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3、雨の憂鬱

 雨の音と共に目が覚めた。日はとうに昇っていたが、雲が厚いせいかえらく薄暗く感じられた。時計の針は六時をまわっていた。いつもより三十分程早く目が覚めたが、涼しさのせいか体調はすこぶる好調で、これ以上睡眠を欲する気にはならなかったが、昨晩の余韻が甘い気怠さをのこして、ベッドから起き上がるにはほんの少しの根気が要った。いや、正確には脳裏に焼き付いた彼女の声で、彼女が言った言葉を反芻していた。考えてみればこの町に来てこのかた、夜に誰かと語らうことなんて無かったし(もっとも、酒が飲めれば親方の話し相手にもなるだろうけど俺は未成年だし)そもそも、同年代と話すなんて二年ぶりほどだろうか。周りが自分より年上の人たちばかりの環境(親方の娘さんはいるが、この前小学校に上がったばかりだ。俺は子供が苦手だ)において、同年代であろう彼女の存在は何となく心強かった。今日、無線が繋がったら彼女と何を話そう。仕事以外にすることといったらラジオの音楽番組を聞くことくらいしか楽しみの無い生活の中から、どうやって彼女の興味を引く話題を探し出せば良いのだろうか。そんなことを考えていたときだった。おもむろに電話のベルが鳴り響く。だいたい誰からの電話でどんな内容を話されるかは想像ができたが、出ないわけにも行かず俺は受話器に耳をつけた。


「おきてたか」

「おはようございます親方」

「おう。まぁ分かってるだろうが、今日は休みだ。火薬がしけっちゃいけねぇからな。ところでオマエ、今日の予定はどうなっている」

「いや、別に」

「そうか、じゃあ後で迎えに行くから、支度していろ。上の方から新しい品物が色々流れてきてるって連絡が入ったんだが、もしかすると花火に使える物があるかもしれねぇって話を聞いてな。まぁ、現物を見てからじゃねーと何とも言えねぇけど、とりあえず今日中に取引できるなら、取り置きして貰えるっつー話だったモンだからよ、どうだ、興味ねぇか」


 上の方とは月の事だ。月では様々な研究がされており、そこで作られた薬品等は純度が高く、重力の関係で此所では作る事の出来ない珍しい合金なんかも、作られていたりする。親方がかねてより欲しがっていた、高光度の火薬もおそらくは流れてきている可能性はあるのだろう。親方の声は少し興奮気味だった。


「なるほど、そう言う事なら今すぐにでも支度しますよ」

「そうか、じゃあ準備しとけ、十分でそっちに行く」


 そう言って親方は電話を切った

 隣町、といっても、俺たちが住んでいる街から南へ百二十キロ。随分遠い。今日の親方はアクセルベタ踏みで飛ばして向かったが着いたのは雨のせいもあって、街を出てから四時間後の事だった。親方について街を歩いていると、賑やかな市場にでくわした。ある程度歩いたところで親方が辺りを見回すと、おもむろに手を上げる。俺は親方の視線の先に目を向けると見知った顔があった。昔の同僚だ。といっても、俺より十ほども年上の先輩にあたるひとで、多少理屈っぽい所はあったが、面倒見の良い、よく出来た人だったのを覚えている。挨拶を一通り済ませて、彼について行くと市場の裏通りには様々な工場が建ち並んでいて、その中の一つ、金属を打ち付ける音が響く工場へと俺たちは入っていった。なんでも、その工場では余った薬品や素材を売っているそうで、高光度の火薬が商品として並んでいるところに、かつての俺の同僚が気づいたと言うわけだったとの事だ。気を利かせて態々取り置きしておいてもらったらしい。取引はスムーズに済み、余った時間をつかって街の見物でも出来るかなと思ったのだが、親方はそれを許さなかった。どうにも早く試したくて仕方ないと言った面持ちで、無理に引き留めたら機嫌が悪くなることを知っていた俺たちは、仕方なしに来た道を帰った。別れ際、同僚の先輩が今度は一人で来るようにと、街を案内するからと言ってくれた。

 その日の夜は、夕飯を食べてからずっとラジオの前にいた。雨は時々降る程度にまで収まってはいたが、雲が空を覆い尽くし、街の増幅器を使っても遠方からの電波を受けることはあまり期待できない状況だった。彼女がどこから話しかけているのか想像は出来なかったけど、言葉遣いから察するに結構良いところのお嬢さんなのだろう。少なくともそういう人が住んでいる所といえば、隣町どころでは無いくらい遠くに住んでいるはずだ。こんなド田舎の山の上でも無ければ恐らくは彼女の電波すら拾うことはままならないだろう。現状でそれが出来る環境、そして、そこそこ高い身分となると、隣の国の、それも都市クラスの街からなのではないだろうか。いずれにしても俺の全く知らない世界から彼女は語りかけてきているのだ。どういう人なのだろうか、そんなことを想像して随分時間が経った。いつの間にか机に突っ伏して眠って居た俺を起こしたのはどこからか迷い込んできた青白くて大きな蛾の羽ばたきだった。時計は彼女と通信が途絶える時間を10分ほど過ぎていて、得体の知れない、えらく寂しい感覚に大きなため息をついた。しばらくやんでいた雨が再び降り出している。ラジオは番組終了のアナウンスと共にジャズのBGMが流れ始めていた。


 雨が止むと今度は蒸されるような暑さが襲いかかってくる。この時期ではさほど珍しい事では無かったが、気分的に何となく落ちていた俺の体には殊更堪えた。朝飯はどうにか腹に詰めたが、昼飯はなんだか喉を通らなくて、おかみさんに言って弁当を作ってもらい、そのまま仕事をさぼった。後で親方に大目玉を食らうのは分かっていたけど、暗いところで作業をやると何だか要らないことばかり考えてしまって集中出来なかったからだ。特に火薬を扱うという仕事柄、失敗は許されない。人の命がかかっているのだ。こんな状態で仕事をしていたら火薬の量を誤ってしまうばかりか、発破時に逃げ遅れて自分の命すら危ういかもしれない。とにかく俺は現場からこっそり逃げ出して、近場で一番高い山(といっても登山と言う言葉を使うほどたいそうな山では無い)へ向かった。元々標高が高いこの街の、一番高い場所、周囲何キロメートルかはわからないが、とにかく地平線まで見渡せる場所。俺はそこに立って空を仰いだ。少し落ち着くと、腰を下ろして今度は盆地の底でひしめくように立ち並ぶ家々を眺める。いつも住んでいる場所が何だかとても懐かしいような、それでいて寂しいような気持ちになった。何かが違う。いつもならこの程度、気合いで乗り切る事が出来ていたというのに……自分はどうしてしまったのだろうか、俺はこんなにも弱かったのかと正直言って戸惑っていた。少しだけ耳の奥に残っていたあのオルゴールのメロディを鼻歌でなぞってみた。


「あらあら、随分と調子外れの鼻歌だね」


 おかみさんの声だ。見ると、おかみさんはいつもは結わえてある長くて艶やかな髪を時折吹く風になびかせながら俺に近づいてくる。おかみさん、と言ってもまだ三十代に入ったばかりで、こうして見ると、まだまだ若さが残っていて、それでいて、大人の色気を漂わせる綺麗な大人の女性だ。初めて見る食堂の外のおかみさんにそんな印象をうけた。


「親方が手を外せないからアンタの様子を見てこいってさ」

「そうですか、すいません」

「アタシに誤ってもどうしようもないだろう」


 いつもと違う声のトーン。女性らしい甘い響き。ずっと前に亡くした母親に重なる声だった。


「アンタ、具合悪かったなら早く病院に行った方がいいよ。今朝なんて真っ青な顔して」

「いえ、別にそういうアレでは。でも、ほんと、おかみさんにまで迷惑かけるなんて、ほんと、すいません」

「いいんだよ。アンタはよく頑張ってるからね、誰も怒りやしないよ。親方だってアンタのことを心配でアタシをよこしたんだ。無理してないかってね」

「無理は、してないです」

「いいんだよ、こうしているとき位、年相応にしてな。見ちゃ居られないよ」


 俺は、その言葉を聞いて、そのまま大の字に寝転がった。


「遊びたい年頃だしね、しかたないよ」

「そうなんですよ、おれ、ラジオ聞くくらいしか趣味なくて、考えてみたら周りの人と話、あわなくなってて。それに、花火の仕掛けの話なんて誰も知らないし」

「……ごめんね」


 おかみさんは言った。


「アンタ、あたしたちを守るためにがんばってくれてたのにね、アタシは何もしてあげることが出来ないよ」

「いえ、おかみさんのご飯がなかったら俺、多分もうこの街いないですよ」


 俺は笑いながらそう言って見せた。


「ばか……気を遣うなっていったでしょ」

「気なんか遣ってませんよ。出来れば肉団子はもう一つ多くしてほしいですけどね」


 おかみさんは寂しそうに笑った。


「アタシがもう少し若かったら、アンタの話し相手にもなれたんだろうけどね」

「今でも十分話し相手になってくれてますよ」

「そうじゃないよ、女としてだよ。鈍感なアンタにわかりやすく言うと、彼女とかそんな感じのものさ、旦那とアンタ、どっち取るかってなったら、アンタを取るだろうねぇ」


 おかみさんは、何というか、初々しい目で俺を見る物だから、俺は思わずおかみさんから顔を背けてしまった。何というか、ものすごい照れくさくて自分でも顔が赤くなるのを感じた。


「おかみさん、俺に気を遣わなくても良いですよ。それに、旦那さんに聞かれたら俺が気まずいですよ」

「生きてたらの話だけどね」


おかみさんは薬指の指輪の愛でながら言った。


「とうとう帰ってこなかったよ。子供も残さずにね」


 そう言ったおかみさんに返す言葉が無かった。少しずつ戦火の傷跡が癒えてきたとは言え、失った物は戻らない。遠くを見つめるおかみさんは、失った人を想ってか、とても悲しそうな表情を浮かべていた。何時も、食堂ではあれほど元気に、頼もしさすら覚える様な振る舞いをしている人が、今に限って言えば、とても同じ人とは思え無い程に、か弱く見えた。こんな時、俺は何時も世話になっている人を慰める言葉を持ち合わせていない。自らを奮い立たせるために使う言葉ならいくらだって持っている。生きる為に、前に進む為に、頭を空にして、それらを何度も心の中で復唱し、あるいは叫びながら、悲しみや恐怖と言う感情を麻痺させて、そうやって言葉の意味なんか考えないで生きてきた。こんな時になって、ようやく気付かされる。俺はきっと、優しくない人間なんだろう。こんなに親身になって話を聞いてくれる人が居るというのに俺は……なんと優しくない人間なのだろう。


「はぁ…なんだい、アンタまでしけた顔して」

「すいません……こういう時って、どういう言葉を使うべきなのか……それが分からなくて」

「……沈黙に救われる事だってあるさ……アンタは優しいね」


 顔を上げると、おかみさんは、俺の知っているおかみさんじゃなくなっていて、普通の綺麗な女性が俺に笑顔を向けていた。


「うん、やっぱりいい男だ」

「そういうのやめてください。恥ずかしいって言うか、それに、俺のこと選ぶなんて、やっぱり嘘じゃないですか。旦那さんの事、言うとき、なんて言うかその、すごく女性っぽいって言うか」

「なんだい」

「旦那さんのこと言ってるおかみさん、すごく綺麗です」


 自分でも顔が赤くなるのが分かるほど恥ずかしい台詞だった。でも、俺はそう言う言い方しか出来ない。だから思ったままの事を言っただけなのだが、それを聞いたおかみさんは大声で笑った。


「まったく、アンタは可愛いねぇ。最高だよ」


 そう言って何時までも笑っていた。


 その日の夜も雨は降った。だけど、諦めて寝ようとしたとき、俺は彼女を捕まえた。心細くて寂しそうな声をノイズの中から見つけ出したとき、俺は、一瞬たりともそんな声は聞きたくないと思って、急いで無線のスイッチを入れる。俺の声を聞いた彼女の声が、ノイズでは無く少しくぐもって聞こえた。


「声が聞きたかったの」


 彼女はそう言った。


「昨日、誰もつかまらなくって、わたし、何だか知らない世界に一人取り残されたみたいで」

「昨日はすごい雨だったから」

「でも、よかったぁ」


 安堵した彼女の声を聞いて、何時しか俺の中にわき起こっていた得体の知れない感情が収まっていくのが分かった。


「うん、俺も話したいなって思ってた」

「……うん」


 その後、電波が切れるまでずっと話し続けていた。といっても、もっぱら話していたのは俺ばっかりで、彼女はうんと相づちを打っているだけだった。昨日、隣町に行ったことや、今日、おかみさんに心配かけてしまったこととか、他の人にしてみればごくありふれた内容を、彼女は只黙って聞いていてくれた。俺は、彼女が相づち以外に言葉を言わないことに不満はなかった。それはきっと、ラジオ越しに聞こえる彼女の声はどことなく楽しそうだったからだと思う。


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