やっぱり結婚は無理
部屋に差し込む日の明るさで目を薄く開けた。
何度か瞬いて、この部屋が自分の部屋でないことを思い出す。色々なことがあり過ぎて、シェリルは伯爵からの手紙を読んだ後そのまま眠ってしまった。
書かれた内容を思い出し、小さくため息をつく。
とりあえず考えることをやめて、いつものようにゆっくりとした動作で体の調子の確認を始めた。あまりにも体が辛ければ体が楽になるまで横になっているし、動けるようであれば朝の支度を始める。
シェリルは自分の体調の違いに唖然としていた。
「嘘みたい」
恐る恐る上体を起こし、手を握ったり開いたりを繰り返す。こわばりもなく、スムーズに動く自分の手がとても変な感じだ。
でも動ける。
シェリルはそろそろと寝台から足を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。
「……これはすごいわ」
昨日との違いにシェリルは複雑な思いだ。思い切って勢いよくその場でくるりと回ってみる。シェリルの動きに合わせて寝間着の裾がふわりと舞った。調子に乗って部屋の中をくるりくるりと回り続けたが、それでも体の動きは自然で、思う通りに動く。
「ふふ。動けている。楽しい」
一人笑って呟き、もう一度くるりと回ったところで、扉が開いた。入ってきた侍女と目が合う。あまりの気まずさにシェリルが固まった。
「おはようございます」
侍女はにこりと優しい笑みを浮かべて挨拶をした。シェリルは慌てて姿勢を正した。
「おはよう」
「元気そうで安心しました。支度をお手伝いします」
「支度?」
何の支度かわからず目を瞬けば、侍女はこくりと頷いた。
「はい。調子がよさそうならばオスニエル殿下が一緒に朝食を、と伝言を頂いています」
「えー……。朝の食事はいらないのだけど」
「まあ、そうでしたか。ですが、お仕度はしますね」
そんな適当な言葉で断れるとは思っていなかったが、侍女の手早い行動にシェリルはあっという間にドレスを着せられて髪を整えられた。
侍女の選んだドレスはシェリルのために誂えたようにぴったりだ。きっとオスニエルが用意したんだろうと思いつつも、なんだか気が重い。
どうにか理由をつけてオスニエルに婚約を白紙にしてもらい、家に帰るのだと自分を奮い立たせた。
◇◇◆◇◇
案内された食堂は小さい部屋だった。20人ぐらいが一度に食事ができそうなほど大きな部屋を想像していたのだが、家族が過ごすような心地の良い小さめの部屋だ。
食事をするのはオスニエルとシェリルの二人だけ。テーブルも大きいとはいえ、普通の声で話しても聞こえる程度しか離れていない。
「もっと食べろ」
「お腹がいっぱいです」
オスニエルはシェリルの残した朝食を見て、眉をわずかに寄せた。シェリルもつられて自分のお皿とオスニエルのお皿を比べた。
厚切りにしたベーコンに大きめのハーブ入りウィンナー、焼いた卵、よく煮込まれた具たっぷりのスープ。小ぶりのパンは籠に山盛りだ。
これで一人分。
オスニエルの方はさらに何の肉かわからない一口大の肉のブロックが置いてあったのだが、彼は黙々と食べてすでに完食していた。シェリルは普段から小さなパン一つと野菜、それに少しの玉子しか食べないので、どこを食べたのかと言われるほど沢山残っていた。
オスニエルが文句を言いたくなるのも分からなくもないが、これ以上食べられないのも本当だ。
「少なすぎる。もっと食べて体を作らないと。せめてスープをちゃんと飲むんだ」
「動かないのですから、これぐらいでちょうどいいのです」
ツンとして言い張れば、ため息をつかれた。オスニエルは侍女にいくつか指示をすると立ち上がる。座るシェリルの手を取り、引っ張り上げる様にして立たせた。
すぐ側に立つと彼の体の大きさがよくわかる。シェリルはあまりの体格差に自分が子供の様に思えた。
「サロンの方にお茶を用意させた。庭でも眺めれば食欲もましになるだろう」
「お気遣いありがとうございます。でも本当にもう食べられないの」
「では俺の茶に付き合え」
彼にエスコートされてサロンへと向かう。食堂のすぐそばにある小さめのサロンにはすでにお茶の用意がしてあった。テーブルの上にはお茶の他に器に綺麗に盛りつけられた果物が用意されている。
オスニエルは長椅子にシェリルを座らせるとその隣に腰を下ろした。あまりの近い距離にどきりと胸が跳ねた。
「そうだ、伯爵の手紙は読んだか?」
「読みました」
その内容を思い出し、ため息をついた。
父親からの手紙は魔力の相性のよい相手と巡り会える奇跡と結婚できる幸運について、びっしりと書かれていた。伯爵がどれだけシェリルの快癒を望んでいたのか、それだけでもわかってしまう。
父親に確かに愛されているのだという嬉しさと、だからといって王族との結婚とかありえないという気持ちが混ざり合って複雑だ。
「こちらの都合ばかりで、殿下には申し訳ないほどでした。わたしは幼いころから療養生活でしたので、貴族の娘らしいことは何も身についていないので……」
貴族令嬢としての常識なんて、何一つ身についていない。極上のカーテシーだけがシェリルに叩きこまれた唯一のものだ。あとは自然と周りに合わせている程度で、会話も立ち振る舞いも洗練されておらず田舎臭いものだろう。
そう自覚しているからこそ、王子の婚約者という立ち位置はひどく居心地が悪い。
そんなシェリルの不安を正確に掬い取ったのか、オスニエルは気にすることはないと真面目な顔で断言する。
「貴族らしいことなど考えなくてもいい。体調が良くなれば、後からいくらでも学ぶことはできる」
彼女は隣に座る美丈夫をきっと睨みつけた。彼はシェリルのきつい眼差しを気にすることなく、お皿から赤みのあるベリーを一つ摘まんだ。
「お願いですから、婚約はなかったことにしてください。わたしには王子妃なんて無理です。それに馴染みのない場所で暮らすのはとても辛いです」
折角暮らしやすい環境になるように馴染んでいたのに、また一から作り上げるのは大変だ。食事だってそうだし、こうして常に護衛や侍女たちに見守られて何かをすることすら慣れない。
シェリルは辛さを隠すつもりは全くなかった。できれば婚約を白紙に戻し、今すぐにでも領地に帰りたい。
「俺と結婚したくないと思うシェリルの気持ちは理解できる。だが俺は君を見つけてしまった」
「魔力だけで結婚なんて」
「そのあたりは申し訳ないと思う。だが、どの貴族も魔力で婚姻を決めることが多い」
それは事実だった。相性云々は伝説級のものであるが、次代に少しでも多い魔力を与えたいという貴族は多く、魔力の量は結婚の条件になっていることが多い。
だから、シェリルの結婚したくない、環境を変えたくないというのは彼女の我儘であって、貴族の娘としては当主の決定に従うのが常識だ。
「でも」
「突然のことで不安を覚えるのも当然だと思う。俺もシェリルを幸せにするように努力するし、シェリルの望みは出来る限り叶えたいと思っている」
「では、婚約白紙をお願いします」
「却下」
願いを叶えてくれないじゃないかと不貞腐れれば、口元が少しだけ綻んだ。変化が乏しくて感情がわかりにくいが、どうやら揶揄われたようだ。
「叶えてくれるのでは……ん!」
文句を言ってやろうとしたら、口の中にベリーを押し込まれた。吐き出すわけにもいかず、口の中に入ったベリーをもぐもぐと咀嚼した。ベリーの甘酸っぱさと瑞々しさが美味しい。
「美味しいか?」
「……はい」
「では、もう一つ」
そう言ってベリーを口元に差し出された。直接彼の指から食べることに抵抗を感じて、つい口を閉ざしてしまう。オスニエルは誘うように唇にベリーを少し押し当てた。
「シェリル、口を開けて」
囁くような声が恥ずかしくて、目を伏せ唇をきゅっときつく結んだ。頬を真っ赤にするシェリルにオスニエルは目を細める。
「無理か?」
仕方がないな、と言った雰囲気で聞かれて、シェリルは小さく頷いた。オスニエルは唇に当てていたベリーを離した。ほっとしたシェリルが視線を上げる。オスニエルはごく自然に先ほどまでシェリルの唇に触れていたベリーを自分の口に放り込んだ。
「え? ええ?」
「このベリーは美味いな。シェリルが好きならもう一度取り寄せておこう」
オスニエルはシェリルの戸惑いを気にすることなくお茶を飲み干すと立ち上がった。
「シェリルの部屋はすでに用意してある。ドレスもいくつか準備してあるが、気に入らなければ作り直せばいい」
「ドレス?」
オスニエルの行動について行けずにただ言葉を繰り返す。シェリルの頭は限界を超え、この状況が理解できていない。オスニエルは労わるように優しくシェリルの頭を撫でた。
「少しずつでいい。慣れていってほしい」
「……」
「まず手始めに殿下ではなく、名前で呼んでくれ」
わかりましたとも嫌とも言えず黙り込めば、額に唇が落ちてきた。突然の口づけに声にならない悲鳴を上げる。
「では、行ってくる」
「…………いっていらっしゃいませ」
辛うじて見送る言葉を紡げば、オスニエルは軽く頷きサロンから出ていった。そのすっとした後姿が見えなくなってから、シェリルはじたばたと悶えた。
「な、な、なんであんなに距離が近いのよー! 恥ずかし過ぎる!」
女性として甘やかされたことのないシェリルは恋人のような扱いを受け止めきれなくて、顔を真っ赤にして蹲っていた。