1、マイク・オスカー・オスカー・ノーベンバー・ノーベンバー・アルファ
ようやく仕事を終えて帰路についたのは夜の十一時を回った頃だった。蒸し暑さに耐えながら、たどり着いた我が家。しかし、扉を開けた瞬間、逃げ場を失い蒸しに蒸された空気が意識を一瞬遠のかせる。カタリと飯ごうのふたがずれて、その隙間からトマトと肉がよく煮込まれたスープがわずかにこぼれ落ちる。俺は、手についたわずかなスープを舐め取りつつ、どうにか意識を保ちながら机越しの窓を開けた。部屋の空気が一斉に外へ流れ出し、その少し後に心地よい夜風が風車の羽が軋む音と共に部屋の中へと吹き込んだ。設計図やらが散らかった机の上をなでるようにして薙ぎ払い、飯ごうを置いて、リュックから堅くなったパンを取り出す。用済みになったリュックは無造作に床へ投げ捨て、いすに体重を預けて飯ごうのふたを取り外すと、パンをジャブジャブ浸して口に放り込んだ。格別に旨いと言うわけではないが、疲れた体にはよくしみる。とりあえずは腹が少し落ち着くと、ラジオの電源を入れた。今朝仕事に出る前に聞いていたニュースの番組が流れ出すが、今はニュースを聞く気分ではない。飯時は心が落ち着く音楽でも聴いてゆっくりしたい物だとチューナーを回す。
「CQ……CQこ……らは……MOONNA……どなたか……応答願います……」
ノイズに紛れて珍しく誰かが無線で呼びかけているのを聞いて、思わずダイヤルを回す指を止めた。
「CQ……CQ……」
無線よりも便利な物がはびこっているこのご時世、誰が好きこのんで無線などやる物か。そう思いながらも、何度も何度も呼びかけるどこか寂しげな少女の声が耳を捕らえて放さなかった。
「CQ……CQ……こちらはMOONNA……」
そこまで言って突如通信が途絶えた。いや、耳を澄ますと治まりかけたノイズのその奥でおそらくは先ほどまで呼びかけていた少女が咳き込んでいた。俺はスープの残り汁をすすりながらかわいそうにと思いつつ、目当ての番組をチューニングしようとしたが、彼女が再び無線の前で呼びかけ始めるのを聞いて、俺は思わず埃のかぶった無線機を机の横の道具箱から取り出す。動く保証は無いが、とりあえずこっちの電波が届いたら彼女を止めようと思った。ラジオから飛び出している線を無線機につなげ、電源のスイッチを入れる。
無線機のオートチューナーが電波をつかむまで何度か発声を確かめた後、マイクのスイッチを入れた。
「CQ、CQ、CQこちらは……POSTBU……2・3で聞こえています。余計なお世話かもしれないが、早く寝たほうがいい」
久しぶりのせいか、緊張のせいか、えらくぶっきらぼうで、それでいて、いささかマナーに反した対応をしてしまったが、彼女の咳はこれ以上聞くに堪えない。かわいそうと思いつつもう一度繰り返す。
「CQ……CQ……」
「あっ……あの……こ……ば……んわ……」
俺が言い切る前に彼女が割り込んでくる。しかし、ノイズがひどい。よほど遠い場所か、環境が安定しない場所にいるのだろう。
「あっ……あの、ごめんなさい…つい……」
「いいけど、珍しいね君、今時無線なんて使ってる人、滅多にいないのに」
「あっ……はい……祖父が使っていたのを一度使ってみたいと思っていまして。それで、一昨日からやっているんですけど、そうでしたか…どうりで返事がないわけですね」
「いや、そんなことよりここ、公共(?)の電波だし……色々とまずいですよ」
俺はそう言って机の引き出しからかみ切れを取り出すと、使って良い周波数をいくつかピックアップした。
「はぁ……なるほど……」
「いずれにしても今紹介した所は今でも使っている人が居ると思うから…いや、いるかもしれないっていうか……」
「そうですか……」
おもむろに彼女の声がクリアに聞こえるようになった。それと同時にさっきまで月を覆い隠していた分厚い雲は消えていて、まぶしいほどに蒼く空を照らす。
「あっ、急に電波の状況がよくなりましたね……」
「そっちも?こっちもだよ。雲が晴れたからかな?いまは月がよく見える。綺麗な三日月だ」
「ほんとうですか?」
ガタガタとスピーカー越しに音が聞こえた。
「もしもし?」
無線機の前に取り残された俺は、一人、月を見上げる。彼女が戻ってくるまで少しの間の沈黙。俺はこの沈黙がどうにも苦手だったのだが、今日のこの感じは悪くは無い。無線機の向こうで同じ風景を共有しているのかもしれないと思うと、あの、沈黙に伴う孤独感のような物は不思議と感じなかった。
しばらくして、彼女が再びマイクを取ると、手を誤ったのか何かが倒れる音が聞こえた。
「あっ!ごめんなさい」
彼女がそう言ってなにやらカタカタさせていると、かすかにオルゴールの音色が聞こえてくる。何か懐かしくて、心を締め付けられるようなメロディに、俺は思わず口を開く。
「まって……」
「はい?」
「もうすこし、そのオルゴール、聞かせてくれないかな?」
「あ……はい……いいですけど……」
「ありがとう……綺麗な音色だ。なんていう曲なのかな?聞いたことが無いけれど、すごく懐かしくかんじるんだ」
「ごめんなさい。ワタシも分からないんです。おじいさまが亡くなった時に形見分けでいただいたのだけど、随分古い物だけに調べようが無くって」
「へぇ、それにしてもオルゴールなんて珍しいね」
「そうなんですか?」
「そりゃあ只でさえ高価な物なのに、去年までの戦争で辺り一面何も残らないほどの焼け野原だったんだ。この町にオルゴールなんてあったとしてもその時に焼けてしまっただろうね。それにしても綺麗な音色だ……」
「……そう……ですか……」
心なしか彼女が元気をなくしたような声でそう言った。それから暫くの間、沈黙が続いた。その間、俺と彼女をつなげるのはオルゴールの音色だけだった。
「あの……月は……月はまだ見えますか?」
沈黙に耐えかねた様に彼女はそう切り出す。
「ん?ああ、今はすっかり晴れて、月どころか山の向こうの星空もすっかり見えるくらいだ。そっちはどうかな?」
「よかった……しってましたか?月が出るとき希に虹がかかるそうなんです」
「ああ……月虹とかいうやつだっけ?今まで一度も見たことないし、そんな物はファンタジーの世界だけなのかなって、いや、それ以前にこうして月を見上げることなんて無かった気がする」
「ふふ……実は……今ですね、わたしの所からはちょうど月虹が見えるんですよ。月虹の出る夜はご先祖様が祝福を与えに訪れるんですって。なにか良いことでもあるのかしら」
「へぇ!そりゃあ珍しい。たまに月でも見上げるもんだなぁ」
「そうですね……あなたにも見せてあげたいです」
「どういう風になってるんだい?虹っていうと普通は七色だと思うんだけど、月の虹か……十四色くらいになっているとかかな?」
「そんなにカラフルでは無いですね」
彼女はクスクスと笑いながら言った。
「色の数というか、白いです。わたしの所では白く光って見えますね。おっきな天使の輪みたいな感じです」
「へぇ、そうか。ちょっと想像しにくいが、きっと綺麗なんだろうな」
「はい……とても綺麗です。いまこうしてつながっているあなたにも、祝福が訪れると良いですね」
「そりゃあ願ったり叶ったりだ。明日辺りスープの肉団子が一個でも増えてくれれば俺としてもうれしい限りなんだが…おかみさん、そういう所やたらときっちりしているからなぁ…望みうすかもしれない」
「ご……んなさい……もう……ちど……言ってくださるかし……」
おもむろにノイズが濃くなる。空に雲はかかっていない。とすれば彼女の環境が悪くなったのだろうか。
「もしもし……聞こえますか?」
何度か呼びかけてみたものの、返事が返ってくる気配は一向に無い。
見ると無線機のメーターが1に張り付いていた。俺はなんだか名残惜しくて無線機を壊れない程度に何度か叩いたが、メーターは1からぴくりとも動かず、三十分ほど格闘した末、あきらめざるを得なかった。時計をみると、すでに深夜一時をまわっていたが、俺は何となく彼女との会話の余韻に浸りたくて、コーヒーを淹れて再び机のいすに腰掛けた。
デスクライトの明かりを落として、夜空を見上げると、ちょうど月への定期便が赤いライトを点灯させながら、夜空を上って行くのが見えた。




