王太子との遭遇
オスニエルの仕事をしているところを見た、いつもと違う朝を過ごした後、シェリルは朝の日課である庭の散策をしていた。離宮をぐるりと囲む庭はとても手入れが行き届いており、様々な種類の花々が植えられている。
滅多に離宮の入口の方まで散策はしないのだが、今日は気持ちが落ち着かずうろうろと歩き続ける。どんなに気持ちがざわついても綺麗に咲く花たちを見るだけで落ち着いて来るのだが、今日はどうしても気分が上がらない。油断するとすぐに今朝のやり取りへと気持ちが向いてしまう。
「はあ」
「ため息は幸せが逃げますよ」
ジェニーに指摘されて、ちらりとそちらを見る。
「もう朝は早く行かない」
「殿下は嬉しそうでしたけど」
「仕事をしていると知っていたらいかなかったわ」
やっぱり邪魔したような気がして、ため息が出る。オスニエルは王子であり、騎士団の仕事があるのだから優先するべきはシェリルではない。
「仕事している姿、ちょっとカッコよかった」
「そうでしたか? いつも以上に不機嫌でしたけど」
「眉間にしわが寄っていたけど、腕まくりして、ペンを握るところが新鮮だったわ」
テーブルに向かってペンを走らせているところを思い出し、口元が緩んだ。剣を握る人なのに、形の良い長い指がとても目を引いた。
「それを殿下に伝えてあげてください。恐らく仕事の効率がぐんと上がります」
「いやよ。恥ずかしい」
ジェニーと取り留めなく話しながら歩き進むと、ざわついた空気が伝わってきた。思わず足を止める。耳をすませば、どうやら入口の方が騒がしいようだ。
後ろに付き従う侍女と護衛を振り返る。
「何かあったのかしら?」
「恐らく今日も先触れもなくやってきた客がいたのでしょう」
「今日も?」
訪問客がいることよりも、今日もという言葉の方に引っかかった。ジェニーは特に表情を変えることなく頷いた。
「ええ。お嬢さまがこちらにいらっしゃる前から時々突撃してくる令嬢がいました。婚約が発表されてからは令嬢だけでなく縁を持ちたい貴族たちもやってきます」
「わたしに会いに来てどうなるというの?」
よく意味が分からず首を傾げれば、ジェニーはひどく真面目な表情で教えてくれる。
「気に入ってもらえば、殿下に口を利いてもらえると思っているのでしょう。娘がお嬢さまのお話し相手に選ばれれば、そのつながりからもしかしたら殿下に気に入ってもらえて、愛妾になれるかもしれませんし」
「わたしと仲よくしたら、オスニエル様の愛妾になれると思うものなの?」
愛妾と聞いてびっくりしてしまう。信じられない気持ちでジェニーを見つめれば、彼女はこくりと頷いた。
「正妻と円満な関係が築けるのなら、という感じでしょうね。王族でそのような愛妾を持ったお方は今までいないのですけど、貴族では表沙汰にはなりませんがよくあることです」
理解できない事実に、眩暈がした。恐る恐るジェニーに聞いてみる。
「そんな令嬢が来たらわたしが断ったりしないといけないのかしら?」
「本来ならば愛人は正妻の管理範囲です。ただ殿下はすでに極度の令嬢嫌いですから、下心のある女性をお嬢さまに会わせるようなことはしないと思います」
「令嬢嫌い……何があったか聞いてもいい?」
具体的なことを聞いたことのないシェリルは思い切って尋ねた。ジェニーが知っている程度のことでも知っておきたい気持ちが強かった。前はあまり詮索するのはよくないと思っていたが、気になることは気になる。
「数年前のことですが、オスニエル殿下の正妃の座を射止めようと色々なご令嬢が大胆な罠を仕掛けておりました。一人が仕掛けた罠が明らかになると、競うようにその罠が激化したのです。そのことで嫌気が差したのだと思います」
「……命知らずね」
「そうですね。その後、争いを起こしたご令嬢方は皆、王城への立ち入り禁止が言い渡されています」
容赦のない処罰に思わず身震いした。年頃の令嬢にとって王城に立ち入れないということは、貴族として今後活動できないということだ。すなわち、結婚する相手も見つからなくなる。
緩い処罰に思えるだろうが、ある意味、貴族としての未来を潰されているのと変わらない。その上、娘の教育ができていない家という評価もついてしまう。
「オスニエル様はあまり表情が変わらないけど、とても優しいのよね」
「はい、そうですね」
「いつも体調を気遣ってくれて、わたしの細かいところまでよく見ていると思うの」
「……そうですね」
ジェニーが何とも言えない表情で同意した。シェリルはそれに気が付くことなく嘆息する。
「わたしは魔力でオスニエル様の婚約者に選ばれただけなのに、とても優しくしてもらうとドキドキしてどうしようもなくなってしまうの。政略結婚だから馴れ馴れしくするのは駄目なんじゃないかなと思ったりするのよ。オスニエル様は王子殿下だし、礼節を持った態度でいるのが正しいのかなとも思うのよ」
外を歩いているせいなのか、いつもは心の中で逡巡している気持ちを吐き出してしまう。ジェニーは生暖かい目を向けていた。
「お嬢さま、是非とも殿下には甘えてあげてください。そうでもしないと、変態……いえ愛情行為が止まりません」
「愛情って」
あからさまな言葉に顔に血が上った。恥ずかしくなって自分の手に視線を落とす。
「自らの手で果物を食べさせたり、気が付くとどこかに触れていたり。普段から女性が近づくことを良しとしないお方なのです。これは劇的な変化です」
「……あれが通常じゃないのね」
冷静に自分たちの様子を語られて、ますます恥ずかしくなってしまう。シェリルはオスニエルの態度についていくことに必死で、第三者からはどう見えているのか考えたことがなかった。初めからとても近い距離にいたのでおかしいとも思わなかったのだ。
「無表情系の男性が愛しい女性を見つけると気持ちが悪いほど甘くなるとは思っていませんでした」
「そうなのかしら? ほら、オスニエル様はわたしが動けない状態を知っているから……優しいだけだと思うのだけど」
「いえ、これはこの離宮に仕える使用人たちの一致した感想です。お嬢さまが婚約者になる前の殿下と言ったら、抜身の剣のような鋭さで。不機嫌な空気をまき散らしていましたから」
「そうそう、オスニエルはいつだって鉄面皮で仕事中なんてにこりともしないんだよ。是非ともそのメロメロなオスニエルを見てみたいよ」
どこか面白そうな響きを持つ割り込んだ声に、シェリルは顔を上げた。声の方へと向けば、背の高い男性がこちらを向いて立っていた。
癖のある金髪に、整った顔立ち、緑の瞳は切れ長で意志が強そうだ。飾りは少ないが一目で見てわかるほどの上質な上着を着ている。何よりも立っているだけで他を圧倒するような空気がある。
突然現れた彼を見てぽかんとした顔をしたが、すぐに血の気が引いた。慌てて頭を下げて膝を折る。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。王太子殿下」
「君がシェリル嬢?」
「はい。シェリル・イーグルトンでございます」
顔を上げずに名乗る。どうしてここに王太子であるウォーレンがいるのか、事前に知らせがあったのか、色々なことが一瞬にして頭の中をよぎっていった。そして先ほどのざわめきに思い至り、誰が訪問してきたのか確認をしなかったことを後悔した。
シェリルの混乱に気が付かないのか、ウォーレンは恐ろしいことを口にする。
「顔を上げて? そんなに畏まらなくていい。君は私の義妹になるんだから、気軽にウォーレンと名前で呼んでほしいな」
名前?!
呼べるわけがない。ムリムリムリ、と心の中で絶叫した。
だけどそんな心の声など聞こえるわけもなく。ウォーレンはシェリルに近づき、そっと彼女の手を両手で包み込んだ。そのまま手を引かれ、自然と姿勢が元に戻る。
目の前にオスニエルとは違った美しい顔があった。至近距離で顔を覗き込まれ、シェリルは恐慌状態に陥る。
「申し訳ありません。軽々しく殿下のお名前を呼ぶことはできません」
「ウォーレンだ。私が呼んでほしいんだ。ちっとも難しくはないだろう?」
か細い声で希望を叶えられないと謝罪するが、ウォーレンはその程度では引かなかった。にこやかな笑顔にシェリルは追い詰められた。