突然の婚約者
緻密な模様が描かれた天井画に躍動感あふれる彫刻、柱には大小様々な花や植物のレリーフが刻まれており、上品な華やかさをもたらしている。
大広間に集められているのは、この国の貴族たちだ。贅を凝らしたドレスに身を包み、貴族夫人や令嬢が話題をころころと変えながら軽やかに笑う。男性たちも上質な布で仕立てられた正装を着こなし、社交に勤しんでいた。
誰もがうっとりとする煌びやかな空間。
きっと貴族令嬢なら一度は参加したいと思う夜会だ。未婚の令嬢達が集められた夜会はとても華やかで……臭い。あらゆる香水の匂いが混ざり合い、シェリルの気分の悪さに貢献していた。
どうしてこんなにもきつい匂いをさせているのか。
近寄った時にふわりと香るぐらいがちょうどいいとシェリルは祖母に教わっていたのだが、どうやら田舎と王都では常識が違うらしい。花の香りを凝縮させた独特な甘ったるい匂いが頭痛すら引き起こしている。
時間が経つごとに気持ちの悪さは誤魔化せなくなっていた。シェリルはエスコートする父のイーグルトン伯爵の腕にぎゅっとしがみついた。他人の目を気にしながら、彼女は父親にそっと囁く。
「お父さま……気持ちが悪いです」
「頑張りなさい。あと少しの我慢だ」
「このままでは倒れてしまうかも」
「大丈夫。気合いだ」
父親の一言で絶望が胸の中に広がった。国王主催の夜会で王族の挨拶の前に倒れるなど醜態につながる。縋るように伯爵を見上げたけど、一向に視線を合わせてくれない。シェリルはもう一度強めに父の腕を引っ張って自分の方に注意を引いた。
「お父さま、お願いします。もう無理です。いますぐ帰りたいです」
「あと一時間」
「でも喉の辺りまで吐き気が」
「……せめて殿下の挨拶が終わるまで根性で飲み込め」
無茶苦茶なことを言っているが、伯爵の言い分も理解できる。国にとって可もなく不可もないイーグルトン伯爵家が王命で開かれた夜会に王子の言葉を聞くことなく退出などできないし、そんな目立つことをしたら後々面倒になるのは間違いない。
我が家の立場は理解していても、むかむかした気分の悪さは時間の経過と共に増していく。指先が冷たくなってきており、足だって不安になるぐらい力が入らない。
「頑張るんだ。これを乗り切ったら下がろう」
「今後夜会に参加しなくていい様に適当に理由をでっち上げて、重病にしておいてください」
「考えておこう」
伯爵がシェリルの背中を宥めるようにそっと撫でた。その労わるような子供にするような撫で方に少しだけほっとした。もしかしたら保身のためにわざわざ領地で療養していた自分を引っ張り出したのではないかとシェリルは父親をほんの少しだけ疑っていたのだ。
九歳の時に原因不明の病にかかり、イーグルトン伯爵領でずっと療養していた。原因不明の病は年を重ねるごとに悪くなり、最近ではほんの少し動いただけでも寝込んでしまうほどだ。
一年前の成人を迎えた16歳の時、貴族令嬢として最低限デビューだけでも、と言われての参加だったが散々だった。
あの時は本当にひどかった。流行の真新しいドレスも素敵な煌びやかな空間も堪能することなく、国王陛下へ成人の挨拶をした後、気絶して終わった。何やら王城で色々とすべきことがあったらしいが、もちろん記憶はない。
気がつけば翌朝で自室の寝台の上。
あの日ほど落ち込んだ日はなかった。
そして、今回が二回目の夜会だ。
こんな状況の娘をわざわざ領地から呼び寄せるとしたら、家の都合による婚姻しか考えられない。疑いが確信に変わったのは用意されたドレスを見たからだ。
最新の意匠に肌触りの良い高級な布を贅沢に使った一品はシェリルのプラチナブロンドによく似あう淡い色だ。瞳の色の緑ではなく、冬の空のような薄い青のドレスは素敵だけれども、家族の誰もが持ち得ていない色に警戒心しかない。
この色の選択が嫌な予感をさらに高めたが、別のドレスを着ていくという選択肢はなかった。
シェリルも貴族令嬢だ。貴族令嬢として社交も妻としての役目も果たせない彼女であっても結婚した方が何かと都合のいい男性もいるだろう。
結婚できない相手を愛人として、表向きの正妻にする。もしくは、妻に先立たれた男の後妻になる。
本当にその程度しか役に立たない。
考えただけでも悲しくなってきた。どんな縁談でも喜んで嫁いでいくのが貴族の娘だ。甘えているとは思うが贅沢はしないし領地の片隅で大人しくしているから、今のまま捨て置いておいてほしい。
そんな思いもあって引きこもりたいと訴えたのだが、案外あっさりと頷かれた。
誰かに引き合わせられないかとひどく警戒していたのだが、どうやら考え過ぎだったらしい。
父親らしい優しい色を浮かべる伯爵の目を見つめた。その優しさに疑った自分が恥ずかしくなる。
「お父さま、ごめんなさい」
「なんだね、急に?」
「わたし、お父さまがわたしを誰かと引き合わせたいがために夜会に参加しろと命じたのだと思いました」
「……」
伯爵は気まずそうにそっと視線を外した。あからさまな態度に、先ほどまで小さくなっていた不信感がむくむくと膨らみ始める。シェリルは思わず父親の腕をきつく握りしめた。
「お父さま?」
「いや、そのだな。やはり貴族の娘の幸せは結婚だと思うのだよ。ははは」
わざとらしい説明と、乾いた笑いに確信した。この夜会にはシェリルの婚約者となるべく男性がいるのだ。
こんな不意打ち、ひどすぎる。
「どういう……」
「ほら、オスニエル殿下のお言葉が始まる」
問い詰めようとしたタイミングで殿下の挨拶が始まってしまった。後でちゃんと説明してもらおうと心に決め、前を向く。
この国のオスニエル第二王子が会場が見渡せる少し高い位置に立った。
騎士らしく逞しく鍛え上げられた体躯に黒髪に氷のような薄い青い瞳をしたオスニエルは誰もが称賛する美丈夫だ。
少しも笑みを浮かべず、表情は氷のように冷ややかだ。女嫌いだという噂もあり、愛嬌を振りまくつもりはないらしい。
独身令嬢たちがオスニエルの姿を見て、ひどく熱のこもった眼差しを送っていた。その熱気に当てられて、忘れていた吐き気が再びこみあげてくる。最悪なことに、目の前さえもぐらぐらし始めた。
「うえ……」
「シェリル?」
伯爵が焦ったように娘の名前を呼んだが、目の前がすでに暗くなっている。足も力が抜けていく。
「退出しよう」
「ごめんなさい」
「心配するな。歩けるか?」
娘の限界に気が付いたのか、伯爵は頑張れとは言わなかった。娘の腰に腕を回し、ふらつく体を支える。
そもそもシェリルは病弱なのだ。こんなに熱気むんむんの王宮で開かれる夜会に参加できるほど体が丈夫ではない。体調を整えてこの夜会に臨んだが、やはり無理なものは無理だ。この失態を見て婚約者になる人に結婚を考え直してもらいたい。
「具合が悪そうだ」
「ふわ?」
ふわりと体が浮いた。氷のような薄い青の瞳が暗くなる視界に映り込んだ。感情に乏しい彼の顔を見て体が震えた。体は火照っているのに、頭は冷えるという何とも言い難い状況になる。
「申し訳ない。婚約者の気分が悪いので下がらせてもらう」
「え?」
気持ちの悪さに思考力が低下していて、意味のある言葉がつかめない。視線を彷徨わせて、伯爵を探す。ついさっきまで隣で支えていてくれたのだから、側にいるはずだ。
きょろきょろとすれば、心配そうな伯爵の顔が見えた。ここから脱出しようとそちらに手を伸ばしたが、すぐに大きな暖かな手に握りこまれた。馴染みのない手に体がびくりと揺れる。
ここから逃れようとする彼女にそっと囁いた。
「心配しなくても大丈夫だ。すぐに休める部屋に連れていこう」
拒否する言葉が出ないうちに、彼はシェリルを抱いたまま動き出した。色々な感情のこもった視線が一斉に二人に注がれる。ひそひそと小声で話す声がいくつも聞こえてくる。
「ああ、心配しなくともイーグルトン伯爵も承知している。今夜は俺の離宮に泊まるがいい。体調が悪い中、必要だったとはいえ無理をさせたな」
「何を言って……?」
「シェリル、君が俺の婚約者だ」
「婚約者……」
「なんだ、聞いていなかったのか? 半年前から決まっていたのだが」
信じられない言葉を聞いて、血の気がざっと引いた。色々な何かが浮かんできたが、面倒になって考えるのをやめた。
諦めた途端に体調が一気に悪くなり、意識は暗闇に沈んだ。