7、自分の気持ち
久しぶりの休日は随分と過ごしやすく、かといって天候が優れないわけでも無く、絶好の掃除日和となった。掃除日よりと言っても、俺はまぁ、どちらかと言うと片付けられない人間だ。だから、今の家に引っ越してこの方、掃除という物は殆どしたことは無い。本来ならば親方の工房に入り浸って花火の火薬をいじり倒したい所だったのだが、何となく彼女の事を思うと部屋を掃除しないでは居られない衝動に駆られた。そういえば、彼女は無線の前でも誰かに相対する時は化粧をしたって言っていた。嘘か本当かは知らないが、確かに彼女の言う事は説得力がある。見えていないからと言って、手を抜いて良いわけではないのだ。とりあえず散髪はした。後は、彼女と語らうこの部屋を綺麗にするだけだ。しかし、ベッドの下に押し込まれていた、昔作った花火の設計図を見つけると、掃除の手がぱたりと止まった。大掃除の時に良くある罠だ。一度見始めると何故か止まらなくなるのだ。よくもまぁ失敗作をこれだけ作った物だと思うほど、次から次へとあらわれてくる。いくらか経験を積んだからか、過去の失敗作に鉛筆で修正を入れ始めると、掃除の事は頭からすっかり消えて無くなっていた。何時しか俺は床に寝そべりながら花火の設計図を辺り一面に広げながら、夢中になって設計図の修正に励んだ。俺を正気に戻したのは、昼時を知らせる鐘の音だった。ため息混じりに設計図をとりあえずひとまとめにして、昼飯を食うために部屋を後にした。
俺は最初、自宅で軽く昼飯を……と考えていたのだが、何だか台所に立つのも面倒くさい気がして、おかみさんの店で飯を食うことにした。店の中は平日とは打って変わって、落ち着いた感じの客が多く、何だか何時も賑やかなこの店とは雰囲気が違って感じられた。賑やかではあるが、話し声も、食器にスプーンやフォークが当たる音も、どことなく控えめな感じで、いつもより一つ上のランクの店に来ている感じだ。平日では分からなかったが店に備え付けられているラジオからは昼時に相応しい、余りうるさくない感じの音楽が流れていて、何時もと同じカウンター席に座っていても別の空間に居る様な気分だった。
「あら、休日に来るなんて珍しいね」
俺を見つけるなり、おかみさんはそう言った。何時ものせかせかしている感じでは無くて、何となくゆったりとした言葉尻だった。
「はい……何となく昼飯を作るのがおっくうで」
「それにしたって、休日に外へ出るなんてあんまりなかったことじゃないか」
「確かに」
「まぁ、今の客が捌けたらしばらく暇だからさ、ゆっくりして行きなよ」
おかみさんはそう言って厨房の奥に消えていった。俺は見慣れない店員に食べたことは無かったが、いつかは食べてみたいと思っていたホワイトソースのオムレツと、何時も飲んでいる冷えたレモネードを注文した。レモネードを飲みながら待っていると少ししておかみさんが黒パンとオムレツを持って俺の横に座った。
「待たせたね。でもアンタ、オムレツなんて、どういう風のふきまわしだい」
「いや、今日は余り動いてないし、それに、食べてみたかったんですよね」
「たべりゃぁよかったじゃないか」
「いえ、仕事中はオムレツだと絶対腹持ちしないですし」
「ああ……だね、確かに」
おかみさんはそう言うと快活に笑った。
「動いてないっていうか、部屋掃除してたんですけど、奥から昔の資料とか出てきて、それ読んでたら何か昼になってしまったというか」
「ああ、あるねぇ、そういうの」
「で、家に居たら片付かなかった部屋が嫌でも目にはいるんで……まぁ、逃げてきたわけです。現実逃避ってやつです」
苦笑いを浮かべながら言うと、おかみさんは俺のことをどうしようも無いといった風に俺を見ながら遠慮なく笑っていた。
「で……どうしていきなり部屋掃除なんか始めたんだい」
俺は、おかみさんが言った常日頃心がける事として、身だしなみの延長線上に部屋の掃除も必要ではないかと言うと、少し驚いた表情をしていたが、すぐに納得した顔で俺の頭をガシガシとなでた。
客が居なくなって、準備中の札を下げた店で、店員がすべてのブラインドを閉め終わると、おかみさんに昼の部の終業の挨拶をして店から出て行く姿が見えた。通用口のベルが鳴り終わるとおかみさんはコーヒーを持ってカウンターの向かいに陣取った。俺は、コーヒーを飲み終える前にどうしてもおかみさんに聞いて欲しくて、『彼女』の事を切り出した。いや、聞いて欲しいと言うより、自分の中で持てあましている得体の知れない気持ちを何処かにぶつけたかったのかも知れない。
「おかみさん。実は俺、一週間くらい前から無線で良く話す人がいるんですけど」
「無線かい?めずらしいね」
「ええ、それで、ですね、その相手というのが女性なんですけど……その……」
「……なるほど、髪を整えるのも、部屋を片付けるのもその娘さんの為って訳かい」
「いや……そういうのじゃなくて、いや、そうかもしれないですけど、それ以上に納得したって言うか共感ですかね、おかみさんも言っていたけど、なるほど……と思って」
「へぇ……良い関係じゃないかい」
「だと思うんですけど、俺、なんて言うか、最近すごく気になるって言うか」
「なにをだい?」
「……その、彼女の事が……です」
「……そうかい」
「でも、逆に、無様な所見られたくないから彼女を避けたいって気持ちもあって……その、深く入り込みたくないって言うか。俺、物事を上手く伝えたり誰かをおだてたりそういうの上手く出来ないって言うか、いや、試みたんです。試みたんですけど……無様な感じで、なんだか自分がどんどん格好悪い人間になって行くみたいで、そういうの彼女に知られたくないって言うか……」
それを聞いていたおかみさんが笑った。
「馬鹿だねぇあんた。安いメッキは剥がれるって言うだろ。要は上手く言葉を飾る事が出来ないって事を言いたいんだろうけどさ、実を伴わない言葉なんて戯言に過ぎないよ。気にしなくても、思ったことを言ったら良いんじゃないかね。勿論、デリカシーは必要だけどさ」
「でも……なんて言うか彼女、良いところのお嬢様みたいで」
「そんなの関係ないさ……っていうかさ、アンタはその娘と上手くやりたいのかい」
「正直……」
俺は言葉に詰まった。と言うのも、仕事はあるにしても将来が全く見えない生活をしていたからだ。勿論、彼女の気持ちありきの話だが、その言葉が俺にとってはとても重い物に感じられて、口に出すことはおろか、考える事すら避けていた。
「正直言うと、このまま彼女と楽しい時間を過ごせればなって……」
俺は我ながら情けなくなる様な、絞り出す様な声で言った。
「だったら尚更、アンタはアンタの言葉で彼女に話すべきだ。特にその彼女、アンタなんかに付き合って一週間以上なるんだろ?初めての会話はどうだった?見知らぬ相手と会話して続けようって思った彼女は、飾らないアンタの言葉に……そうだね、共感したんじゃないかい?アタシはそう思うけどね」
「そうですかね」
「あんたしつこいよ……いい加減うざくなってきたんだけどさ……」
「すいません。何だか、自分でもおかしいと思うんですよ。彼女との通話を始めてから時々、俺、自分にすごく自信がなくなる感じがして。なんて言うか、最近は特に気持ちのムラについて行けなくて」
「はぁ……ほんっと馬鹿だね。分からないのかい?そりゃぁ恋っていうモンなんだよ」
「いや、それは多分、無いですよ。第一あったこともないですし」
「ホント、アンタは底抜けの馬鹿だね。ここに男が居て、そこに女が居る。それだけで始まっちまうのが恋ってもんさ。理屈じゃ無いんだよ。アンタの場合はスピーカーの向こうに彼女が居る。それだけで十分な動機さ」
「そんな乱暴な……」
「……まぁいいさ。アンタが違うって、そう思うんだったらそうなんだろうね。だけどさ、もし自分の気持ちを偽ってるなら、それだけは止めた方がいいよ。さっ!帰りな。帰って掃除して、それから自分の胸に手を当ててよく考えるんだ。本当の所はどうなのか、しっかり考えな。話しを聞くのはそれからだ」
おかみさんは強い目で、だけど口元には何故か嬉しそうな笑みをこぼしながら俺の背中を叩いてくれた。俺は心の中で何かが少しずつ動き始めるのを感じていた。
家に帰ってからなるべく手早く掃除に専念したつもりだったのだが、掃除を終えた頃には辺りはすっかり暗くなっていて、月がぽっかりと空に浮かんでいた。俺は手早く夕食を作り終え食卓に向かう。おかみさんの言った言葉がまだ頭の中で回っていた。俺は自分の気持ちを恋じゃ無いと、それは無いと、あの時は言ったが、正直に言うと、自分の気持ちを認めてしまったらますます惨めになりそうな自分が居たから、俺は惨めになりたくなくて否定したに過ぎない。だけど、改めてこうして一人で考えていると、今すぐにでも無線機に手を伸ばしたい自分が居ることを痛感する。今日だけじゃ無い。昨日だって、その前の日だってそうだ。俺は彼女の声が聞きたくて、彼女と話したくて仕方なかったのだと。いい加減認めなければ。多分、顔も名前すら知らなくても沸き上がるこんな気持ちは、きっと『恋』と言うものなのだろう。
夕食を終えて改めて無線の前に座る。彼女の呼びかけはまだ無い。時計を見るといつもならとっくに会話が始まっている時間なのにもかかわらず、どれだけ待っても彼女の呼びかけが無いものだから、俺は自分から呼びかけてみることにした。
「CQ……CQ……」
コールを始めてから既に三十分程経った。いっこうに彼女から返事が返ってくる様子は無い。俺はスピーカーの音量を少し高めにしてコーヒーを淹れにキッチンへ入った。心の底で何かあったのでは無いかと言う不安と、妙に意識して高まった緊張感とで、張り詰めていた物がキッチンに入った瞬間、不意に緩んだのだろう。そうして心の中にあった不純物がため息と共にはき出されると、今度は彼女の声が恋しくて仕方なかった。
コーヒーを一口すすりながら再びコールを始める。彼女が返事を返したのはそれから十分程後のことだった。




