公務の打診
許可をもらった護衛騎士が扉を開いた。オスニエルは隣に立つシェリルを不安そうに見下ろした。
「無理をしなくてもいい」
「大丈夫です。お話を聞くだけですし」
「それだけで済まない気がする」
「頑張ります」
心配する理由もわかるが、シェリルは自分がオスニエルの婚約者で、近いうちに妃になるのだと自覚していた。
いつまでもオスニエルの庇護に頼っているわけにはいかない。もし、無理難題を言われたら、毅然とした態度で断るつもりでいる。
そんな気概を持ちながら、オスニエルの後について王太子の執務室へと足を踏み入れた。
「……」
目の前に広がる執務室の惨状に、シェリルは唖然とした。
広い執務室には文官の机があり、山積みの書類と格闘している人たちがいる。大きな窓を背に重厚な執務机が置かれており、ウォーレンが書類に目を通していた。もちろん、机の上には大量の書類がこちらも積み重なっている。
「これだけサインするまでちょっと待ってくれ」
ちらりとこちらに視線を向けたウォーレンはいつもの軽さで挨拶すると、座っているようにと来客用の長椅子の方へと手を向けた。オスニエルはどこかうんざりとした様子で、ウォーレンを眺める。
「兄上……前に来た時よりもひどい状態になっているように見えるんだが」
「そうだろうか? 君たちが来ることがわかっていたから、だいぶ処理をしたんだ。ほら、ちゃんと床が見えているじゃないか。昨日までは足の踏み場もなかったんだ」
床が見えているから、前よりもひどくはないと言いたいようだ。オスニエルはため息をつくと、シェリルの手を引いた。山になっている書類に埋もれている文官たちに挨拶をしながら、長椅子に座る。
腰を落ち着けると、侍従がお茶の入ったカップを置いた。ふわりと広がるお茶の香が混乱した気持ちを宥める。
「とても甘い香りがするわ」
「最近献上された花を使ったお茶だ。気に入ったのなら、少し持っていけばいい」
書類から顔を上げることなく、ウォーレンが言う。お茶と聞いて、夜会でのやり取りを思い出した。リリカとも顔を合わせたが、結局どうなったかは知らされていない。
気にはなっても質問するわけにもいかず、シェリルは小さく息をついた。
「ドーソン伯爵領のお茶も変わらず取引している。王族用のお茶ではないが、使用人たちが自由に飲めるお茶として休憩室に置いてある」
シェリルが何を気にしたのか気が付いたオスニエルが教えてくれた。シェリルはほっとした顔をした。
「ずっと気になっていたの。よかったわ」
「そう言えば、ドーソン伯爵令嬢と親しくなったとか」
ウォーレンが二人の会話を聞いていて、口を挟んだ。シェリルは軽く頷く。
「話してみれば悪い人ではなかったので……とても親切な方でした」
「受け入れが広いところがシェリル嬢のいいところだよね。よし、これで最後だ」
ウォーレンは処理の終わった書類を片付けると、こちらの席にやってくる。いつもと変わらぬひょうひょうとした様子であったが、それでも目の下にはうっすらとクマができ、隠しきれない疲れが滲んでいた。オスニエルの忙しさはコーデリアが作っていたものであったが、ウォーレンの方は違うようだ。
「シェリル嬢、わざわざ来てもらってすまないね。本当はこちらから離宮の方へと行く予定だったんだがオスニエルに断られてしまってね」
楽しげに笑うウォーレンにシェリルはどう反応していいのかわからなかった。曖昧な笑みを浮かべた。
「わたしにお話があると伺っています」
「一つお願いをしたくてね」
お願いと聞いて、シェリルは身構えた。表情を固くした彼女を見て、ウォーレンは目を細めた。
「その警戒心、とてもいいね。前とは全然違うじゃないか。これなら王子妃としてやっていけそうだ」
「兄上、あまりシェリルを揶揄わないでほしい」
「褒めているんだよ。初めて会った時は狼狽えていただけだったから、とても成長したと思う」
まさかここで褒められるとは思っていなかったので、シェリルは恥ずかしくなってしまった。自分の未熟さはよくわかっているので、素直な褒め言葉はくすぐったく感じる。
「ははは。やっぱりシェリル嬢は初々しい反応をするね。オスニエルががっちりと囲い込むはずだ」
「兄上。本題は?」
オスニエルはやや苛ついた様子で無理やりに話を本題の方へと向けた。オスニエルを揶揄うようにくすくすと笑いながら、ウォーレンは話し出す。
「とても簡単な仕事だよ。シェリル嬢にブレンダの公務を少し引き受けて欲しいんだ」
「公務ですか?」
シェリルは驚いて声を上げたのと同時に、オスニエルを窺った。王子の婚約者が妃になる前から公務を行うのはとても自然なことであり、婚約自体が突然であったとしてもやるべき事柄だ。だが、オスニエルはシェリルに焦らなくてもいいと常々言っており、あまり外に出すことを良しとしていない。
「知っていると思うけれども、ブレンダは妊娠している。婚約者の立場でも問題がない教会や孤児院の視察や王族主催の茶会の準備などを受け持ってもらいたい」
「兄上、シェリルにはまだ公務をさせないでほしいとお願いしていたはずだが」
「もちろん覚えているさ。でも状況がそうもいっていられなくなってきたんでね」
オスニエルの抗議にウォーレンは肩を竦めた。
「しかし」
「オスニエル様」
さらに言葉を重ねようとするのをシェリルが遮った。オスニエルは驚いたようにシェリルを見る。彼女は安心させるようににこりとほほ笑んだ。
「心配してくださってありがとうございます。でも、わたしにできることならば、引き受けさせてもらおうと思っています」
「シェリル」
オスニエルは眉間にしわを寄せ、小さく唸る。シェリルが前向きに答えるとは思っていなかったようだ。
「うん、やっぱりシェリル嬢に直接聞いてよかった。ブレンダもね、今まで通りにやると言っているのだが、あまり出歩かせたくないんだ」
ブレンダに向ける優しい言葉に、シェリルは驚いた。ブレンダと仲が悪いと思っていただけに、配慮するウォーレンが信じられない。
「……義姉上と仲直りしたのか?」
「いいや。別に仲直りはしていない。ブレンダの食事に毒が仕込まれるようになってきたんだ。流石に知っていて何もしないわけにはいかなくて」
「毒?」
聞いていなかったのか、オスニエルの表情が厳しいものになる。ウォーレンは疲れたようにため息をついた。
「わかったのはついさっきだよ。オスニエルにはまだ報告されていないはずだ。私から伝えると言ってある」
「ルートは?」
「今、調査中だ」
テーブルに置かれたカップに手を伸ばし、ウォーレンは口を付けた。
「毒物を仕込まれただけで、彼女は飲んでいない。だが、しばらく安全を見て大人しくしてもらおうと思っているんだ」
「それはシェリルにも同じことが言えるのだが」
「わかっている。だからシェリル嬢の護衛を兼ねて、外出時の付添はオスニエルにしてもらう」
オスニエルは黙り込んだ。
ブレンダとシェリルを並べてしまえば、王太子妃であるブレンダを優先するのは当然のことだ。オスニエルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「兄上はズルいな」
「それは自覚している。どうしても引き受けてもらいたいから、お前が納得できるように調整した。二人で出かけられるんだ、嬉しくないか?」
「……」
オスニエルはぐるぐると唸っているが、ウォーレンは楽しそうだ。
仲の良い兄弟だなと思いながら、シェリルはお茶を飲んだ。