夜会
今日の主役である二人が姿を現すと、ざわめきがぴたりと止まった。
その空気の切り替わりにシェリルの胃がぎゅっと縮こまる。体を強張らせたシェリルを落ち着かせるようにオスニエルが背中をゆっくりと撫でた。
「大丈夫だ。さあ、いこう」
「え、ええ」
オスニエルは緊張でがちがちになったシェリルを甘やかすように寄り添いながらエスコートする。シェリルはつないだ手を強く握りしめた。
一瞬の静寂の後、ざわつきが戻った。
こちらを探る様々な視線を感じたが、シェリルは意識をオスニエルだけに向けた。イゾルデ夫人から教えられたとおりに余裕があるように見せようと笑顔を浮かべるが、どうしても手が震えてしまう。
こんな風に注目されることなど今までなかった。シェリルは俯かないように必死にこらえていた。
「挨拶は俺がするし、君は隣で微笑んでいたらいい」
「頑張ります」
安心させるように微笑めば、オスニエルはぐるりとあたりを見回した。目的の人物を見つけると、そちらに向かって歩き始める。顔を上げれば、視線の先にはウォーレンがいる。上座で楽し気に会話をしていたウォーレンがにこやかに手招きをした。
「ようやく来たか。待っていたよ」
「兄上、遅れました」
「気にすることはない。てっきり他の男に見せたくないと言って、欠席するものだとばかり思っていたよ」
「……それも考えた」
渋々と言った様子で答えれば、ウォーレンが楽しげに笑った。
「何にせよ、婚約おめでとう。こうして公に祝福できて嬉しいよ。シェリル嬢も色々大変だろうが二人で幸せになってほしい」
「ありがとうございます」
好意的な祝福を受けた後、オスニエルはいくつかの貴族たちのグループに足を運び、シェリルを紹介していく。そのたびにお祝いの言葉をかけられるが、心がこもったものは少なかった。
今まで話題にも上らなかった娘がオスニエルの婚約者になったことに納得していない人たちが一定数いるようだ。シェリルも事前に言われていたこともあって覚悟していた。それなのに、実際に好意的ではない視線を向けられるとひどく気持ちがざわつく。
「シェリル、おめでとう」
途中で父であるイーグルトン伯爵と兄のクリフから祝いの言葉をもらった。
「お父さま、お兄さま。ありがとうございます」
「元気そうでよかった」
イーグルトン伯爵は元気になった娘を見て素直に喜んでいた。恐らく彼は王族と繋がる縁よりも、娘が元気になったことを喜んでいるのだろう。
「とても元気よ。毎日、動けるの」
「そうか。それはよかった。幸せそうで何よりだ」
家族との会話はそれだけだったが、幾分気持ちにゆとりが生まれた。不思議なことにあれほどざわついていた気持ちが落ち着いている。すっきりとした気分で残りの挨拶をこなした。
「シェリル、踊ろうか」
ある程度、挨拶が終わったところでオスニエルはダンスホールへと導いた。人々の視線を感じても、直接向き合わないことにほっと息を吐く。オスニエルに体を預ける様にしてステップを踏んだ。
「疲れただろう?」
「……少しだけ」
彼の気遣う言葉に、シェリルは素直に頷いた。
ここにいる大半の人間はシェリルのあらを探している。そして陰であんな不出来な令嬢を王子妃とするのはいかがなものかと、眉を顰めるつもりだ。失敗しないように、付け入られないようにと気を張っているため想像以上の疲れを感じていた。
「ダンスが終わった後、残りの顔合わせをして下がろう」
「退出するには早すぎませんか?」
「シェリルが病弱だということは誰もが知っているからな。心配いらない」
それもまた付け入られそうと思いながらも頷いた。無理をして失敗するよりはよっぽどいいはずだ。オスニエルは仄かに笑うと、軽く握っていた手に力を入れ少しだけ自分の方へとシェリルを抱き寄せる。さらに近くなったことで彼の使っている香水の香りがした。
「オスニエル様?」
「早く二人だけになりたい」
そっと囁かれて、シェリルの顔が耳の先まで真っ赤になった。恥ずかしさから彼の胸元に顔を寄せ、顔を隠す。
「こんなところで言うなんて……恥ずかしい」
「そうか? いつだって俺はそう思っている」
そう囁きながら、オスニエルは抱え込むようにして彼女をぎゅっと強く抱きしめた。ダンスどころではなくなったシェリルはぐるぐると唸る。オスニエルの隣に立つのにふさわしいところを見せようと頑張ってきたのに、これでは台無しだ。シェリルの拗ねたような様子に、オスニエルは声を出さずに笑った。
「揶揄っています?」
「違うな。変な目で見ている男がいるから見せたくないだけだ」
「いないです、そんな男性なんて」
シェリルは眉間にしわを寄せた。オスニエルはそれ以上は言わず、ダンスを中断した。シェリルを大切に抱きかかえるようにホールから下がる。
誰もが遠巻きにする中、一人の貴族が寄ってきた。シルバーグレイの上着に洒落たタイを合わせている。父親と同世代のようだ。
シェリルは気持ちを整えると、冷静さを取り戻そうとそっと息を吸い込んだ。
「オスニエル殿下、おめでとうございます」
「やあ、ドーソン伯爵」
シェリルは微笑みながら優雅に膝を軽く曲げお辞儀をした。ドーソン伯爵はにこやかな笑みを浮かべながらも、シェリルに刺々しい眼差しを向けてくる。
「せっかくの祝いの場に娘を参加させられなかったことが心残りで」
「そうか。それは残念だな」
娘、という言葉を聞いてシェリルはドーソン伯爵が誰であるのか、ようやく気が付いた。あのお茶会にいた栗色の髪をした令嬢がドーソンの名を持っていた。彼女がオスニエルに心を寄せていたことを思い出す。戸惑うシェリルにオスニエルは安心させるように彼女の腕を撫でた。
二人の様子をじっと観察しながらドーソン伯爵は口を開く。
「……できれば、王太子殿下へのとりなしをお願いしたいのですが」
「そのことについては、口を挟まないことにしている。大人しく謹慎が終わるのを待て」
「茶会でよくある小さな無作法にここまでの処罰を求めるとは……よほど婚約者殿を大切にされているのですな」
ざらりとした嫌味にシェリルは顔を強張らせた。処罰についてはシェリルの意思は全く入っていない。ウォーレンが決めて、シェリルはついでのように結果を教えられただけだ。
だが事情を知らない人からすれば、彼女達への処罰はオスニエルの、もしくはシェリルの希望で行われたように思えるのだろう。
オスニエルは含まれている嫌味を受け流した。
「婚約者を守るのは当然だろう? それともあの令嬢とも思えぬ作法がドーソン伯爵家としては当たり前ということか」
「殿下に仄かな恋心を寄せていたあれにとって冷静でいられず、多少頭に血が上っていたのも確かでしょう。ですが、少しのお目こぼしがあってもよろしいかと。それに娘のように敵愾心を見せた貴族令嬢を今後も敵に回していくおつもりか」
もっともらしい言い分だが、シェリルには理解できなかった。足りないところばかりではあるが、シェリルは王子の婚約者だ。あのような嫌がらせを黙って受け入れるなど、聞ける話ではない。だが、ドーソン伯爵に対してどのような言葉を返していいのかわからない。
「夜会で無粋なことを言っているね」
軽い雰囲気で入ってきたのはウォーレンだった。ドーソン伯爵は形ばかりの恭しさで頭を下げる。
「これはこれは王太子殿下」
「まずは君の娘の処分は私が勝手に決めたから、二人に文句を言ってもどうにもならないよ」
「……王太子妃殿下と我が家の繋がりを知らないわけではないでしょう?」
「そうだね。だけどそろそろ関係を見直すつもりでいるんだ」
政治的な話に、シェリルはそっとオスニエルの顔を見た。オスニエルはくっきりと眉間にしわを寄せており、唇をきつく結んでいる。
「ほう。それは横暴だと思いますが」
「仕方がない。私はブレンダの好んでいるお茶が飲めないんでね」
肩をすくめると、ドーソン伯爵が眉を跳ねあがらせた。
「我が家のお茶を外すということですか?」
「申し訳ない。流石にあのお茶は飲めない。シェリル嬢に勧める姿を見てこれは駄目だと思ったんだ」
もっと何か別のことがあったように、言葉を濁す。聞き耳を立てていた周囲の人々はこそこそと情報を交換し始めた。シェリルはウォーレンの対応に不安を覚えた。煽っているとしか思えない物言いに、こちらを巻き込まないでほしいと心から願った。
「シェリル嬢もそう思うだろう?」
祈りむなしく、ウォーレンは同意を求めてきた。引きつりそうになる顔を意志の力で何とか笑みに変える。
「ウォーレン様。社交界の常識だというのなら、わたし、もう少し頑張ります」
「無理はしなくていい。普通の人は飲めなくてもいいお茶だからね」
「でも」
「体にいいと聞いたけど、流石に虫入りは無理だろう」
二人の会話に人々は勝手な憶測を付けていった。初めは余裕の表情で見ていたドーソン伯爵も、最後のウォーレンの言葉に唖然とする。
「は? ……虫入り?」
「そうなんだよ。人の嗜好をとやかく言うつもりはないけど、あの勧め方は流石にね。好きな人には美味しいかもしれないけど、好まない人間だっているんだ。反省のつもりで謹慎処分にしたけど、ちゃんと内容が伝わっていなかったようだ」
「それは、その……」
ドーソン伯爵は娘を庇う言葉が浮かばなかったのか、口ごもった。虫入りが健康にいいということを否定すれば嫌がらせに虫を使ったことになり、否定も肯定もできない。
微妙な空気が流れ始めた。
「お話し中、いいだろうか?」
どうにもならない空気を壊すように声がかけられた。ウォーレンは近くに来た男性に親し気に話しかける。
「やあ、オールダム侯爵。待っていたよ」
シェリルも自然と声の主の方へと視線を向ける。そこにはオスニエルよりもさらにしっかりとした体格をした貴族がいた。父親と同じぐらいの年齢だろうか。
「……エルザ?」
オスニエルは驚きながら、男と同伴している女性を見て呟いた。