公務の仕事(手伝い)は案外難しい
「ここ、抜けているけどちゃんと見てきたの?」
はじめて公務に一人で行った日の翌日、ブレンダの私室に呼ばれた。
王都にある教会本部の視察は顔つなぎのためにブレンダと共に行き、その後はオスニエルと文官のニコルズを連れて孤児院の視察に向かった。あまりにも緊張しすぎて、視察内容が頭からすっぽりと抜け落ちた。焦ったせいなのか、何一つ思い出せずに涙が滲んだ。
そんな彼女のフォローをしたのがニコルズだ。彼は五十代ほどの丸い眼鏡をかけた朗らかで気の良い男性で、色々と細かなところまで丁寧に説明をしてくれる。報告書を作成する時も一つ一つ確認しながら書いたのだから、ブレンダから指摘されるとは思っていなかった。
書き込みが抜けているところなんてあったかしらと首を傾げながら、とんとんとブレンダの指が叩いている該当箇所を覗き込んだ。指の先は確かに空白だ。何も書かれていない部分を見つめる。
「……書いていませんね」
「そういうことを聞いているわけじゃないのよ。ただ単に抜けているだけなのか、理由があるのなら、どんな状態だったかを聞いているの」
短気なブレンダはシェリルの暢気な返事に目を吊り上げた。その剣幕に内心焦りながら、シェリルは誤魔化すようにゆるりと笑う。
「え、と? 多分見ていないような……」
「何ですって?」
声が小さすぎて聞こえなかったのか、ブレンダが尖った声を出した。ギラリと睨まれて、シェリルは慌てて言い直した。
「この場所は視察に行っていないと思います」
「思いますじゃないでしょうに。理由は?」
「理由……」
昨日、視察したルートを思い出しながら理由を考える。視察するルートは誘導される形で行っている。シェリルは外に出ることが少なく王都の街に明るくない事実と、こうした視察に必要な見るべきポイントがまだぼんやりした状態だからだ。指示された通りに行うことしかできていない。
困って黙っていれば、ブレンダがため息をついた。
「不合格。そこのあなた、ここの視察を行わなかった理由は?」
ブレンダは黙ってしまったシェリルから彼女の後ろに控えている護衛のデイヴィットに問いただした。彼は一歩前に出ると、軽く頭を下げた。
「不審者がいたために、視察を中断しました」
「そうだったの?」
シェリルが驚いて声を上げれば、デイヴィットがほんの少しだけ微妙な表情を浮かべた。
「ええ。オスニエル殿下が説明していたと思いますが」
「オスニエル様は今日はここまでで止めておこうしか言っていなかったでしょう?」
「――わかったわ。貴女はまだ言葉を覚えていないのね」
ブレンダが怒りを逃すためなのか、大きく息を吐いた。言葉を覚えていないと言われて、シェリルは瞬いた。
「言葉は……知っています」
「そういう意味じゃないのよ。外では変な会話はできないから、ある程度は意味を持たせているの」
「合言葉みたいな感じですか?」
「まあ近いわね」
シェリルはなるほどと頷く。ブレンダは探るような目で彼女を見つめた。怒っているというよりも、なんだかとても心配そうだ。
「ねえ、あまり教育されていないようだけど、それで大丈夫なの? オスニエル様が護衛として一緒にいるからとかそういう問題じゃないのよ」
言葉が詰まった。それなりに勉強はさせてもらっていると思うのだが、公務の手伝いをしていると知らないことや出来ないことの方が多い。シェリルは視線をテーブルの上に落とした。
「わたし、貴族らしい教育はされてこなかったので、きっと初歩的なところから行っているのだと思います」
「ふうん。でもそれって言い訳にならないわよね?」
ブレンダの言うことはもっともで、シェリルは唇を噛みしめた。こうして外の世界に出てみれば、自分がいかに守られていたのか何も知らない状態であったのかがわかってくる。
「まあ、いいわ。貴女に言っても仕方がないでしょうから、その件に関してはオスニエル殿下に言っておきます。それで不審者は捕らえられたの?」
デイヴィットはブレンダの問いに首を左右に振った。
「いいえ。調査中です」
「では、大きな視察だけになるかもしれないわね」
「どうしてですか?」
視察ができないと言われて、顔を上げた。ブレンダは苦々しい顔になる。
「わたしが妊娠したことが予定外だったのか、色々なところで不安定なのよ。まだ正式な発表もしていないのにね。先日もわたしの食事に毒が仕込まれていたし、どこに敵がいるかわかったものじゃないわね」
「まだ犯人は捕まらないのですか?」
「そうよ。信じられないでしょう? 途中報告を聞いたけれども、まだどこで毒が仕込まれたのか、わかっていないみたい。迂闊に外に出たら狙われてしまうかもしれないわね」
公務を引き受ける時にオスニエルが心配していたことをようやく理解した。ウォーレンとオスニエルの二人の会話も毒の混入については目の前で話していたのに、どこか遠い出来事として受け止めていた。
自分も狙われていると実感すると、恐ろしさがこみあげてくる。顔色を悪くしたシェリルを見て、ブレンダが意地悪く笑った。
「あら、その様子だと自分は関係ないと思っていたの?」
「正直に言えば」
「オスニエル殿下の婚約者である以上、貴女も狙われても不思議はないわ」
「でも、わたしの実家はそれほど力はありませんから……」
イーグルトン伯爵家は実直で無難な領地経営をしているだけの家だ。大きな権力があるわけでも、羽振りの良い商会を所有しているわけでもない。だから目障りではあっても、政治に関係ないと思っていた。
「そういう問題じゃないのよ。貴女は重要な貴族家の生まれではないけれども、魔力の多さで王子の婚約者になったのよ。他国からしたらとても脅威だわ」
「脅威? わたしがですか?」
難しいことを言われてますますわからなくなる。眉を寄せて唸れば、ブレンダが自嘲気味に笑った。
「貴方は感じたことはないかもしれないけれどね、他国から見るとこの国はとてもキラキラしているのよ」
「キラキラ」
「そう。古代魔法と言われるものが庶民でも使えていた時代があるの。その時代の名残をこの国は沢山持っているわ。この国以外では王族ですら魔力が少ないのが普通なの」
ブレンダの言葉はいつだって難しかった。シェリルは動けるようになって、自分で行動を決められるようになって何でもできるように思えていたのだが、現実はそんなことはない。貴族令嬢ならばこういう話も理解できないといけないのだろうが、シェリルにはちんぷんかんぷんだ。
すっかりしょげて黙り込んだシェリルに、ブレンダはため息をついた。
「あまり虐めるとオスニエル殿下に睨まれるから、視察の件はここまででいいわ」
「申し訳ありません」
「そう思うなら、きちんと次に繋げなさい。一度でできるとは流石に思っていないわ」
「ブレンダ様、ありがとうございます」
無意識に零れた言葉に、ブレンダの機嫌が悪くなる。
「何を言っているのよ」
「もっとネチネチと言われるかと思っていました。次は失敗しないように頑張ります」
「前にも言ったと思うけど、わたしは王女だったのよ。ぽっと出の貴女に同じことができてもらう方が困るわよ」
素直に頷けば、ブレンダが変な顔をした。何かもっと言いたそうだったが諦めたように息を吐くと、お茶の準備を侍女に指示をする。侍女が手早く用意すると、テーブルの上に置かれた。すっとした爽やかな香りだ。
「……何度飲んでも、このお茶の香りは好きになれないわね」
「先日頂いたお茶とは違う銘柄ですか?」
「そう。このお茶は妊娠中の女性の精神を安定させるのですって。わたしのどこに不安定さがあるのよ。嫌になるわ」
妊娠中だから、口に入るものには気を付けているようだ。文句を言いつつも、ちゃんと飲んでいる。シェリルはふと先日のことを思い出す。
「そう言えば、王都の街を案内してもらった時に面白い飲み方が流行っていると聞きました」
「飲み方?」
「ええ。お好みのお茶とハーブを自分でブレンドするそうですよ」
「ハーブはハーブティーがあるじゃない」
よく理解できなかったのか、ブレンダは首をかしげている。シェリルはどう説明しようかと悩みながら、聞いたことをそのまま伝えた。
「庶民では高いお茶を毎日飲めないから、香の良いお茶を少し買って、ハーブは手作りするそうです」
「ふうん。乾燥させた花びらを入れて、香りを楽しむような感じかしらね」
「ハーブも珍しいものがいくつも売られていました」
ブレンダも興味があるのか、質問して来たりこうしたらどうなのか、と色々と話が膨らむ。思わぬ楽しい時間を過ごしていた。