耐久
生活の流れは、確かに変わった。
しかし、特別不自由を感じることはなかった。
祖母がいたからである。
俺の家は、2階に自分たち一家が暮らし、1階に祖父母が暮らす2世帯住宅となっている。
そのため、母がいなくなってからは、基本1階にいるという形で固まってきた。
父は相変わらず仕事が忙しいため、家にいる時間はあまりない。
それは以前と変わりなく、母がいなくなったからといって、一緒にいる機会が増えたわけではなかった。
祖父母は母方の両親なので、祖父母自身もまた、娘が突然いなくなったことに、多少なりともショックはあっただろう。
でもそれを表に出すことはなかった。
「ショックはあっただろう」というのも、何年か時が過ぎてからようやく気付いたものである。
というのも、当時の俺には、母がいなくなったというのはとても受け入れがたく、他人を気にする余裕なんて微塵もなかったからだ。
生真面目な性格をしていたので、そんな状態でも学校は休むことなく通った。
先生や友達にもかつてないほど心配され、気を遣わせてしまったように思う。
恐らく、あの日の父の顔のように、ひどい顔をしていたのだろう。
当時活発的で比較的明るい性格だったので、ひどく沈み哀愁漂う俺を見るのはクラスメイト全員が初めての状況で、どうしたらいいのかわからなかったと思う。
そんな状態でも学校に通い続けることができたのは、あの夜家族で話し合い決めたことがあるからだ。
_小学校卒業までは、こっちに住み続けること。
つまり、あと半年ほどはこの状況で生活を続け、小学校と中学校の間の春休み中に引っ越す、ということだった。
この家はあくまで母方の両親との住宅であり、母がいなくなった以上、父は言わば赤の他人なのだ。
そこで、春休み中に父方の実家近くのアパートに引っ越し、中学からはそちらで暮らす、というものが予定された。
_今となってみれば、こちらの家に残り、中学からも小学校の友達とやっていきたいと提案することも出来たのではないか、と思う。
当時の俺の発言の権力なんて大したものではなかったかも
しれないが、もしそうしていれば…と耽ってしまうことも多い。
話を戻そう。
そんな訳で、とにかく小学生の間はいつも通りの仲間や先生と過ごせることが決まった。
学年の人数が少ないため、クラスといっても数組あるわけではなく、5年以上ほぼ同じメンバーで過ごしていることになる。
そんな信頼のおける友達と、あと半年ちょっとしか一緒に過ごせないのだ。
休んでなどいられなかった。
母がいなくなったという寂しさや悲しさも相まって、友達と話す機会や遊ぶ機会は増えた。
心にぽっかりと空いた穴を埋めるように、友達ととにかく楽しく過ごした。
このときはまだ、長年共に過ごした仲間がいたからか、今も尚苦しんでいる病気になることはなかった。
中学からじわじわと、ソレは蝕んでくるのである…。