がなく薬を飲みこむ。少しずつのため咽るようなことはないが、ある程度飲んだところで軽く顔を振った。
「もういらない」
「残りを流し込むから全部飲み込め」
無茶なことを言われているような気がする。拒否しようとすれば、がっちりと頭の後ろを抑え込まれた。顔が動かせない状態で、沢山の薬が一度に流し込まれた。
苦みと酸味と青臭さが合わさったそれに涙が滲む。吐き出そうとする前に、口直しの甘い水が流し込まれた。
その甘さが口の中を洗い流し、夢中になって飲み込んだ。空っぽになってしまったのか、口元に添えられていたものがようやく外された。
「オスニエル様?」
「そうだ」
彼の姿をよく見ようと頑張って重い瞼を押し上げた。
「ごめんなさい」
「謝る必要はない。すべて兄上が悪い」
「でも、ちゃんと対応できなかった。熱も出してしまったし」
何がちゃんとできなかったか、説明したかったが舌がもつれて言葉がそれ以上出てこない。オスニエルはシェリルを抱きしめたまま、頬にキスをした。
「話は元気になってからだ。今は元気になることだけを考えてほしい」
そう言われてしまえば、もう意識を保つこともできず。オスニエルはシェリルを寝台に戻すと、体が冷えないように上掛けで包んだ。