2日目 5:00〜6:00 ローラの静かな朝
5:00
ランニングから戻ったローラは、ランニングウェアとその下に着ていた古着のパンツスーツとフォーマルスニーカーを脱ぎ、今朝2度目のシャワーを浴び、ボディソープで体を洗い、新品のパンツスーツに着替えて、キッチンに立って世界的に飲まれているフランス産のミネラルウォーターを飲んだ。
このアパルトマンは、景観保護のためのマルロー法やフュゾー規制が生まれる前のもので、ローラの部屋はその屋上にあり、そこよりも高い場所はエッフェル塔やラ・デファンスくらいのものだ。
バルコニーである屋上を除けば、占有している空間は2.4m×1.8m×3m。
ロフト下部の一部にはケースタイプのバスルームが収まっており、サイズは1.2m×1.2m×1.8m。
75cm四方のシャワールームと、そのそばにはトイレと洗面台が設置されている。
ローラの身長は174cmだったが、肩幅が狭く、ほっそりとしていたので、スペースには最低限のゆとりがあった。
クローゼットやシンクやIHコンロやミニ冷蔵庫は、それなりに広い屋上にそのまま置かれていて、屋上はそのままリビングになっており、屋根はない。
電源は、モバイルタイプのコンパクトなソーラーパネルが数個とソーラーパネル付きの大容量モバイルバッテリーだけ。
調理台としても使っているダイニングテーブルでコーヒーを淹れ、それを飲みながら、人差し指を中指を立てた右手を振るう。
食器棚と冷蔵庫が開いた。
開いた手の平を振るう。
ボウルが2つ、食器棚から飛び出してダイニングテーブルに乗った。
冷蔵庫から、レタスとニンジンとオレンジ色のパプリカと黄色のパプリカとグレープフルーツとキウイとモモが飛び出して宙に浮き、二本のキッチンナイフが宙を舞い、それぞれのボウルの上で野菜と果物を切り始めた。
あっという間に、サラダボウルとフルーツボウルが出来上がった。
コーヒーを啜りながら、トルティーヤチップスをシャイカーで砕いて器に盛り、ニワトリの一家が住む小屋に向かい、一家に挨拶をして、小屋から2m離れたところに器を置いた。
一家が小屋から飛び出し、朝食を食べ始めた隙を突き、ローラは卵を回収した。
卵を一つボウルに落とし、残りは冷蔵庫に入れておく。
ニワトリたちの朝食と大好物のオムレツばかりは、自分の手で作ることに決めていた。
空気を混ぜるようにして卵をかき混ぜ、ボウルの上でラムソーセージを細かく切り、更にかき混ぜる。
生地をフライパンに乗せ、卵が膨らみ始めたところで、ひっくり返し、反対の面を軽く焼いて、皿に盛る。
オムレツは、ラメールプラールにも負けないくらいふんわりしていた。
ローラは、もう一度手の平を振った。
サラダボウルとフルーツボウルが、ダイニングテーブルからセンターテーブルに移った。
ラムソーセージの混ざったオムレツと、ナイフとフォークを手に、リビングスペースに向かう。
腕を振るい、自分のような魔法使いにだけ許された神秘的な力を持ってして、リクライニングチェアの上にあった人型の喋るオブジェを払い除ける。
リクライニングチェアに座り、90年代のラジオをつけて、朝のニュースを聴きながら、学生の頃から使っている安物の携帯電話でメールのチェックをする。
インターン先の上司からメールが来ていた。
いつも通り、10時ちょうどに出社すればいいらしい。
食事を終えたローラは、腕を振るい、魔法に食器の片付けを任せた。
屋上の縁の柵に体を預ける。
フランス産のタバコのジタンを一本咥え、指を弾いた。
指先から伸びた火でタバコの先を炙った。
指をひょいっ、と振ると、ローラの指先から伸びる火は消えた。
タバコの煙を吐き、夜明け前の、真っ暗な、美しい秋のパリの街を見下ろす。
日の出までは、まだ時間があった。
あちらこちらには、柔らかな街灯の明かりが見えた。
この景色を見ていると、まるで美しい星空の中にいるような気分になれる。
風のない、晴天の日の山中の湖の水面のように、静かで、ゆったりとした時間。
自分にだけ許された景色。
この景色は、自分だけのものだった。
暖かいオムレツとコーヒーを口にしたばかりだったが、少し肌寒かった。
ローラは、ミニクローゼットを開け、秋用のフェルトコートに身を包むと、再び、パリの街に舞い降りた。
大切な朝のルーティーンをこなしている最中、居候のタキシードぼうやが、何か泣き言のようなことをピーピーとひっきりなしに言っていたような気がするが、ローラの耳には聞こえなかった。