1日目 7:00(イギリス時間)〜9:00(フランス時間) ウォータールー駅 → パリ北駅
7:00(イギリス時間)
スコットは、ウォータールー駅の大時計の下に立っていた。
彼の胸は弾んでいた。
今日は、これから人生初のデートだ。
幼稚園の頃から一緒に過ごしてきた幼馴染みたちに先を越されるのを横目で見ながら、嫉妬の炎に燃えて腕立て伏せや腹筋をしたこの16年間の努力が、ようやく報われる時を迎えたのだ。
年齢イコールデートしたことない歴を積み重ね、嫉妬に身を焦がしていた屈辱的でみじめな日々も、今日で終わる。
今朝は、歯茎から血が滲むほどマウスウォッシュにはげみ、髭を剃り、髪をワックスで整え、ボディフレグランスをこれでもかと振り掛け、手足の指の爪を切り、ミントタブレットを3ケースも大人買いし、1ケースは口の中で噛み砕き、1ケースは錠剤のように水で飲み下し、最後のケースは非常用として、ポケットに入れた。
女性から誘われたことがないどころか、女性を誘う勇気も、ダンスのオリエンテーションの時間以外では女性と手を繋いだこともないスコットは、デートの前日、つまりは昨日の昼ごろ、5年も部屋で飼っていたブタを金槌で砕いた。
ブタは大量のコインや紙幣を妊娠しており、帝王砕開によって取り出された子供たちの重量の合計は2kgほどで、どれもこれも未成熟児だったが、結果的に財布には未だかつてないほどの大金が転がり込むこととなったので、ブタの貯金箱を失った喪失感とは3秒でバイバイできた。
○ルフローレンに足を運び、大金と引き換えにマネキンを裸にして、ラ○フローレンの歩く広告塔になりながら、このブランド服、自分に似合っているかな……、と、周囲の目を気にしながら家に帰った。
彼が日常的に着ているものは、H○Mや○araだった。
そして、今日は、決戦の日だ。
《初めてのデートを迎えた君へ……》、というブログのあらゆる記事を、それぞれ十回以上は読み返し、どうやら清潔感が大事らしいということを学んだスコットの準備は万全だった。
今は約束の時間の2時間前だったが、早すぎて困るということはないだろう。
ここは、待ち合わせ場所のウォータールー駅。
ちょっと早く来すぎたかな……。
手持ち無沙汰なスコットは、大時計の下から離れることにした。
気のせいか、先ほどから、警官から遠巻きに睨まれている気がしたのだ。
右を見ても左を見ても背後を見ても、30mほど離れたところに立つ警官と目があったし、そばを通り過ぎていく通行人たちからは睨まれたりもした。
通行人たちの顔に見覚えはなかったので、個人的な恨みを買っているという線は考えにくい。
恐らくは、私服警官だろう。
スコットは、そんなに自分の服装は変なのだろうかと思いながら、相変わらず30mほど離れたところから、顎を上げて見下すような感じでこちらを睨みつけてくる警官の脇を素知らぬ顔で通り過ぎると、電光掲示板に向かった。
彼は、運行スケジュール表を見上げて首を傾げた。
おや、パリ行きの電車がないぞ❓
スコットは、デート相手であり幼馴染でもある3歳年下のカナダ人の女の子、リサに電話をかけようとしてスマートフォンを見たが、バッテリーが切れていたので公衆電話を使うことにした。
このご時世で、そして、こんな状況で公衆電話を使うのは危険だ。
なぜなら、今まで観てきた数十作のアクション映画の登場人物たちは、まるでカメラの外でリハーサルをして口裏合わせでもしているかのように、公衆電話を盗聴するには骨が折れる、と口を揃えて言っていたし、今はヨーロッパ全土でテロが頻発しているし、相変わらず警官たちはこちらを威圧するような目でこちらを睨みつけていたからだ。
つまり、警官たちから、監視に気がついたテロリスト(スコット)が、仲間に連絡を取ろうとしていると勘違いされるリスクが高まるのだ。
しかし、スコットは自分が危険人物などではないということを自分で知っていたし、デート相手との情報の共有は、ありもしない誤解を招くことを回避すること以上に優先される。
スコットは、デート相手であるリサについて、大切な友人以上に思ってはいなかったが、誘ってきたのはあちらだったし、初めてのキスやセックスを済ませることができるなら、もうなんかなんだっていい気がした。
この機会に飛びつかないわけにはいかないし、このチャンスを大切にしないわけにはいかない。
「リサ❓」
『スコット。旅行の準備はできた❓』
「ああ。あのさ、今、ウォータールー駅にいるんだけど、パリ行きの電車が見当たらないんだよね」
『え、まだ7時よ❓ もう来てるの❓』
「待ちきれなくて」
『そうなんだ』リサは、いつも通りの無感情な声で言った。その声からは、自分とのデートを待ち切れない様子のイギリス人のおにいさんが可愛いとかなんとか、そんな感じのことを思っているような様子は、これっぽっちも感じられなかった。恐らく受話器の向こうには、いつも通りのあの可愛くてたまらない無表情があるはずだ。『ちょこっとカンタベリー大聖堂のほうに行こうかなって思ってたんだけどな……』
「良いんじゃないか❓ 待ってるよ。ただ……、ほら、チケット用意してくれたのってきみだろう。時間は合ってるのかな。きみのことだから、俺をハメて遠くからニヤニヤ撮影してるってことはないと思うけど」
『え、スコット、学校でいじめられてるの❓」
「いや、ネットで、そういう目に遭ったっていう話をよく見るから」
『そんなことしないから大丈夫。今、ヒースロー空港にいるの」
「あと2時間だぜ❓ 間に合うのかよ」
『間に合うわ。幽霊になって空を飛んでいくから』受話器の向こうから、あー、という声が聞こえてきた。スコットは嫌な予感がした。『ウォータールー駅じゃないわね。列車が出るのはセント・パンクラス駅からだわ』
「セント・パンクラス❓」
『なんでウォータールーに行っちゃったの❓』
「いや、だって、海外行きの電車なんて乗ったことないし、きみは待ち合わせ場所を言わなかっただろう。ユーロスターに乗ってパリに行くとしか言わなかったし、ユーロスターって言ったらウォータールーって思うじゃんか」
受話器の向こうからため息が聞こえてきた。『そうね。言わなかったわたしが悪いわね。セント・パンクラスに9時ね』
「2時間前に言うなよな」スコットは皮肉たっぷりの声色で言った。
『てへ』
「……キュンときちゃった、可愛いからゆる、なんだよ切りやがった」スコットは、ため息を吐いた。
仕方がない。
チューブを乗り継いでセント・パンクラスにたどり着いたスコットは、2時間早く家を出ておいて良かった……、初めてのデートで遅刻するわけにはいかないもんな……、と思いながら、リサを待った。
リサが来るまで、まだ時間があったので、彼は花屋に向かい、リサの好きな花を買おうとしたが、リサの好きな花がたんぽぽかひまわりか忘れてしまったために、お約束のバラを30本買った。
デートにバラを用意するのは、夜が明ければ朝が来るくらい、チョコレートを食べれば太るくらい、ワーテルローの戦いが起こればフランスが負けるくらい、スコットの中では当然の常識だった。
その時、すぐそばに立っていた男性の下に、美しいブロンドの女性がやってきた。
男性はTシャツにデニムと、スコットの服装とはかけ離れた服装をしている。その上、バラの花束も持っていないにも関わらず、先ほどからスコットのそばに立ってウロウロしていたので、スコットはてっきりその男性を私服警官か何かだと思っていたのだけれど、どうやら勘違いだったようだ。
仲睦まじくキスを交わす2人を見て、スコットはほくそ笑んだ。
おいおい……、薔薇の花束も持ってこない男に抱きつくなんて、美しいブロンドのせいで魅力的な女性だと思ってしまったけれど、君はどうやら脳みその足りない女のようだな……、うちのリサの方がよっぽど可愛いし、賢くて魅力的だぜ……。
《初めてのデートを迎えた君へ……、ステップ51、待ち合わせ編》には、バラを何本用意するのがベストかとか、初めてのデートにはどんな花を持って行けばいいかなどは書いていなかったが、それは、ブログの運営者がデートをしたことのない妄想野郎だからだろう、と、その時にはもう、スコットは舞い上がりすぎていて自分でも何を考えているのか、よくわからなくなってしまっていた。
遠くにリサの姿を見たスコットは、胸を高鳴らせた。
リサとは、13の頃、ケベックを留学で訪れた時からの付き合いだった。
リサはホームステイ先の長女で、当時はまだ10歳。
くすぐりあって笑い合ったものだった。
まったく……、3年も一緒にいたのに、リサの好意に気が付かないなんて、お前は馬鹿だな、スコット……、と、スコットはほくそ笑んだ。
8:00
2ヶ月ぶりに見るリサは、相変わらず、クールな無表情だった。
リサは、スコットの服装を見て、首を傾げた。
それもそうだろう、スコットはバラの花束を持っている上に、有名ブランド店で買った、新品のタキシードを着ていたのだ。
蝶ネクタイの結び方をネットで調べて、30分かけてようやく首に巻くことができたのだ。
スコット自身も、先日店に行くまで、あの有名ブランド店がタキシードを扱っていることを知らなかった。
リサが、スコットの本気具合に面食らって戸惑い、首を傾げるのも当然のことだった。
無表情のリサは、口を開いた。
「なんで、花束なんか持ってるの❓」
その声色は、どこまでも平坦で、ともすれば残酷なまでの冷酷さを感じられるほどに無感情だった。
表情を見てみても、単純に素朴な疑問が頭に浮かんだから尋ねただけ、という感じだった。
スコットは、顔を真っ赤にして、口を開いた。「え❓」
「それに、そのタキシードはなに❓」
見れば、リサの服装は、カジュアルなワンピースにカジュアルなジャケット、そしてブーツ。
おしゃれはおしゃれだったが、これでは、1人で気合の入っている自分が馬鹿みたいだ、そう憤ったスコットだったが、この時の彼は馬鹿みたいなのではなく間違いなく反論の余地もないほどの馬鹿だったし、この2日間、舞い上がりすぎて冷静な思考能力と判断能力を失っていた彼の口から出てくるのは、テレビの中ではしゃぎまわるマペットのような裏返った声だけだった。「イや、ラルフロー○ンで買ったんだ」
「いつ買ったの❓」
「昨日」
「なんで買ったの❓」
「え、だって、デー……」そのとき気がついた。リサは、一言も、デートだとは言わなかった。他にも、キスとか、バラとか、ディナーとか、花束とか、ノルマンディー上陸作戦記念碑のそばでドーバー海峡に沈む夕陽を一緒に見ましょうだとか、そういったロマンチックなことは、一言も言っていなかった。
「デー❓」
「……デイズ・オブ・タキシードなんだ」
リサは首を傾げた。「デイズ・オブ・タキシード❓」
「そうダよ」スコットは、裏返る声で言いながら、力強く頷いた。「父さんの生まれた街は変わっててね、男子は毎年、秋が始まる週の日曜日から2週間後の土曜日まではタキシードを着るのが伝統なんだ。正直言うと、俺もこんな堅苦しい服を着たくはないんだけどね。でも、この伝統を守らないと、村から追放されて二度とおじいちゃんとおばあちゃんに会えなくなっちゃうんだ。2人とも歳で、ロンドンまで来るのはきつい。俺が行けなくなったら、2人は、孫の顔を一生見れないんだ」
リサは、その霞のかかったようなグレーの目でスコットを見据え、数秒ほど何かを考えていたようだが、最終的に、どうでも良さそうに肩を竦めた。「まあ、どうでも良いけどね」その無感情な言葉の通り、リサはスコットの着ている新品のタキシードのことなど、心底どうでも良さそうな無表情を浮かべていた。
「そうだよ。人の事情に、あんまり首突っ込んでこないでよね。プライバシーなんだからねっ」
リサは小さく笑った。「ゲイみたい。言い方」
その言葉が、スコットの胸に突き刺さった。「ぐさっ」なんだかお家に帰りたくなってしまったスコットは、リサの目を見ることが辛くなってしまったので、電光掲示板を見た。
「スコット」
「なんだよ」
「ブログ書いてたよね」
スコットは頷いた。「このタキシードも、そのブログに来てくれる人たちのおかげで買えたんだ」
「似合ってる」
「やめろ」
「ほんとだよ」
「やめて。泣く」
見ると、リサはニヤニヤしていた。
スコットは、そのリサの珍しい表情に胸が暖かくなるのを感じながら、ニヤついて、リサの肩を小突いた。「なんでパリに誘ったんだよ」
リサは、リュックサックから、輪ゴムで丸めたA4サイズの紙の束を取り出し、スコットに渡した。
スコットは、その紙に目を通して、驚いたように目を見開くと、リサを見た。「俺も魔法使いに生まれたかった」
リサは肩を竦めた。「楽しいわよ。あなたはなんで魔法使いじゃないの」
「なんでなんだろうね。神様に訊いてくれるかな」
ユーロスターの車両がホームに滑り込んできた。
ホームに立つ2人は、ドアのそばに立ち、乗車準備が整うのを待った。
「ところで、その花は何❓」リサは、スコットの手の中にある花束を指差した。
「これ❓ これはー……、アレだよ」
開いたドアの向こうから、制服に身を包んだ老齢の女性が降りてきた。
「パリまでの旅路を支えてくれる車掌さんたちへのプレゼントだよ。リサも一本欲しいかい❓」
リサはコクリと頷いた。「一本だけね」
スコットは、花束からバラを一本取り、リサに手渡した。
リサは、薔薇の香りを嗅ぎ、控えめな笑顔を浮かべた。「ありがと、スコット」
スコットは顔を真っ赤にしながら肩を竦めた。「良いさ。行こう」
リサはバラに笑顔を向けながら頷いた。
「これどうぞ」スコットは、バラの花束を、ドアのそばに立つ、制服に身を包んだ老齢の女性に差し出した。
女性は、にっこりと、温かい笑顔を浮かべた。「あら〜、ありがとっ。でも、せっかくだけどお客さんからこういうのは受け取っちゃいけないのよ。40年連れ添った夫もいるしね」女性は、何がおかしいのか、ぐぁっはっは、と豪快な、野太い笑い声を上げた。
この過剰に分泌されている男性ホルモンから察するに、おそらく、この人は更年期なのだろうと、スコットは思った。
スコットとリサは、その女性にチケットを見せると、電車に乗り込み、窓際の席に向かい合って座った。
「この花どうしよう……」
困ったように言うスコットの手から、リサはバラの花を4本取った。「もらうわ」
「けちけちしないで、全部もらってくれよ」
「みんなに配れば❓」リサは、人差し指を立てた右手をくるくると回した。
スコットは、尻を浮かして、周囲を見渡した。「花売りみたいにか❓ ああいうのは、労働者階級がやるものだぜ。俺はこれでもノーブルなんだ」
「そう❓ わたしは素敵な仕事だと思うけどな。その仕事を素敵だと思ったなら、身分や階級なんて気にしないで、なんでもやるべきだと思う」
スコットは、ため息を吐いて、座席から立ち上がった。
花を受け取ってくれそう、つまりは、自分の魅力を持ってして母性本能を刺激できる可能性のありそうな、40歳を迎えて結婚や子供を諦めることを考え始めていそうなおばさんたちを狙って声をかけたことが功をそうしたのか、花束は、見る見るうちに、乗客たちの手に渡って行った。
花を買ってくれたのは、スコットが声をかけてきた本当の理由を知ったら殴りかかってきそうな、キャリアウーマン風の女性とその3人の同僚や、同性愛者っぽい男性や、訳もわからずに花を受け取ってしまったアジア系観光客などをはじめとした、似たような特徴を持つ乗客たちがほとんどで、例外は新婚旅行でパリに向かうという、ウェールズ人のカップルくらいだった。
「あら……、坊や……、イートン校の子かい……❓」そう言ってきたのは、優しそうな、90歳くらいの老齢の女性だった。
「スコット−ジェームズ・ジョンソンです。バラの生産で財をなしたジョンソン家と言えば、聞き覚えがありますでしょうか」スコットにミドルネームはなかったし、苗字はジョンソンじゃなかったし、スコットは由緒正しきイートン校の敷居を跨いだことがないどころか、その外観を肉眼で見たことすらなかったが、恥ずかしさのあまり、頭に血が上って顔が真っ赤になっていた彼は、相手の勘違いに対して、全力のテキトーさで応えることにした。
「知らないわねぇ……」と、優しく微笑む老齢の女性。
「なんてことだ。我がジョンソン家もまだまだですな。我が家の庭で採れたバラでございます。よろしければ、一本いかがですか❓」
「あらぁ……、折角だから頂こうかねぇ……」老齢の女性は、隣に立つ老齢の男性に笑顔を向けた。「おじいさん……、あなたも一本いかがですか……❓」
老齢の男性は、新聞を読みながら、肩を竦めた。「きみが私の腕にバラを突き刺すまでは好きだったんだがね。今は匂いを嗅ぐことすら恐ろしくて仕方がないよ」皮肉たっぷりに言う老齢の男性。人生の半分以上を共に連れ添ったであろう伴侶を見ようともしない。バラの件をずいぶんと根に持っているようだ。
「懐かしいですねぇ……」笑顔のままのおばあさんは、その暖かい目を、猫のように細めた。「アレはもう40年も前のことですね……」
なんだか背筋がゾワっとするような声だ、と、スコットは思った。
そして、そう思ったのはスコットだけでなく、老齢の男性も同じのようだった。
明るいカーキの生地にチェック柄のハンティング帽、鼻の下に生い茂る白い髭の男性は、はっ、とした目で、窓際に座る老齢の女性を見た。
その様はまるで、自分がどうして腕にバラを突き刺されて病院に駆け込んで10針も縫うことになったのかを思い出したかのようだった。
老齢の女性は、暖かい笑顔を老齢の男性に向けた後、スコットを一瞥した。
一瞬だけ、老齢の女性と目が合ってしまったスコットは、なんだか怖くなってしまったので、そそくさとその場を離れた。
背後から、なんだか不穏な会話が聞こえてくる。
「ば、ばあさんや……」
「あなたがパブのウェイトレスを押し倒したりなんかするもんだから……、あらあら……、やですねぇ……、思い出したらまたむしゃくしゃしてきてしまいました……、わたしももう若くないのに……」
スコットは、その会話を無視しながら、バラを配り続けた。
バラが全て無くなると、スコットは、札束を持ってリサの元に帰った。
「どうしたのそのお金」
「新婚夫婦がいて、全部買い取ってくれたんだ。他にも、乗客が何人か。バラ代が帰ってきたどころか、昼食代まで手に入っちゃったよ。俺って商才あるかも」
リサは肩を竦めた。
「食堂車に行こうぜ」
リサとともに席を立ったスコットは、先ほどの老齢の男性から、「バ、バラを全部買い取るから、席を交換してくれないか」と、言われた。
その席に漂う不穏な空気の正体に気がつかないスコットは、きょとんとした顔で、なんでここにくると肌がピリピリするんだろうと不思議に思いながら、残念そうな顔をした。「すみません。バラはもう全部売り切れちゃったんです」
老齢の男性は、たった今目の前の少年から《あなたはバラを腕に突き刺される未来を大人しく受け入れてください》とでも言われかのように青ざめた顔をした。
その顔があまりにも真っ青だったので、ああ、このご老人は気分が悪いんだな……、年取ると大変だよな、足腰は痛むし、ケツは火照るし……、と、自分の祖父を思い浮かべたスコットは、慈愛に溢れた笑顔を浮かべた。「でも、ぼくたちは食堂車に移るので、戻るまででよろしければどうぞ」言った。
老齢の男性は、まるで神の救いを見たかのような顔で、あるいは目の前に立つ少年の背後に後光を見たかのような目でスコットを見上げると、握手を求めてきた。
大袈裟だなぁ、と思いながら、ふと、老齢の女性の方を見ると、その品の良さそうな老齢の女性は、スコットに意味ありげな笑顔を向けた。
その笑顔がなんだか怖かったので、スコットは、リサの肩を叩いて、そそくさとその場を離れることにした。
「なんなのあのおじいさん」と、訊ねてくるリサ。
「さあ」スコットは肩を竦めた。「窓際に座りたいんだろ」
スコットはステーキとブドウジュースを注文し、リサは豆腐ステーキを3皿も注文した。
早めのランチを食べながら、スコットは、リサに、自分をパリに誘った理由を尋ねた。
リサは、現在、パリで起こっている事件についての詳細を話してくれた。
それを聞いたスコットの目が変わった。
背もたれに寄りかかり、指を立てて店員を呼び止めた。
ビールを飲みたいと言うと、同じくイギリス人であるウェイターは理解を示してくれた。
ビールのグラスが二つ置かれた。
スコットは、リサと乾杯をした。
デートじゃないのは残念だが、面白そうな香りがした。
食事を終えて、席に戻ると、老齢の男性が、喉笛からバラの花を生やして事切れていた……、などと言うことはなかったが、車両の全員がバラを持っていることに不信感を抱いた私服警官から、簡易的な事情聴取を受けた。
どこの訛りとも判断のつかない英語を喋る私服警官は、バラに偽装した爆弾か何かをスコットが持ち込んだと勘違いしたらしい。
「失礼ですがアメリカ人ですか❓」スコットは、私服警官に尋ねた。
私服警官の彼は、笑顔を浮かべて首を横に振った。「スコットランド人だ。幼い頃にヒューストンで過ごしたんだ。ガンアクションは俺のバイブルだぜ」そう言われると、彼のイギリス英語には、テキサス訛りがあるように思えた。
そういったハプニングの後、パリ北駅に到着したスコットとリサは、そこにいたパリ市警の新人刑事と共に、パリ市警察庁舎に向かった。