プロットなし、制限時間は約一時間、即興で書いてみる
思えば、彼は本当に優しいやつだったように思う。どんな時であっても彼は暴力は振るわなかったし、誰かに親切にしているところをよく見ることが多かった。例えば先生が運んでいる書類を見かけたら先生を手伝ったり、仲間外れにされている子がいたら必ず声をかけていた。
本当にいいやつだった。
そんな彼が突如教室で消えてしまった。今から10年ほど前の話だ。
今でも、昨日のことのように思い出す。
あまりの出来事にクラス中がパニックになったっけ。
あの日、お昼休みが終わり、ドッジボールをした後の汗ばんだ体を恨めしく思いながら、俺たちは席について教科書を開いていた。
ちょうど国語の授業中で、彼がごんぎつねを音読している最中に起きた出来事だったから、クラス全員彼の声に耳を傾けていたのだ。
「ごんはのび上がって見ました。兵十が、白いかみしもを付けて」
ハキハキと自信満々に喋る彼を先生は頷いて、自身が手に持っていた教科書を睨むように見つめていた。もうそろそろ引退する年頃だったので、老眼だったはずだ。だからあんなに顔を近づけて教科書を先生は読んでいた。
そんな先生もお構い無しに、彼はどんどんと読み進めていく。彼の後ろの席にいた俺は、ふと違和感を感じて前方に視線を向けた。
そこには、無数の文様で彩られ、青白く輝きを放つ、とても幻想的な円が彼の足元に広がっていた。クリスマスのイルミネーションのような電飾では断じてない。安心するようでいて、無機的な冷たい感覚があったのを記憶している。
そして、その円は彼をどこかへ連れ去ってしまったのだ。
「位はいをさげています。いつもは赤いさつまいもみたいな元気のいい顔が、今日はなんだかし」
彼の声がプツリと途切れてしまい、気づけばどこにも彼の姿はなかった。後に残ったのは青白い光の粒子だけだった。クラスメイトは四十人もいるにも関わらず、俺以外で彼が円の中に吸い込まれていったのをみたものはいなかった。
ちょうど彼の座席が窓際の後ろから二番目の席で、他の人たちからすれば見にくい位置だった。俺と彼は席が近かったから、仲もある程度は良かったはずだ。
彼が消えた時、俺は「あ」と呟くことしかできなかった。幾人かが俺の方を振り向き、俺の視線の先を見つめたが、そこにはもう音読をしていた彼はおらず、何人かが不思議そうな顔をする。ついさっきまでそこにいたのにも関わらずだ。
「おい、服部。急に喋るのをやめてどうしたんだ?」
教科書から顔をあげた老齢の教師は、最初は彼のいたずらだと思ったらしい。しかし、待てど暮らせど彼の姿は現れず、そして最後には学校全体で話し合いがなされるほどの大ごとになった。
まずは教師総動員の学校大捜索、その後すぐに警察への通報、そしてPTAへの報告、さらには保護者会の通知、全てが慌ただしく過ぎ去って結局彼は見つかることがなかった。
もちろん、俺は正直に話した。何しろまだ小学4年生で、クソガキオブクソガキの真っ最中。事態は緊迫していたので俺は教師や親に真実を伝える必要があると思い、勇気を出して発言したのだ。
「先生!はっちゃんはなんか丸い円に連れて行かれたんです!!」
「はぁああ?なに言ってんだタケル」
本当に呆れた顔で、何言ってんだこいつと言わんばかりの顔で教師はそう言った。
「本当なんですって!!」
「今は本当に忙しいんだ。冗談はやめろ」
どうして信じてくれないのだと怒りを抱えて帰宅して、そして母親にはっちゃんが消えていくところを見たと報告してみるも全く信じてもらえなかった。
今、大人になってわかった。
俺が言っていたのはサンタクロースがクリスマスにプレゼントを寄越してくれるとか、どこぞの湖に○ッシーが出たとかと同レベルの、空想の産物と思われても仕方がないことだったのだ。
はっちゃんが消えた日、俺はベッドで一人で横になり、豆球にしたほんのりとオレンジ色の電灯をみて泣いた。
多分、はっちゃんともう会えないことが悲しかったのだと思う。そして、もしかしたら次は自分の番かもと怖がった記憶もある。
だから俺はその日から一週間だけ、母親の布団の中に潜り込んで眠った。
今では懐かしく、悲しい思い出だ。
結局、はっちゃんは行方不明届が出されたまま帰ってこなかった。
なぜか引退間際の老齢の教師は辞めさせられた。
卒業アルバムには彼の名前と四年生の頃の彼の幼い写真が無理やり貼り付けられた。
それが、十歳の頃の出来事だった。
そして、今日、俺は成人式に出席する。
だから俺ははっちゃんのことを思い出したのかもしれない。
もう何年も顔を見ていないが年賀状だけは毎日出していた小学校の頃の友達二人と一緒に向かい、名前と顔だけしか知らない市長のハゲ頭を拝み、次に名前も顔も知らない地元出身の偉い人が壇上に上がった。
「みなさん、成人おめでとうございます。私から言えるのはただ一つ。本は読んだ方がいいということです。人生は一つの本となり得ます。私は何度そう思ったことか。このご時世、何があるかわかりません。この都市が突然ジャングルに覆われたり、異世界に辿り着いてしまったり、明日今隣にいる人がゾンビになっているかもしれません。⋯⋯おっと、祝いの席に変なことを言ってしまいましたね」
はははとそいつは笑ったが、祝いの席はしんと静まり返り、ガラの悪い連中の「つまんねーよ」というヤジがどこからともなく聞こえてきた。
「まぁそんな時に、本を読もうとは普通は考えないですよね。だから、読んだ方がいい。短い人生の中で、その本を読んだことにより、私たちが得ることのできる情報は役に立たないかもしれません。でも様々な出会いの中で、心温まるような話を時折思い出せば、あなたたちの人生はきっと良くなっていくはずです。そしてあなたたちの人生はやがて一冊の本となる。私は、成人したあなたたちの人生が続きの気になるような物語になって欲しいです⋯⋯」
面倒なことをいう人だなというのが俺の感想だ。本なんてもうそんなに読まなくなった。高校の時の授業で呼んだのが最後だろうか。
なんとなく、ごんぎつねの話を思い出した。
確か、恩返しにきたゴンは撃たれて死んだんだっけ。心温まるどころか、血も涙もない話だ。
はっちゃんがいなくなったあの日、彼はごんぎつねのエンドを知らずにいなくなったのか。
それならそれでよかったのかもしれない。
そう思う自分がいた。
成人式の帰りに友達二人と居酒屋に寄った。何しろもう成人だ。なんの憂いもなく飲める。
店の主人が今日成人式だったんなら、と生ビールを三杯奢ってくれた。グラスを鳴らし、乾杯し、舐めるように飲む。
どこまでも大人の味だ。まだ自分には早すぎる。
まだまだ自分は子どもなのだ。あの時からあんまり変わってないんじゃないだろうか。
十年前に消えた彼は、今出会ったところでもうわからないかもしれない。身長も伸びて、顔を大人びているに違いない。十年という月日は長いようであっという間なのだ。
だが、彼はどこか別の場所に行ったとしても、絶対に人助けをしているだろうとなんとなく確信している。それはなんにも変わらないはずだ。彼はどこまでもお人好しだったから、もしかしたら恩返しをされたり、ゴンみたいに誤解されてやられたりもしているかもしれない。
そんなことを考えながら、グラスを手に取り喉に流す。体がだんだんと温かくなっていく。そこまで悪い味でもないかもしれない。俺はグラスの中の液体を眺めた。
なみなみと注がれたビールは綺麗な狐色だった。
所要時間 1時間17分
文字数 3,127字
ちゃんと結末を迎えようと考えていたら17分もオーバーしました。圧倒的力不足。
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