婚約者との距離
「おはようございます」
目を覚ましたシェリルがベルを鳴らすとすぐに侍女のジェニーがやってきた。
「おはよう」
「ご気分はいかがですか? オスニエル殿下から朝が早いから無理に時間を合わせることはないと言われております」
「心配いらないわ。今日はとても気分がいいの」
ジェニーの心配そうな問いかけに、上機嫌に答えた。初めの頃は朝起きるのはひどく大変だったが、ここでの生活も二週間たった今では早く起きられる日も多くなってきた。それでも今日ほどパッと目が覚めたのは初めてだ。
「では、支度をしましょうか」
「よろしくね」
ジェニーに促されて鏡の前に立てば、手早くドレスが着つけられた。コルセットも緩めになっているため、息がしやすい。
着付けられながら、鏡の前の自分をまじまじと見つめた。
ここに来る前と比べ物にならないほど顔色がいい。魔力を与えられただけでこれほどまで改善するなんて、驚くばかりだ。
ジェニーはシェリルを鏡の前に置いてあるスツールに座らせると、今度は髪を整え始める。
「いつも聞こうと思っていたのだけど。このドレス、ジェニーが揃えてくれているの?」
「いいえ。すべてオスニエル殿下がお決めになったものです」
「オスニエル殿下はふんわりした色が好きなのかしら?」
着ているドレスの裾を摘まむ。今日は淡いクリーム色のドレスだ。色が優しいので、甘い雰囲気になり過ぎない大人っぽい形をしている。
「ふんわりした色というよりも、シェリル様に似合う色合いを選んでいるだけかと。もしもっと色の濃いドレスが欲しいのなら、そうお願いしてもいいと思います」
「今はいらないけど……違うものをねだるなんて嫌な気分にさせないかしら?」
彼が優しいのはわかっているが、どうしても無表情で冷ややかな顔立ちをしているので言い出しにくい。そう思って聞いてみれば、ジェニーは声をあげて笑った。
「心配いりませんよ。使用人であるわたしたちから見たら、オスニエル殿下はシェリル様にぞっこんです」
「……うっ」
恥ずかしさのあまりに顔が赤くなる。それを誤魔化すためにスツールから立ち上がった。
「支度をありがとう。もう食堂に行くわ」
「わかりました」
熱くなった顔を隠すように部屋から廊下に出る。
食堂に通じる長い廊下は窓から朝の光が差し込んでいて、とても明るい。軽い気持ちで歩き、食堂の手前で立ち止まった。後ろに控えているジェニーを振り返る。
「お綺麗ですよ」
「……まだ何も言っていないわ」
「ふふ。そうですね」
ジェニーはどこか面白そうに目を細める。どうやらシェリルの緊張する気持ちなどお見通しのようだ。大きく息を吸うと、静かに食堂を覗き込んだ。
テーブルにはすでにオスニエルが座っており、テーブルの上には大量の書類が積んである。隣には騎士団の制服を着た男性が静かに立っていて、処理の終わった書類をまとめていた。
焦げ茶色の髪を丁寧に後ろになでつけ、目には細いフレームの眼鏡。線が細く、文官であると一目でわかる。
シェリルが会ったことのない男性だ。騎士団付きの文官なのかもしれない。
涼し気な様子の彼に対して、オスニエルは一言で言えば不機嫌そのもの。
唇を引き締め、眉間にしわを寄せている。近くによれば凍ってしまいそうなほどで、機嫌の悪さを隠していなかった。
「……えっと」
しかめっ面のオスニエルに声をかけづらく、そっと身を引く。どうしようかと問うようにジェニーを見れば、不思議そうに見つめられた。
「お声がけしてもいいと思いますよ」
「でも、今仕事中みたい」
「お嬢さま以上に優先されるべきものはございませんから問題ありません。それにお嬢さまのお声が聞こえればすぐに常春のような空気になります」
きっぱりと言い切られたが、あの重苦しい空気の中に入る勇気が出ない。シェリルはいつもよりも早くに食堂に来たことを非常に後悔した。仕事をしている姿を見たことがないのだから、いつもと同じ時間であれば遭遇することはなかったはずだ。
「……一度部屋に戻って」
「シェリル。そんなところにいないで入っておいで」
どうやら見つかっていたらしい。
シェリルは驚いて食堂の入り口を見れば、いつの間にかオスニエルが立っていた。先ほど覗き見た時と同じく、眉間にきついしわを寄せた非常に不機嫌そうな表情だ。何を言っても怒られてしまうような雰囲気だが、とりあえず何か言わなくてはいけない。
「……おはようございます?」
「ああ、おはよう。今日はいつもより早いんだな」
「ええ。気持ちよく起きられましたので早く来てしまいました」
もっと会話を膨らませられるような言葉を、と探すが口から出てくるのはどうでもいい気の利かない言葉ばかり。気持ちが焦るほど言葉にならない。
オスニエルはそんな彼女の焦りに気が付くことなく、ゆっくりと近づいた。手を伸ばし、いつものように彼女の頭を撫でる。その手つきがとても優しいことから、怒りは自分に向けられていないとほっとした。
「すぐに食事の準備をさせよう」
「お仕事のようですから、時間になるまで部屋に戻ります」
使用人たちに指示を出そうとするオスニエルを慌てて止めた。大量の書類が積んであるのを見てしまえば、仕事を中断させることはできない。
「仕事よりも君の方が大事なんだが」
「わたしと一緒に夕食を摂っているために終わらないのではないですか?」
仕事が終わらないなんてそれしか理由がない。オスニエルはシェリルが離宮に来るまでは寝るために離宮に戻ってきただけだと聞いていた。シェリルに魔力を与えることを優先したことで、仕事に影響が出ているのだ。
「そう受け止められてしまうのは不本意なんだが……夕方からこちらに戻っているのを知ってわざわざ書類を持ってくる奴がいるだけだ」
オスニエルは大きく息を吐きながら、ぼやいた。彼の表情はあまり変わらないが、つい零れた愚痴に思わず目を瞬いた。
「本当に?」
「君がここに来る前は書類が嫌で、巡回に出かけていた。書類はあまり得意じゃない」
「そうでございます。お嬢さまが気に病む必要はございません」
穏やかな声に驚いて顔を上げれば、大量の書類を抱えた文官が立っていた。オスニエルは嫌そうに表情をゆがめた。
「メイソン」
「はじめまして。フィンリー・メイソンと言います。お嬢さまが離宮に住まわれるようになってから、殿下が捕まりやすくなりました。お礼を申し上げます」
「シェリル・イーグルトンです。本当にお仕事の邪魔をしていませんか?」
「ええ、もちろんです。殿下、残りは騎士団で処理してもらいます。今日は書類仕事が片付くまで訓練はないと思ってください」
メイソンは言いたいことだけ言うと、軽く会釈して立ち去った。その後姿を二人で見送る。
「あいつは俺の副官なんだ」
「え? 文官の方ではないのですか?」
「線が細くて剣が振り回せないと思うだろう? 侮ると痛い目に合う」
「そうなのですね」
一般男性よりもとても華奢な体つきをしているが、とても強いらしい。強いイメージがないため想像ができないが、オスニエルが言い切るのだからそうなのだろうと頷いた。
「では、食事にしようか」
手を差し伸べられて、そっとその手に自分のを置く。シェリルは彼のエスコートで、いつもの自分の席へと腰を下ろした。
腰を下ろせばすぐさま食事が運ばれてくる。初日にはオスニエルと同じぐらいの食事が用意されていたが、今は小さなパンが二つとスープ、それに果物が添えられる程度になっていた。スープは野菜とソーセージの入った栄養を考えたもので、とても食べやすくて気に入っている。
「美味しそうだわ」
「もう少し食べる量を増やしてほしいところだが」
オスニエルの前には初日と変わらず大量の食事が並んでいた。朝から分厚いステーキが置かれていて、見ているだけでも胸がいっぱいになってしまう。
「朝からは無理です」
「そうか。それならば、勉強の休憩の時には何か摘まんでほしい」
「ジェニーがちゃんと用意しています」
オスニエルは本当かと問いかけるような目を向けてきたが、気が付かないふりをした。パンを小さくちぎり、ゆっくりと口の中に入れていく。
「イゾルデ夫人の授業はどうだ? わかりにくくはないか?」
食事の話が終わったことにほっとして、シェリルは食べる手を止めた。オスニエルは美しい所作でありながらも、すごい速さで次々と皿を空にしていた。
「とてもわかりやすく教えてくださいます」
イゾルデ夫人はシェリルにつけられた王子妃教育の先生の一人だ。王子妃になるのだからと、どんなに厳しい人がやってくるのだろうと内心びくびくしていた。だが、オスニエルに紹介されたイゾルデ夫人はとても優しい女性だった。
一緒に暮らしていた祖父母が知らぬ間にきちんと教えていてくれたのか、案外、基本的なことはできていた。田舎娘であることは変わりないのだが、一つ教えてもらえば自然と色々なことが理解できる。
「それならいい。わからないことをわかったふりをする必要はない。わかるまで教わることは悪いことではない。それだけは覚えておいてくれ」
諭すように言われて頷いた。
もっと厳しい人かと思っていた。感情を表すことのない冷ややかな王子はとても優しい。
こんな風に大切にされてしまうといつも気持ちがざわついてしまう。
シェリルは自分の揺れ動く感情を持て余しながら、当たり障りのない会話をしながら食事を続けた。