忍び寄るもの
「今日、視察があるのがわかっていたの」
リリカはそんな風に話し始めた。あれほどきれいに手入れされていた髪はぼさぼさで、顔は叩かれたのか、左の頬が大きく腫れていた。服もあちこちが汚れて、ところどこ破けている。腕には大小さまざまな傷ができていた。
背筋を伸ばし椅子に座っている姿は以前一緒に話をした時と変わらないが、その見た目が痛々しくてシェリルは言葉が出てこなかった。彼女の負った傷にジワリと涙が出る。
「ブレンダ様に会えると思って無茶をして抜け出したのだけど、やっぱり見つかってしまって」
「リリカ様」
「それなのにブレンダ様はいなくて貴女がいる。わたしの決死の努力も無駄になってしまったわ」
とげとげしい言葉を吐きながらも、その目には辛さが滲んでいた。
「ブレンダ様もリリカ様に会えなくて寂しがっていたわ」
「そう? 本当だったら嬉しい」
彼女は笑うが、顔が痛いのか引きつったものだった。リリカはつんとした様子を見せていたが、思い出したかのように胸元を探る。そして小さな紙でできた袋を取り出した。
「これだけしか持ち出せなかったけど……」
そう言って、シェリルに突き出した。シェリルは袋の口から覗く緑色の葉を見て、目を丸くした。
「え? わたしに?」
「貴女がいるということはオスニエル殿下もいらっしゃるのでしょう? 渡してほしいのよ」
「オスニエル様に直接渡したらいいのに」
「本当に嫌な女ね」
シェリルの言葉にリリカは舌打ちをした。シェリルとしては嫌がらせのつもりは全くなかったので、彼女の態度に狼狽える。
「だって、これ大切な物なんでしょう?」
「そうね」
「だったら」
「こんな惨めな姿を見せろと言うの?」
言われてはっとした。女性としては見られたくないという気持ちに思い至らなかった。リリカはふんと鼻を鳴らす。
「少しも考えていなかったようね。そういう無神経なところ、直した方がいいと思うわ」
「ごめんなさい」
指摘に項垂れれば、ため息をつかれた。そして、無理やり袋を押し付けられる。
「ドーソン伯爵領でこれを栽培していますと言ってもらえばわかると思うわ」
「それは本当か」
突然の声に、二人は驚いて顔を上げた。扉の所にはオスニエルが立っている。気配を何にも感じなかったので、固まった。オスニエルはそのまま部屋の中に入ってくる。シェリルに優しい目を向けてから、リリカに厳しい表情を見せた。
「オスニエル殿下」
リリカは大きく息を吸うと、シェリルに押し付けていた紙袋を彼に差し出した。オスニエルはそれを受け取り、中身を取り出した。いくつかの種類の薬草が出てきた。オスニエルは一つ一つ確認する。すべてを確認し終えると、オスニエルは大きく息を吐いた。シェリルには何の薬草か見ても分からなかった。
「いくつか知らない種類があるな」
「他国から持ってきた種を育てたと話していました」
「そうか。他には?」
リリカはそれ以上のことを知らないのか、首を左右に振った。だがすぐに顔を上げた。
「とても図々しいお願いだと思うのですけど」
「なんだ」
「母と兄もわたしと同じように地下に閉じ込められていて」
リリカはぽつりぽつりと状況を説明する。ドーソン伯爵が何をしているのか、他の家族は知らなかった。それを知ってしまったきっかけは、リリカが騒いだかららしい。そして、三人まとめて地下に閉じ込められた。その後から、普段なら考えられないようなならず者が堂々と出入りし始めたそうだ。
「これらを持ち出すために随分無茶をしたんだな」
「……わたしは」
リリカは体を震わせてぎゅっとスカートを握りしめた。苦しそうに息をするのを見て、シェリルは躊躇いながらもリリカの手を包み込んだ。振り払われるかと思ったが、リリカはその手を受け入れる。ぽたりとシェリルの手に雫が落ちてきた。
「リリカ様」
俯いた彼女は大粒の涙を落としていた。嗚咽をかみ殺し、体を大きく震わせている。
「ブレンダ様にもし会えたら、きちんと謝りたかった。わたしは知らなかった。だけど、知らないでは済まされません」
言っている意味が分からなくて、側に立つオスニエルを見上げた。オスニエルは渋面でリリカを見下ろしている。
「義姉上のお茶にも何か入っていたのか」
「実際に確認したわけではありませんけど、父が話しているのを聞いてしまって」
「……そうか」
ため息をつくと、オスニエルは手に持っていた薬草を紙袋に入れる。そしてそれを護衛の一人に渡した。
「ひどく怪我をしているようだ。しばらくこの教会で療養するといい」
「え?」
リリカは驚いて顔を上げた。彼女はこの薬草を差し出したら、自分も牢につながれるものだと思っていた。想像していなかった言葉をもらい動揺した。
「ここは教会だ。正しい行いをした者を追い出すわけがない」
「……ありがとうございます」
リリカは再び涙を溢れさせた。シェリルは彼女の嗚咽が止まるまで、優しく手を握りしめていた。
◆
教会からの帰りの馬車でシェリルは沈み込んでいた。暴力を受けた人を見たのは初めてだった。気が付けば彼女の顔が脳裏にちらついてしまう。
「シェリル」
手を握られて、ぼんやりと馬車の外を見ていたシェリルは意識を隣に座るオスニエルに向ける。彼はいつも以上に硬い表情でこちらを見ていた。だが目には心配そうな色が揺らめいている。自分の態度がどれほど心配させてしまっているのかに気がついて、少しだけ微笑んで見せた。
「大丈夫です。ちょっとショックが強かっただけで」
「……気にするなと言われても気になるだろうから、ドーソン伯爵令嬢について少しだけ説明しておく」
「教えてくれるのですか?」
「ああ。本当は知ってほしくなかったけどな」
ぎゅっと強く手を握られて、よほどのことなのだろうなと理解する。シェリルは黙ってオスニエルの話に耳を傾けた。
「彼女はドーソン伯爵が違法な薬草を育てていることを知ってしまったんだ。たまたまドーソン伯爵が話しているのを盗み聞きしてしまったのだろう」
「違法な薬草?」
違法な薬草と聞いても、毒草しか思いつかない。だが、毒を含む薬草は厳しく国で管理されていて、外から入ってくることも難しいし、国内で手に入れることも不可能だ。
「魔力草だ。聞いたことはないか?」
「いいえ。初めてです」
聞いたことのない薬草の名前にシェリルは眉を寄せた。病気がちで色々な薬草を取り寄せていたため、ある程度の薬草は知っている。だが彼女の周囲で魔力草という言葉は聞いたことがなかった。
「ひと昔前、魔力を多くすると言われていた薬草だ。この国の人間には悪影響を及ぼすから、管理された場所でしか栽培していない。だが、他国では普通にお茶として使われている」
――お茶として。
「効果は気分が良くなる程度のものだそうだ。ただ魔力を多く持つ人間には魔力を乱されて不調の原因となる」
シェリルは不安そうにオスニエルを見上げた。彼の眼と視線が合う。
「最近、市井ではお茶にハーブを入れて飲む方法が流行っていると」
「司教の相談も魔力の乱れによる不調についてだ。魔力草や毒草は見つかっていないが日に日に不調を訴える人たちが増えているらしい」
嫌な予感に落ち着かない。それでも聞きたいことはあった。
「……リリカ様はどうなるの?」
「ドーソン伯爵家には戻せないだろう。このまましばらくは体と心を治すために教会預かりになる」
その後は、とは聞けなかった。
だがリリカの選択肢はとても少ない。自分も罰せられると覚悟していたから、最悪な事態を考えていたはずだ。
やるせない思いで俯けば、そっと抱き寄せられた。彼の広い胸に頬をつければ、温かさと力強さを感じる。
「ドーソン伯爵令嬢は本当に義姉上を慕っていたんだな」
「ブレンダ様もリリカ様にお会いしたいと言っていました」
「そうか」
シェリルは変なことを言わないように目を閉じて、彼の体に甘えるように寄りかかった。