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2日目 6:00〜7:00 朝のお買い物 あるいはブーランジェリーという名のダンジョンで行われる尊厳と朝食をかけた静かなる攻防

6:00

俺は、アパルトマンの一室で目を覚ました。

ベッドで目を覚ますのは1週間ぶりだった。

マットレスの上に横たわると、凝り固まった筋肉が解れるようだった。

その上、俺の腕の中には、裸のパオラがいた。

彼女がネットを使って借りたこのアパルトマンには、一通りの設備が揃っていた。

シャワーを浴びて寝汗を流し、先日調達した卵とビーフソーセージでソーセージ・スクランブルエッグを作り、牛乳をグラスに入れて一杯飲み、パオラのコーヒーミルを借りて、コーヒー豆を挽き、コーヒーを淹れ、それを飲みながら、調理棚を開けたところで、俺は首を捻った。

冷蔵庫も食器棚も開け、パオラのスーツケースの中やトートバッグの中も確認したが、やはり、目当てのものは見つからなかった。

俺は、ため息を吐いた。

再びシャワーを浴びて、今度はシャンプーとボディソープを使って身を清めた。

髭を剃り、眉毛を整える。

クローゼットを開け、俺は、ほっ、と胸を撫で下ろした。

H○Mでフォーマル寄りのカジュアルな服を調達したのが、夢の中の出来事じゃなくて良かった……。

アパルトマンを出れば、空は少し明るくなっていた。

俺は、先日見かけたブーランジェリーに向かった。

パン屋はすでに開いていた。

俺は、フランス人たちが毎朝行う聖なる儀式に備えて、無表情を作り、身を引き締めた。「ボンジュール」

「ボンジュール」店主の男性は、俺を睨みつけた。まるで、フランス人たちが毎朝行う、朝食という名の神聖なる儀式に使われるバゲットを調達する資格が、この客にあるのかどうかを見極めるように。店主は、パリのブーランジェリーのカウンターの向こうに立つ男性が得てしてそうするように、初来店の客である俺に向けて舌打ちをしてみせた。その極上の不快感を与える舌打ちの音には随分と年季が入っているように思えたので、こいつの体には、間違いなく由緒正しきフランス人の血が流れていた。おそらく、この一家は代々このブーランジェリーを引き継ぎ、長男はウェイトレスとしてキャリアの基盤を築き、その下積み期間を通じて、カウンターの向こうに立つにふさわしいしかめつらと極上の舌打ちを身に付けることで初めて正当な後継者として認められるのだろう。俺の推測を裏付けるかのように、店主の背後には、ガラスの壁によって隔てられた厨房があり、そこでは、高校生くらいの男の子が手馴れた様子でパン生地をこねながら、俺を睨みつけていた。パリの街で、足を運んだことのないブーランジェリーのドアを潜る度に思うのだが、俺が一体何をしたというのだろう。そして、そう思った次の瞬間、毎度のように、俺は気づくのだ。俺が何をしたかって❓ ブーランジェリーに入ったじゃないか。教会やシナゴーグやモスク、それぞれの宗教の神聖なる祈りの場にそれぞれのマナーがあるように、ブーランジェリーも、フランス人にとっては神聖なる場であり、守らなくてはいけないマナーがあるのだ。

人に物怖じつかせ、不愉快にさせることにかけて右に出るものはいないとの自負を持つ店主は、はぁー、と、わざとらしいため息を吐きながら、俺を見た。その様子を見る限り、彼はどうやら不愉快な結論に至ったらしい。つまり、俺は、第一関門を突破したのだ。「フランス語話せるか❓」

お決まりの言葉に、俺は肩を竦めた。まるで、そんな台詞はとっくに聞き飽きているとでも言うように。「少しな」

店主は、舌打ちをして、頷いた。「いいだろう。何が欲しい」

第二関門を突破した俺は、初めてパリを訪れたときのことを思い出していた。幼く無垢な頃の俺は、毎回この時点で、二つの関門を突破した達成感に酔いしれて顔の筋肉を緩め、安堵のため息を吐いて、店主のご機嫌を損ねるというミスを犯していた。一体全体なにを間違えたのかと首を傾げながら、手ぶらでブーランジェリーを後にしたことは、一度や二度だけではない。このミスは中級者に近づきつつある初心者にありがちなものであり、つまりは、このミスを回避しさえすれば、中級者に上がり、パリ中のどのブーランジェリーでも、店主から散々不愉快にさせられてから問題なくパンを買うことができる。俺は、相変わらずの無表情で、ガラスケースの向こうにあるパンを指さした。「クロワッサンを3つと、バゲットを1つ頼む」ここで自分の欲望に従い、焼き立てほやほやの芳醇なバターの香り漂うパン生地に、とろーりととろけた濃厚なチョコレートの挟まったパン・オ・ショコラや、ジュージーな鶏肉やラム肉や牛肉と瑞々しいキャベツとレタスの挟まったサンドウィッチなどというブービートラップを踏み抜こうものなら、このブーランジェリーには二度と足を踏み入れることができないだろう。

店主は頷いた。「いいだろう。3ユーロだ」

「だからフランスは好きだ。ヴェネツィアのバールじゃ、手の平サイズのスコーンが3.5ユーロもした」

店主はにこりともしなかったが、その目は、少しだけ暖かくなったような気がした。

と言っても、真冬の南極と真冬のスヴァールバル諸島を比べるようなものだが。

俺は、カウンターに5ユーロを載せた。「お釣りはいいよ。チップだ。代わりに、クロワッサンを紙袋に入れてもらってもいいか」

「いいだろう。バゲットは脇に挟んで持って帰れよ。それがパリ式だ」

「いいだろう」

店主は小さく微笑んだ。「まいど。午後も来ていいぜ」

俺は頷いた。「いいだろう。良い1日を」

「そっちもな」

「いいだろう」

「あぁ、こっちこそいいだろう」

「いやいや、それならこっちこそいいだろう」

俺と店主は、声をあげて笑い合い、再会の約束をし、お互いに対して良い一日を、と、幸福を祈りあいながら、手を振り合って、別れた。

ダンジョンでの戦いを終えて部屋に戻ると、パオラは起きているようだった。

シャワールームから音がする。

「帰ったよ。クロワッサンとバゲットもな」

「ありがと、先に食べてて」

「いいだろう」

パオラは、シャワーカーテンから顔を覗かせた。「何、その言い方」

「下のブーランジェリーのご主人が変人なんだ」

「言い方が移ったってわけね。がき」

「ぼくちゃん面白いことすぐマネしちゃうの」

「のぞいたらおしおき」パオラは笑いながらシャワーカーテンの向こうに引っ込んでいった。

俺は、戦利品のバゲットを縦に半分に切り、バターを塗りながら、朝食の用意を進めようとしたが、頭の中で、パオラからどんなおしおきされるのかなーということばかりが頭に浮かんでしまって、手元に集中できなかった。

気がつけばバゲットはバターまみれだった。


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