王族の祝福
手を握りしめられたまま、シェリルは忙しく頭を回転させた。
主にマナーの方面だ。畏まらなくていいと言われても、どこまでが許容範囲なのかが全く見当がつかない。いっそのこと、堅苦しいマナーを要求された方がまだやりようがある。
チラリと握られている手に視線を落とした。シェリルの手を女性のものとは違う大きな両手で緩く抑えている。そのまま引っ張れば自由になりそうだ。
とりあえず手を自由にしようと、さりげなく力を入れた。ところがその動きをとどめるように少しだけ強めに握られる。
「逃げたらダメだよ。ちゃんとこちらを見て」
バレている。
シェリルは背筋に汗が流れるのを感じた。同時に自分の手のひらにじとりと汗がにじむ。汗っぽい手を握りしめられているのは気が引ける。気が付かれる前に手を放してもらいたい。
シェリルの心の叫びに気が付くことなく、しげしげとウォーレンはシェリルを至近距離で観察した。
「ずいぶんと大切にしているとは聞いていたけど……こういう感じが好みなんだ。確かに好きそうかな。ふわっとしていて、華奢で守ってあげたくなるね」
褒められているようだ。好意的な評価をもらっているので、笑顔を浮かべようとした。だが固まってしまった表情筋はすでにシェリルの意思に従ってはくれない。
シェリルの緊張に気がついたのか、ウォーレンは意地の悪い笑みを浮かべた。握られた両手をぐっと引っ張られ、体のバランスが崩れた。そのままウォーレンの胸に飛び込む。慣れた様子で寄り掛かってきたシェリルの肩に腕を回した。
彼の使っている香水を感じるほどの距離にシェリルは焦った。
「王太子殿下! 申し訳ありません。離してもらえませんか」
ウォーレンから仕掛けられたとはいえ、婚約者のいるシェリルがオスニエル以外の男性に抱きしめられているのはいいことではない。慌てて抗議の声をあげた。
「反応が可愛い。今時これぐらいで青くなる女の子っているんだね」
耳元で揶揄うように囁かれて、息を飲んだ。わかっていてわざとこうしている。周囲からはどういう風に見えるのかと泣きたくなった。
「お願いです。もう離してくださいませんか?」
「どうして? 大抵の女はこうされると喜ぶよ?」
喜ぶ?
意味がわからなくて瞬いた。ウォーレンの噂話をうっかり思い出してしまう。
ウォーレンは四年前に結婚していて正妃もいるのにもかかわらず、女性との関係を繰り返しているという噂だ。正妃との間にまだ子供ができていないため、恋人となった令嬢も側室になれるのかと舞い上がるらしいが、期間限定のひと時の恋人だという。最初の頃は側室狙いの令嬢が沢山いたらしいが、最近では遊びと割り切った令嬢だけが侍っているらしい。
田舎でも面白おかしく噂されていたため信じていなかったが、こうして迫られていると真実のような気がしてきた。できれば遊びと割り切った令嬢だけを相手にしているというところが真実であってほしい。
「わたしは、その、オスニエル様の婚約者ですし、このような誤解される距離感は好ましくないので……」
必死に王族に対して不敬にならない言葉を探して訴える。必死に訴えてみるが、ウォーレンはにこにこしているだけで聞き入れてくれるような様子がまったくない。
ああもう、なんでこんな状態になっているの。
「本当に可愛いね。ほんの少し触れているだけだから、そんなに気にしなくてもいいよ。そうだ……どこまで触ったらオスニエルが怒るか、試してみる?」
どこまで本気なのか、非常に軽い口調で告げてくる。艶のある声や仕草から変な色気が漂っていて冗談でないような気がして仕方がない。洗練された淑女であれば、これぐらいの戯言など美しく流せるのだろうが、残念ながらシェリルはそんな能力を持ってはいなかった。
ちらりと視線を周囲に走らせた。視線の先にいる護衛と侍女も戸惑いの表情だ。ジェニーに助けてという気持ちを込めて視線を送ってみたが、頑張ってくださいと応援の眼差しが返ってきた。護衛にも同じように目で訴えたが、首を左右に振られる。必然的に、自分自身でこの苦境を乗り越えなければならないわけで。
社交的な対応をしようと必死になって知識を探る。でも出てくる知識はほとんどなかった。
「オスニエルに婚約者ができるなんて思っていなかったけど……これは確かに可愛いね。少し食べてみたいな」
食べる?
それって、男女のあれこれのこと?
恐ろしい想像に、体が固まる。とにかく否定しておかないといけないという焦燥感から頑張って口を開いた。
「わたし、肉づきが悪いですから、その色々と満足していただけないと……」
「残念。男女のことは少しは知っているんだ」
「……最低限は教育されていると思います」
自分の無知を遊ばれただけだと気が付いて、がっくりと肩を落とした。くすくすとウォーレンが笑った。耳に流し込まれた笑い声に背筋がぞくりとした。
「私は君にとっていい義兄でいようと思っているよ。なので、君の悩みの相談に乗ろう」
「え? わたしの悩みですか?」
突然話が飛んで、思わず首をかしげる。
「婚約を白紙に戻したいと希望していると聞いているよ」
「それは」
どきりとして息を呑んだ。確かに婚約をなくしてほしいのは本当の気持ちだ。だが、常識的に考えれば王族との婚約はほぼ王命であり、当主である伯爵が受け入れているにもかかわらず突っぱねれば不敬に当たる。
「できればオスニエルとの結婚を前向きにとらえて欲しいんだ。君は何がそんなに気に入らない?」
「気に入らないというよりも、わたしがあまりにも貴族として教養が足りないのです」
「教養?」
「九歳の時に発病してから、わたしは生きることに精一杯で何も勉強しておりません。ですからオスニエル殿下の隣に立つことができません」
自分の情けないところを自己申告して、ひどく落ち込んだ。もしかしたら豊かな平民よりも知識が乏しいかもしれない。
「なるほどね。結婚すれば王族になってしまうわけだから、気になるのは理解できるよ」
「本当に情けない話なのですが」
「でも、オスニエルはとても君を気に入っている。少なくとも私と直接会ってほしくなさそうだった。こうして出し抜けたのも奇跡に近い」
「出し抜けた?」
「つまりだね。オスニエルに無理難題を押し付けて、こっそりここにやってきたんだ」
「……こっそり」
内容がかみ砕けなくて、引っかかった言葉を思わず繰り返した。ウォーレンはニヤリと笑った。華やかさの中に毒が仕込まれたような質の悪い笑みだ。
「そう、こっそり。是非、君とは二人だけで話してみたかったんだ」
「……わたしのことを確認したかったという事でしょうか?」
「正直に言うとそういうことだ」
揶揄っていたのもあるだろうが、試されていたということに今更ながら気が付いた。シェリルの苦し気な表情を読み取ったウォーレンはにこりとほほ笑む。
「私は君を可愛い義妹として受け入れるよ」
「それは……ありがとうございます」
「だから祝福をあげよう」
シェリルはよくわからずウォーレンを見つめた。自慢げに祝福をあげようと言われても、まったく意味が分からない。反応に困っていれば、ウォーレンが目を丸くした。
「おや、王族の祝福を知らない?」
「申し訳ございません」
どうやら常識のようで、シェリルは焦って頭を下げた。ウォーレンはシェリルの両手を握りしめて、頭をあげさせる。
「警戒する必要はないよ。祝福というのはね――」
「兄上。そこまでだ。祝福はいらない」
いらだった様子の声にそちらを顔を向ければ、オスニエルが大股でこちらにやってくるところだった。いつもよりも息が荒いのは急いできてくれたのだろうか。シェリルは助かったと心の中でほっと息をつく。
「オスニエル。仕事はどうした?」
「終わった」
「……ちょっと早すぎないか?」
「兄上が余計なことをしそうだから頑張った」
オスニエルの手がシェリルに伸ばされる。だがその手が届く前に、ウォーレンの指が額に当てられた。ただ触れられただけなのに、体が突然熱くなり、目の前がちかちかしてくる。声を上げることもできない。
「二人が幸せになれるように。これが私からの祝福だよ」
「祝福を受ける時期はこちらからお願いすると言っておいたはずだ。シェリルはまだ受け入れるだけの状態ではない!」
「心配性だな。大丈夫だよ……うわ! シェリル嬢!」
遠くで二人の会話が聞こえてきたが、それも次第に遠のいていく。
シェリルの意識は強い力に引きずられるようにして真っ暗な闇に落ちていった。