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5、おはよう

 仕事帰り、俺はおかみさんの家に寄った。昨日彼女が言っていた『みなり』のことが引っかかって、とりあえず髪を切ろうと思ったからだ。髪は自分が思ったより長くなっていて、仕事中は頭にタオルを巻いていたから分からなかったが、改めて鏡を見てみると、楽に肩に届いていた。


「こうしてみると女の子みたいだね。アタシの友達がそういう店をやっているけど、アンタ、そこで働く気ないかい」


 背筋に寒気が走った。おかみさんの声は半分冗談の様だったが、俺にとって、それはシャレになっていない話だったので、すぐさま断った。


「そうかい。それにしても、こんなにサラサラで綺麗な髪、もったいないねぇ」

「でも、やっぱり男はこう……こざっぱりしてる方がいいじゃないですか。おかみさんはどう思いますか」

「そうだね、んん……アタシはどっちでも良いけどね。ただし、髭だけはごめんだね。むさ苦しいったらありゃしない」

「そうですか。俺、ちょっと興味あったんですけど、そういうもんなんですかね」

「そうだね、まず暑苦しい。食事する時に邪魔そうだし、そりゃあまぁ、そう言うのが好きな女だっているだろうさ。でもアタシは勘弁してほしいよ。何より、アタシにしてみれば、清潔感が無いって言うのが一番大きいかな」

「清潔感ですか」

「そうさね、今は仕事でアンタも忙しいから人様の前に出る機会はそうそう無いだろうけどさ、普段から心がけておく事だよ。普段から身なりに気を遣っていればいざ、人前に出たときに慌てなくても済むってものさ。それに、そういう所に出たとき物を言うのは普段からの振る舞いが物を言うんだ。身に染みついた習慣がアンタの武器になることだってある。いずれにしても悪いことじゃない。普段から身なりには気を遣うことだよ」

「なるほど、そうですね。言われてみれば俺、確かにそういう所無頓着だったかも」

「そうだよ。本当ならアンタは、そういうのを気にするべき年頃なのに……それじゃあそろそろ切るよ」


 おかみさんは躊躇なく俺の髪にはさみを入れた。耳元で鉄のこすれ合う音が響くたび、切られた髪が足下に濡れた塊となって落ちて、切り進む度にどんどん肩が軽くなっていくように感じられた。最初は重い感じのハサミの音がだんだん軽やかになっていき、リズムよく刻まれるハサミの音に俺は何時しか眠ってしまっていた。

 目が覚めたのはそれから一時間後の事だった。辺りはすっかり片付けられ、膝にはタオルケットが掛けられていた。


「おきたかい」

「あ、すいません」

「いいから鏡見てみな。気に入らないところがあったらいっとくれ」


 俺は机の上の鏡を手に取る。鏡を傾けたり、頭を動かしてみたりしたが、別に不満に思えるような所は無い。むしろ、本職並に綺麗に切りそろえられている。


「おかみさん、美容師か何かやっていたんですか」

「昔ね……」


 帳簿をつけていたおかみさんが顔を上げフフンと笑いながら言った。


「どうだい、中々男前になったろう」

「いや、もう、頭が軽く感じるし、邪魔にならないしで快適そのものです。やっぱりおかみさんに頼んでよかったです」

「そうかい。それにしてもアンタ、ちょっと雰囲気変わったね」

「そうですか」

「うん。で、本当の所、好きな子でもできたのかい」


 心臓が一瞬、高鳴った。心当たりはある。が、確信が無かった。果たしてそれが好きと言う物なのか、恋なのか言い切れない……いや分からなかった。そもそも、顔も名前も知らない、声しか知らない相手に対してそんな感情が沸く物なのだろうか。そんな疑問が心の中にあった。疑問があるにもかかわらず、彼女の声は聞きたい、そんな渇きに似た思いだけが日に日に募っていく。それはおかみさんが言うところの『好き』なのだろうか、そもそも恋と言う物を経験した事のない俺にとって、その質問はかつて無い難問だった。

 結局、考え抜いた末出た答えは……


「よくわからないです」

「フフッ……そうかい……」


 おかみさんはそれだけ言って、穏やかに笑った。


 帰り道、空を見上げると雲の間から月が見えた。風は強く、風車から遠く離れた街でも静まりかえっている裏路地に入れば、それの軋む音がかすかに聞こえた。石畳の道を踏みならしながら自分の足が少しずつ早足になっていくのは、多分、彼女が無線の向こう側で俺を待っている気がしたからだ。明かり一つ灯ることの無い真っ暗な裏路地を月明かりが蒼く照らす。俺はとうとう我慢しきれなくなって走り出した。

 俺は家に着くなり、早速無線機の電源を入れた。彼女の電波を拾うためにチューナーを回す。と、咳き込みながらコールしている彼女の声が聞こえた。多分、また、随分長い間コールしていたのだろう。何となく申し訳ない気持ちになりながら俺はコールに応えた。


「こんばんは」

「こんばんは、昨日は良く眠れたかしら」

「そりゃあ、もちろん。君はどうだい」

「わたしも、良く眠れました」

「そうか、それはよかった。ところで、今日は俺も君を見習って早速髪を切ってきたよ。考えてみれば随分と久しぶりの事だな」

「そうなんですか。わたしもそろそろ髪の毛をそろえた方がいいのかしら」

「髪はどんな」

「そうですね。わたしがここに来たときは男の子みたいに短かったのですが、今は背中まで伸びてしまいました」

「へぇ、昔は男の子みたいって、君は活発な人なのかな」

「実は……木登りとかしてました。お父様やお母様には良くしかられていましたね。今思えば確かに危ないことをしていたと……」


 そう言うと彼女は突然咳き込み始めた。俺が大丈夫かと問いかけると、彼女は大丈夫と辛うじて言ってはいたが、どうにもスピーカー越しの彼女の声は大丈夫そうには聞こえなかった。さすがに心配になって、今日はもうよした方が良いと思ったのだが、


「止めないで……」


 彼女は言った。


「少し……まっててください……お願い……です……」

「うん。わかった。落ち着くまでまつから、いそがなくていい」

「……はい」


 彼女はそう言っていったんマイクの電源を落としたらしい。彼女の方からは一切音がしなくなった。俺は待っている間、一旦コーヒーを淹れ、長期戦を覚悟して無線の前に座る。もし体調をくずしているのなら、彼女がこのまま寝てしまい、タイムリミットの一時を過ぎたとしてもかまわなかった。今日、具合が悪くたって、明日、話せば良い。そう思った次の瞬間、おもむろにマイクのスイッチが入った。が、彼女の声が聞こえない。代わりに聞こえてくるのはけたたましい電子音と、遠くで誰かが慌ただしくしゃべっている様子だった。


「大丈夫ですか、大丈夫ですか」


 俺は耳を疑った。


「先生、呼吸が弱くなっています」


 俺は、それを聞いた瞬間、固まった。不意に辺りが騒がしくなった。マイクの前を誰かが通り過ぎていったのか、足音だけがやたらと大きく響く。空気の抜ける様な大きな音がした。


「よし、呼吸どうだ」

「戻りました」

「よし、点滴、それと……うん……念のためにボンベを交換しておいてくれ。君はしばらく彼女の様子を見ていてくれ。くそっ、こんな時に……君、この場を頼むよ。一時間程で戻る」


 女性の医者らしき人がそう言った後、再びマイクの前を通り過ぎていった。スピーカー越しにカチカチという金属音と、誰かが通り過ぎる音が暫くの間聞こえてきたが、看護師らしき人が無線のマイクを見つけたのか、ガタガタと言う音が聞こえ、それを最後に無線の電源を落とされたようだった。俺は暫くの間呆然としていた。彼女が恐らくは病気で病院にいるだろうと言う事を知ってショックは受けたが、それ以上に、突然、彼女がいなくなってしまうのでは無いかという不安に、とてつもない恐怖を覚えたからだ。身に覚えのある恐怖感だった。仲の良かった戦友を目の前で失うあの時の感覚に似ていた。いや、あの時よりももっとひどい。今は胸が締め付けられるほど痛い。無事な彼女の声が聞きたくて聞きたくて仕方なかった。それから気持ちが落ち着くまでにはえらく時間がかかった。気持ちが落ち着いた後は、たとえ彼女が今日無線に出ることは無いだろうと思いつつ、約束だからと、無線の前で彼女のコールを待った。何時もの通信が途切れる時間をゆうに超え、月が明け方の空の青に飲み込まれそうになった頃、半ば諦め気味になっていたとき、つけっぱなしにしていたラジオにわずかな変化が起きた。


「CQ……」


 確かに聞こえた彼女の声。しかしノイズが激しい。俺は、耳の感覚を研ぎ澄ませながらチューナーを回していく。彼女の声が少しずつクリアになっていくところで、俺はマイクを取った。


「何をやっているんだ。寝なきゃだめだろう」


 自分の声が少しうわずっているのがわかった。


「でも、あなたは待っていてくれた」


 彼女が一言言うと、ボンベの開封音が聞こえる。さすがにこれ以上無理はさせたらいけないと思った。


「ごめんなさい。随分、待たせてしまいましたね」

「いや、全然まっちゃいないさ。君が言うとおり『少し』待っただけだ」


 スピーカーの奥で鼻をすする音が聞こえた。


「泣いているのか」


 彼女は何も応えなかった。


「おはよう」


 俺は、初めて朝を共にする彼女にそう言った。朝を共にすると言っても、彼女が横にいるわけでは無いのだが、なぜか早朝に彼女とこうして話している事が特別な気がして、言わずにはいられなかったというのが正しいのかもしれない。


「え」

「おはよう。朝、目が覚めたら普通、そう言うだろ」

「は……はい……おはようございます」


 彼女の声は何となく嬉しそうで、心の奥がくすぐったいような感覚を覚えた。


「うん、じゃあ俺はそろそろ仕事の時間だから、一言くれると嬉しいんだが」

「え……でも……なんて……」

「いってらっしゃいって言ってくれないか。君に、そう言って送り出されたい」

「はい」


 そう返事をして彼女はマイクに向かってかみしめるように言った。


「いってらっしゃい」

「うん。行ってくる」


 なんだか今日の彼女は俺が電源を落とさない限りつなげていそうだったので、おれは『じゃあ』と一言いって無線の電源を落とした。そして、暫く俺はスピーカーに手を置いたままその場を離れないで居た。

心配すると言う気持ちがこんなに重く心にのしかかって来たのは、随分久しぶりの事だ。


「行ってくる」


 もう一度、俺はその言葉を口にした。心を麻痺させる為に、奮い立たせる為にそう言ったのでは無く、きっとそれは願いの様なものだった。今度は帰ってきても誰かが待って居てくれる。彼女が待って居てくれる……大袈裟だけど、そう信じて俺は家を後にした。

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