初めての街歩き
ブレンダとの面会をした翌日、オスニエルはシェリルを王都に連れ出した。
家紋も飾りもない目立たない馬車は王都の中心から少し離れた場所で止まる。オスニエルの手を借りて馬車を降りた。
初めての外出に、シェリルは嬉しくて仕方がなかった。舞い上がる気持ちを落ち着かせようとしても、笑顔は押えることができずソワソワしている。
「楽しそうで何よりだ」
「だって街に出るなんて初めてなんですもの!」
お忍びどころか、街歩きをすることが初めてだ。シェリルは弾む気持ちを隠すことなく満面の笑みを見せた。
裕福な家庭の娘のような簡素なドレスを着たのも初めてで、くるぶしの見える丈も新鮮だ。靴も低くて歩きやすい。緩めのハーフアップにした長い髪はリボンで纏めていた。
オスニエルもいつもの王子然とした騎士服ではない。上質だとわかる白のシャツと黒いズボン、腰には剣を佩きフード付きのマントを羽織っている。こうして着ている服を変えるだけでもかなり印象が変わる。
「変じゃないかしら?」
「心配になるぐらい可愛い」
さらりと褒められて、シェリルは頬を染めた。オスニエルが頬にかかったおくれ毛を優しく耳にかける。
「王都の街は整備されているから、覚えやすいと思う。でも、歩くときは絶対に手を離さないこと」
「わかりました」
大きく頷くと、オスニエルは息を吐いた。
「本当は外に出したくないんだが」
「そうなの?」
「シェリル様、孤児院の視察を始めれば、公務も徐々に増えていくでしょう。万が一の時に、王都を知らないのは危険だと仕方がなく許可されたのですよ」
そっぽを向いてしまった主の代わりに、護衛のデイヴィットがおかしそうに笑いをかみ殺して補足する。
「ありがとう」
「……行こうか」
しばらく歩くと、眼下に街並みが広がる場所へと出た。綺麗に並んだ家々の屋根が見え、青い空と木々の緑が縁取っている。
その美しさにため息が出た。
「ここから見る街並みを一度見せたかったんだ。夕方になると街並みが赤く染まってまた違った顔を見せる。守るべきものだと見るたびに思うよ」
シェリルはいつもよりも穏やかな声で話すオスニエルを見上げた。目を細め、愛おしいものを見る様に街並みを見ている。そんな姿に胸の鼓動が早くなった。自分の変化に戸惑いながら、同じように街並みへと視線を向ける。
「どうした?」
「オスニエル様は王族なんだと思って」
「なんだそれは」
シェリルのよくわからない説明にわずかに口元をほころばせた。王城で見せる表情とは違いとても柔らかい。
普段とは違う顔が見られたことが嬉しくて、シェリルも自然と笑みを浮かべた。こうして穏やかな彼を見ていると、決して表情が乏しいわけではないのだと気が付いた。きっと彼の立場が表情を見せないように律しているのだろう。
「ここから街中までは意外と近いんだ」
オスニエルはシェリルと手をしっかりと繋ぐ。シェリルもその手を握り返した。二人はゆっくりと街中へと向かった。
シェリルの行動範囲はとても狭く、離宮にある庭がほとんどだ。心地よく整えられた庭園は素晴らしいが、ひっそりとしており閉ざされた箱庭だ。嫌だと思ったことはないが、こうして外の空気を肌で感じれば自分がいかに小さな世界で生きていたかを思い知る。
整えられた石畳の道の両脇には出店が並び、客引きをする店員の声が賑やかに響いていた。そしてどこからか食欲をそそる美味しそうな香りが漂う。
「何の匂い? 美味しそう」
美味しそうな匂いの正体が知りたくて、鼻をひくひくさせながらあたりを窺った。だけど、匂いばかりで食べ物を売っている店は見つからない。きょろきょろするシェリルを面白そうに眺めながら、オスニエルが正解を教えてくれた。
「串焼きの匂いだな」
「串焼き、ですか?」
「長い串に適度な大きさに切った肉を刺して焼いたものだ。塩が振ってある」
匂いからするととても美味しいのだろうが、具体的に思い浮かべることができずに首を傾げた。
「食べてみるか?」
「いいの?」
「もちろん。街歩きの楽しさは食べることだ」
「ふふ。もしかしていつも街歩きしているんですか?」
揶揄うように聞けば、彼は素直に頷いた。
彼はシェリルの肩に腕を回すと歩き始めた。しばらく歩くと、香ばしい匂いが強くなってくる。人が多くいるため店の様子がわからないが、美味しそうな匂いだけでなく何かを焼く音が聞こえてきた。
もっと近くで見てみたいと思い、オスニエルを見上げる。
「見たい?」
「はい。あんなに人が集まっているから」
「そうか」
「ちょっと待ってください」
周囲を警戒しながら後ろを歩いていたデイヴィットがオスニエルを呼び止めた。オスニエルはやや不満そうな表情をしたが、デイヴィットは強く言葉を重ねた。
「ここでお待ちください。今日はシェリル様も一緒にいますから人ごみは絶対にダメです」
「……わかった」
力強く釘を刺したデイヴィットは慣れた様子で人ごみをかき分け、あっという間に見えなくなった。
「ここで食べるの?」
「そうだ。立ったまま食べる」
いつも上品に食事をするところしか見ていないシェリルは驚いたように目を瞬いた。そもそもオスニエルが外で食事をするところから想像ができなかった。前にオスニエルと湖に行った時でさえ用意された食事はとても上品なものだった。
不思議そうな目を向けられたオスニエルは朗らかに笑う。
「忘れているようだが、俺は騎士団に所属しているんだ。遠征や訓練での食事はそれはそれは貧しいものだぞ」
「そうなの?」
「基本は携帯食だ。干し肉をお湯でふやかしながら食べるんだ」
干し肉と聞いても、実物を見たことも食べたこともないシェリルには肉を干したものとしか理解できない。
「味は?」
「塩気が多いが、噛んでいると味わい深い。料理が上手い奴が一緒にいるとまた違うんだけどな」
そういうものなのか、と頷く。普段はしない話をしているうちに、デイヴィットが戻ってきた。デイヴィットの持っている串焼きを見て、その大きさにシェリルは唖然とした。
美味しそうに焼けた肉がいくつも串に刺さっている。先ほどから食欲を刺激する匂いは確かにこれだった。ただし、その肉のサイズが一口で食べられるものではなかった。
「これ、どうやって食べるの?」
「かぶりつけ」
オスニエルはデイヴィットが差し出す串焼きを一本受け取り、器用にかじりついた。その食べ方にも驚いてシェリルは固まった。
「どうぞ」
デイヴィットに一本渡されて、素直に受け取る。得体の知れないものを見るように観察していたが、意を決して大きく口を開け、肉にかぶりついた。
オスニエルがしていたように歯で押えて引き抜こうとする。落とさないように気を付けながら頑張るが、肉の塊は固くてなかなか外れない。
「やはりシェリル様には難しいのでは?」
「そうだな」
デイヴィットは格闘するシェリルを微笑ましげに見守りつつ、オスニエルに問いかけた。
「どうしますか? 別のものを買ってきましょうか?」
「そうだな、甘いパンがいい」
「わかりました。ちょっと待っていてください」
すぐにデイヴィットは屋台の方へと向かっていった。シェリルは二人の会話を聞き流しながら肉と格闘した。しばらくすると、デイヴィットが戻ってきた。
「シェリル様、そちらは食べるのが難しそうなので、こちらをどうぞ」
シェリルの持っている串焼きをオスニエルが引き受け、代わりに甘い香りのするパンが渡された。細長いスティック状のもので、周りに砂糖がまぶしてある。
紙に包まれたそれにかじりついた。さくりとした音にびっくりしながら、味わう。
「美味しい」
「そうか。口に合ってよかった」
「お肉も美味しかったわ。噛み切れなかったけど」
「次はもう少し食べやすい肉にしよう」
肉と言われて、シェリルは笑って首を左右に振った。
「お肉は上手に食べられないから止めておきます」
「そのうち慣れると思うが」
「シェリル様は食べ歩きに慣れなくてもいいと思いますよ」
どうしても食べ歩きをさせたいオスニエルをデイヴィットがやんわりと諫める。オスニエルはそれが気に入らないのか、眉間にしわを作った。空気が冷ややかになったのを感じ、シェリルはオスニエルの腕を引っ張った。
「オスニエル様、他の場所も見てみたいわ」
「そうだった」
今日、王都に来たのは大まかな位置関係を理解するためだ。本来の目的を思い出したオスニエルはシェリルを連れて歩き始めた。
メイン通りには店が立ち並び、その一本奥に入れば住宅街だ。王都は城を中心に円形に広がっていて、道も非常に分かりやすい。
「この辺りの治安はとてもいいが、外れに行くほどに治安は悪くなる。巡回する騎士もいるが、やはりすべてに目を向けるのは難しいんだ」
そう説明しながらメイン通りを抜け、少し高台の場所へと移動した。シェリルは興味深くあたりを見回した。
「あら?」
軽い軽食が楽しめる可愛らしく飾り付けた店に見知った顔を見つけて思わず立ち止まった。
「どうした?」
「あそこに座っているのはコーデリア様じゃないかしら?」
「どこだ?」
オスニエルはシェリルの見ている方へ視線を向けた。その先にはコーデリアと思われる女性が座っていた。テーブルの上に軽食が置いてある。
「お忍びでしょうね」
デイヴィットが一人でいる彼女を見てそう呟いた。
「一人で?」
「いいえ、離れたところに護衛がちゃんといますよ」
「そうなの?」
護衛がいると言われて注意深く見たが、よくわからない。
「一人でないのなら、危険はないだろう。ほら、行くぞ」
「挨拶は?」
「必要ない。彼女も一人になりたいからお忍びで出かけているんだろう」
「でも」
気になって躊躇っていると、デイヴィットが小さな声を上げた。つられてコーデリアを見れば、上品な出で立ちの男性と話している。
「あれは……」
顔が見えないが、感情をあらわに話せるほど親しい間柄のようだ。だがどことなく見覚えがある。じっと見つめていれば、ほんの少しだけ横顔が見えた。
ドーソン伯爵……?
確信はないがよく似ている気がする。言おうかどうしようか迷っていれば、デイヴィットとオスニエルの会話が聞こえてきた。
「お知り合いのようですね」
「邪魔をするのもいけない。さあ、いこう」
シェリルよりもドーソン伯爵のことを知っていそうな二人が時に気に留めないのならば、きっと見間違いなのだろう。
オスニエルに促されて、その場から離れた。