4日目 17:00〜18:00 愛おしいパリの人々とともに、愛おしいパリの人々のようにカフェで妄想に浸る
17:00
俺は、アパルトマンのそばのカフェに入った。
このカフェのウェイターも、他のカフェのウェイターと同じように、眉間にシワを寄せている。
パリ市が作成した接客マニュアルには、客を睨みつけてチップを差し出すように仕向けろとでも書いてあるのだろう。
「アン・クレーム、ステークアシェ、シェーヴル・ショー、カラフ・ド・ロー、シルブプレ」
オーダーを取ったウェイターは、舌打ちをして、店の奥に引っ込んでいった。
俺がフランス語を扱えるのが気に食わなかったのだろう。
俺は、はー、やれやれ、と首を振り、タバコを咥えた。
指を弾き、人差し指の先にマッチサイズの火を起こす。
タバコの先に火をつけ、指を振って火を消す。
子供の頃は、魔法を制御できずに指先から立ち上る火にいちいち怯えていたが、今となっては慣れたものだった。
今なら、火を起こす以上のことだってできる。
ふと、爪先が何か、柔らかいものを蹴った。
テーブルの下を見てみれば、そこには、革製の新聞入れがあった。
新聞を取った。
フランス語の新聞。
今日のものだ。
俺は、新聞を流し読みして、ペラペラとめくった。
クロスワードパズルには、すでに手が加えられていた。
懸賞の応募欄は既に切り取られている。
アメリカは自由の国らしいが、パリの人間もかなり自由に生きている。
ふと、視界に電話ボックスがあることに気がついた。
それと同時に、そういえば、以前目にしたテレビ番組によると、パリの電話ボックスには、電話帳がないらしいのだということを思い出した。
椅子に腰掛けたまま電話ボックスを見てみると、たしかに電話帳は見当たらなかったし、更に言えば、受話器の奴も自力でコードを引きちぎった痕跡を残して職場放棄していたし、電話機の一部分が外側からこじ開けられていたために脱出する機会を得た小銭たちは、ビバ・ラ・フランスっ! と雄叫びを上げながら、小銭泥棒という名の神の使いによって与えられた自由を謳歌するべくそのポケットに潜り込んでパリの街に消えて行ったようだし、受話器と小銭を持って行った犯人は、財布に入りきらないほどの小銭のお礼に、その床にメルドをしたらしい。
こういうのもいいよね、おしゃれなパリではあれがマナーなんだよね、などと、パリにかぶれ、異文化を学んだことでまた一つ成長を遂げた自分を土産に、祖国に帰って同じことをするようなバカが生まれないことを祈るばかりだ、などと、俺は、冗談まじりに考えながらほくそ笑んだ。
ふと、新聞のゴシップ欄が目に留まった。
パリの切り裂きジャック、パリ裂きジャックを取り上げているようだった。
筆者のスコットというイギリス人の男性は、パリ市警に情報提供者がいるらしい。
一般人以上にその事件の全容を知り得る立場にあるらしいスコットは、模倣犯が出ることを恐れてパリ市警が公表していない犯人の声明文を読んだらしい。
スコットはその声明文から、犯人は有名なシリアルキラー、切り裂きジャックを模倣していると断じており、祖国のカルチャーを盗作されたことは誠に遺憾であると述べた。
スコットは、《ーーもちろん、犯人もまた人間である以上、その者の持つ主義主張や意見は尊重されなくてはいけない。ーー》、と前置きをした上で、その後にこのようなことを書いていた。《ーーそれと同時に、私の主義主張や意見も尊重していただきたい。ジャック・ザ・パリッパーは、ーー》
スコットはパリの切り裂きジャックをそう呼んでいる。
《ーージャック・ザ・パリッパーは、昨今のダークヒーローに感化された独善者であり妄想狂である。加えて、現実と創作の違いもわかっていない頭の可哀想なジャック・ザ・パッパラパーであり、エンターテイメントが飽和したことでなにをして暇を潰したらいいかもわからなくなってしまった現代人の象徴であり、幼少期をYouTubeのおすすめ欄をスクロールすることだけに費やしてしまった為に共感性や社会性を培うことができないままミラーニューロンを一度も使わずに腐らせ大人になってしまった、ある意味時代の犠牲者であり、現代社会の生み出した闇であり、要するに拗らせたコミュ障である。ーー》
スコットは、パリの切り裂きジャックを、独自のユーモアをふんだんに用いて、猛烈にディスっていた。
「随分怒ってるな……、スコット」俺は呟いた。鏡を見なくても、自分がにやついてるのがわかった。
俺の前に、カフェオレとハンバーガーと羊のチーズと薄い板のようなパンの載ったサラダと、水道水の入った水差しと透明のグラスが並べられた。「メルシ」俺は、タバコの火を消し、ウェイターを見上げた。「この新聞もらってもいいかな」
ウェイターは、万面の笑みで、ノン、と言った。
俺は、いただいたカトラリーの籠からナイフを取り出してウェイターの喉笛を切り裂いてやりたい欲求に駆られたが、その唐突に湧き上がった黒い欲求を、大した努力もなしに押さえ込んだ。
「ボナペティ」と、言って、店の奥に引っ込むウェイター。
俺は、カフェオレを啜り、ソーサーに乗っていた一口サイズのチョコレートを口に入れた。
糖分とカフェインが血液に吸収され、頭に染み渡っていく感触が心地良い。
俺は、舌の上でとろけたチョコレートをカフェオレで流し込み、スコットの書いた記事の続きを見た。
彼は、《デイリー・スコット》というブログを運営しているらしい。
安物のスマホかタブレットを買ったら、早速そのサイトを訪れ、入り浸ってみよう。
記事には、スコットの経歴の概要と、顔写真が掲載されていた。
驚いたことに、スコットはまだ16歳のようだった。
スコットくんは、犯人を挑発することに余念がなく、写真の中の彼は、あの世界一有名な科学者を真似て、あっかんべーをしていた。
その顔からは、お調子者オーラがにじみ出ていて、挑発された当の本人でなくても、頭を小突いてやりたくなる衝動に駆られてしまいそうだ。
おそらく、学校ではさぞ人気があることだろう。
多分、友達にも、恋人にも恵まれ、隣町には友達が大勢いて、セフレとかもいるに違いない。
「あー……、くそっ」
俺は空を見上げた。
暗黒時代である、高校時代を思い出してしまった。
「メルド……」