4日目 19:00〜20:00 初めて出会った有名人は、鼻を垂らして啜り泣く16歳のイギリス人の男の子だった
19:00
スコットは、アパルトマンの屋上にいた。
彼は今、止むを得ず、あの忌々しいタキシードを着ていた。
こちらで買った服を洗って乾かしていたし、新しい服を買うのを忘れていたのだ。
そばには、パリ市警のローラ捜査官と、顧問探偵のハリエット、そして、友人のリサがいる。
現在、スコットの顔はパリ中のゴシップ誌愛読者に知れ渡っていた。
その後、昨日と今朝とでパリ中を歩き回り、自分の知名度を確認し、スコットがパリにいるという噂を広げることで、彼の仕事は終わった。
あとは、事件が収束するまで、この屋上で過ごすだけだ。
ハリエット、ローラ、ラシェル、そしてリサの話によると、事件の収束には、それほど時間はかからないということだった。
明日、明後日のうちに片付くらしい。
その後は、自分はどうしようか……。
リサと一緒にパリをまわってみたい。
友達としてだ。
スコットは、色々と考えて、舞い上がっていた自分を反省した。
大事な友人に対して、欲望を向けるなど、自分勝手で下劣もいいところだ。
ましてや、リサは13歳だ。
自分が13の頃、それは、それほど昔のことではなく、思い出すこともたやすい。
例えば、自分が13の頃に、ハリエットやローラから誘われたら、どう思うだろう。
……。
まあ、自分は男だし。
スコットは、瓶に入ったクローネンブルグをグラスに注ぎ、ビールをごくごくと飲み下した。
街に出て、マルシェで買い物をすれば、商品の向こうに立ついくつかの人がスコットに気が付き、サービスをしてくれた。
サービスされたものの中にはビールやワインや上質なチーズなどもあった。
しばらく下に降りられないのが残念だった。
「スコット」
振り返ると、リサは、スコットのすぐ後ろに立っていた。
この友人は、いつも気配を消して、後ろから声をかけてくる。
「よう、リサ。犯人は捕まえたか❓」
リサは首を横に振った。「聞きたいんだけど」
「なんだよ」
「あんた童貞❓」
スコットの顔が、見る見るうちに赤くなる。「なんだって❓」
「セックスしたことある❓」
スコットは、言葉を探しながらリサを見上げた。
言葉の見つからなかったスコットの口からは、困惑の笑いが漏れた。「そういうきみはどうなんだ」
リサは首を横に振った。「ないわ。興味ないし」
「じゃあ、なんでそんなこと訊いてきたんだ」
「ハリエットとローラが、スコットのこと、童貞なんじゃないかって言って笑ってたから」
スコットは、体を捻って、後ろを見た。
ハリエットとローラは、屋上の隅でタバコを吸っていた。
視線に気がついたハリエットは、スコットを見て、ニヤニヤとすると、ワインを持った手でローラの腕を小突いた。
ローラは、スコットを見ると、ハリエットと同じように、ニヤニヤした。
2人は、スコットを見てニヤニヤしながら、ひそひそ話を始めた。
目に涙が浮かんだスコットは、グラスを持ち上げて、屋上から逃げるように、階段を下り、アパルトマンの中に入った。
「あ、すみません」屋上に続く階段を登ろうとすると、上から降りてきた人と、踊り場で鉢合わせ、サッカーのフェイントを掛け合う形になってしまった。
捜査関係者だろうか、と思いながら、相手の顔を見てみると、なんだか見覚えのある顔だった。
どこで見たんだったか。
相手は、思いの外若かった。
俺よりも若い。
たぶん、二つ三つ年下だ。
……なんでこいつ、顔真っ赤にして泣いてんだ。
「きみ、大丈夫か❓ ……あれ❓」
男の子は、俺を見て、首を傾げた。
先日、リサちゃんが俺の首を、そのかっこいい死神の大鎌で切り落とす前だか後だったか、彼女は、スコットという名前を口にしていた。
「きみ、スコット❓」
男の子は、涙を拭った。「……そちらは❓」
「屋上にいる人たちの知り合いだよ。保護されてるんだ。新聞読んだぜ。素晴らしい記事だった」
「ありがとう」スコットくんは、鼻を啜った。「……保護❓」
俺は肩を竦めた。「偶然、悪いタイミングで悪い場所にいたんだ」
スコットくんは頷いた。「ハリエットもローラもリサも上にいるよ」
「そうか。なんだ、喧嘩したのか❓」
「へ❓」
「泣いてるから」
スコットくんは、再び溢れそうになっていた涙を、タキシードの袖で拭った。「女は意地悪だ……」
俺は、頷きながら、スコットくんの肩甲骨の辺りをぽん、と叩いた。「わかるよ」さりげなく、肩甲骨の辺りを押して、スコットくんを屋上にエスコートする。スコットくんは、パリ中に顔が知れ渡っている。当然、パリ裂きジャックも、彼の顔を知っているだろう。このまま1人でパリの街に降りるのは危険だ。「俺がついてるから、みんなと仲直りしような」
スコットくんは鼻をすすった。「……うん」
屋上までは、まだ10秒くらいあった。
10秒間の沈黙は、なんだか辛い。
人と一緒にいるときは、沈黙を恐れて、くだらないことをぺちゃくちゃ喋ってしまうのが、俺の欠点だった。
俺は、話題を探して、スコットを見た。
そういえば、こいつ、なんでタキシード着てんだ。
「出版社のパーティにでも出席するのか❓」
スコットくんは、俺を見た。
「良いタキシードだ。……ラルフロ○レン❓ あのブランド、タキシードも作ってたんだな」
スコットくんは、屋上へのドアの前で立ち止まり、鼻を啜った。
再び、彼の目に涙が浮かんでくる。「……女の子に、パリに誘われたんだ」
俺は口笛を吹いた。「いいじゃん」
「デートだと思うじゃんか……」
「ああ」そっか、違ったんだね……。
「違ったんだ……」堪えきれずに、声をあげて泣き出すスコットくん。
俺は、スコットくんを抱きしめ、背中をポンポンした。
屋上に続くドアが開き、そこから、リサちゃんが顔を覗かせた。
リサちゃんは、見ちゃマズいもの見ちゃったな……、という感じの顔で、そっとドアを閉めた。
美少女だが無表情なリサちゃんの些細な表情の変化が見れたのでなんだか胸がキュンキュンしたが、泣いてる男の子を抱きしめているこの状況とあっては、俺の自律神経と副交感神経には、俺の許可なく勝手にときめいたりなんかせず、大人しくしていて欲しかった。