婚約の理由
温かな手が額に置かれた。冷えた体には、その温もりがとても気持ちが良い。その温かさがもっと欲しくて、無意識のうちに擦り寄る。
シェリルを甘やかすように大きな手は少しためらった後、優しく頭を撫でた。時折、髪に指が通る。
こうして気分の悪い時に撫でられるのは好きだ。大抵は兄のクリフが心配そうに撫でている。具合の悪さを拭うように何度も何度も優しく。
久しぶりに優しく撫でられて、シェリルは目を開けるのがもったいなくなってきた。クリフは領地に戻ってくる伯爵と違って一年のほとんどを王都で過ごしている。当然、甘やかしてくれる時間が無くなっていた。
だからもう少し甘えていたくて目は開けない。クリフなら仕方がないなと笑って許してくれる。もう一度眠ってしまおうとしたところで――。
「……目覚めのキスでもしようか?」
聞いたことのない声に驚いてぱちりと目を開ける。視界がぼんやりする。
「お兄さま?」
「違うな」
知らない声。
頬を撫でていたのはクリフではない。
何度か瞬いて、意識をはっきりさせた。目の前にいるのは薄い青色の瞳と黒髪の男性だ。神が作ったと言わんばかりの美貌が至近距離にいる。
「だ、第二王子殿下!?」
自分を覗き込んでいる人物を正確に理解すると、シェリルは素っ頓狂な声を上げて目を白黒させた。オスニエルは覗き込むために屈んでいた体を起こすと、シェリルから距離を取る。
「動揺しすぎだ。どうだ、気分は」
「気分……?」
気分と言われてようやく気がついた。
いつもよりも体が軽い。体を支配している魔力のざわめきが我慢できる程度になっている。
普段なら目覚めてから体を動かすまでに一時間はかかる。全身がこわばっていることが多く、ゆっくりと指や足先を動かしながら少しずつ解していくのだ。
普段と違う自分の体を確認するように、何度も何度も手を握っては開いてみた。指のこわばりを少しも感じない。足先も同じように動かしてみる。
思う通りに動く手足に、恐る恐る上体を起こしてみた。倒れこむことなく、一人で起き上がれる。
ありえない現実にシェリルはぼうっとした。夢でも見ているような心地だ。
体の動きを確認しているシェリルを眺めていたオスニエルはほんの少しだけ表情を緩めた。
「問題ないようだな。よかった」
「どうして……?」
事情がよく呑み込めずに疑問を口にした。
「魔力の相性だ。相性がいいと魔力を与えることができる」
やっぱり意味が分からず首を捻った。オスニエルは目を細めてシェリルから視線を外さずに、ゆっくりと両手を握りしめた。
「こうすればわかるだろう?」
じわりと両手から自分のものではない何かが伝わってくる。体内でざわめいていた魔力が突然凪いだ。
温かなものがゆっくりと体を巡る。その熱は体の隅々まで行き渡り、最後には手から抜けていった。自分の中にある濁った何かが外に出されて、さらに息がしやすくなる。
常に悩まされている気持ちの悪さの劇的な変化に、シェリルは驚きを隠せなかった。こんなにもすっきりとしたのは病気になる前しかない。
「うそ。信じられない……」
「どうだ? 気持ち悪くなかったか?」
「温かくてとてもポカポカします」
「そうか。これで理解できたか?」
「何をですか?」
理解できたかと聞かれても、言葉が少なすぎてわからない。シェリルは今までの会話に理解しなくてはならない何かがあったかと目を瞬いた。
「俺の婚約者になった理由だ」
「全く理解できていません」
予想外の話の繋がりであったが、すぐさま否定した。これは受け入れてはいけない話だと直感的に理解した。
彼はシェリルの否定に考えるような様子を見せた。無表情とまでいかなくとも、ひどく感情が見えにくい。
シェリルは何を考えているの全くわからない彼の視線にさらされて、居心地が悪かった。落ち着かない気持ちを何とか抑えたいと思っていても、そわそわしてしまう。
難しい顔をして考え込んでいる王子に声をかけることもできず、じっと彼の言葉を待つ。
「……王族の正妻は相性のいい魔力を持つ人間と決まっているのは知っているか?」
「いいえ、初めて聞きました」
「俺が婚約せずに一人でいたのは、俺と相性のいい魔力を持つ令嬢がいなかったからだ」
彼の言葉を理解するにしたがって、徐々に気分が悪くなっていく。嫌な予感しかしない。
「あの……一人もいないのですか?」
「そうだ。兄上のように政略的な結婚をする場合もあるが、俺は第二王子だ。どちらかというと国のために魔力のつながりを求められる」
信じられない。
まさか魔力の相性で王家に望まれるとは。
「……どうやってわたしのことを知ったのですか? わたしは領地で療養していたので、相性なんて知る機会はないはずです」
「知る機会はあった。覚えていないだろうか。一年前のデビューの時に倒れただろう?」
「まさか……」
「そのまさかだ。倒れた君を抱えたイーグルトン伯爵が途方に暮れていて、その時に同じように魔力を与えたんだ」
一年前のデビューと聞いて眉を寄せた。
あの日のことは遥か彼方へと飛ばしてしまいたいほど、覚えていたくない記憶だ。
初めての王城、初めての社交界。
少し期待していた。病弱でも社交ができるのではないかと。
現実を知って、シェリルは自分が貴族の娘としていかに役立たずかを知っただけだった。
その日から、シェリルの望みは健康一番となっている。
「そんな……婚約ってどれぐらい前から決まっていたのですか?」
「半年ぐらい前だな。イーグルトン伯爵とも協議して決めたんだが」
「まったく聞いていません!」
「聞いていない? ドレスも贈ったのに?」
シェリルの上げた声に、オスニエルも驚いたように目を見張る。シェリルは自分の発言がイーグルトン伯爵をよくない立場にするかもしれないと慌てた。
「父は恐らく具合の悪いわたしに言えなかったのだと思います」
「そうか」
特に気にした風でもなく、オスニエルが頷いた。怒りを買わなかったことにほっとしながらも、頭は忙しく働かせる。このままオスニエルと婚約をしてしまうわけにはいかない。
「……わたしは自分の体調ばかりを気にして生活をしてきましたし、教養も何もかも足りていません。魔力だって人より多くあるかもしれませんが、魔法が使えるわけではありません」
「心配いらない。俺はいずれ臣籍に下る。面倒なら、病弱のままにしておいて社交界にも出なくていい」
強い気持ちで告げた理由をすっぱりと切りすてられ、言葉を失った。そもそも病弱であることは承知している。当然、教養が足りないことは初めから受け入れているのだ。オスニエルを説得できる他の理由が思いつかない。
「他に質問は?」
「……殿下には忘れられない思い人がいると伺っています」
だいぶ前に聞いた噂話を記憶の箱から引っ張り出してきた。うろ覚えだが、オスニエルがいつまでも婚約者も決めない理由を聞いた覚えがあった。そこから婚約がなくならないかと口にする。
「その質問に答えるつもりはない」
拒絶するひやりとした声音に、思わず体を震わせた。どうやら触れてはいけないところだったらしい。謝ろうかどうしようか、悩んでいるうちに手紙を渡された。
「手紙?」
「伯爵からだ。返事が書きたかったら、侍女に伝えればいい」
「すぐに帰りますので、返事はいらないかと……」
「帰る? 今日からこの部屋が君の部屋だ」
飲み込めなくて呆然としていれば、彼に右手を握られた。そのまま持ち上げられ、手の甲にキスが落とされる。何をされているのか理解できずに固まった。
「ようこそ。未来の正妃殿。歓迎する」
婚約にまだ同意していない! とシェリルは心の中で盛大に文句を言った。