蟷螂《下》 ~異常編~
手元には包丁があった。
目の前には大切な人の、今にも死にそうな寝顔があった。衰弱してやせ細り、脱水症状の肌はガサガサで、でも僕の大切な人。今でも愛している。今この状況でも、愛している。
手元には食料が無かった。
目の前には大切な人の、食べられそうな生肉があった。衰弱してやせ細り、脱水症状の肌はガサガサで、でも僕の大切な人。今でも愛している。今この状況でも、愛している。
ドライブの途中、運悪くたまたま通りがかったトンネルが崩れて、ここに閉じ込められてからいったい何日が立ったのだろう……
僕の彼女が先に倒れたのが、つい先ほどだ。携帯電話はつながらないし、食糧だってない。僕たちは、このままだと確実に死ぬ。だが、もしかしたら片方が助かる可能性だって……
指を切った。
彼女の口を開けさせて、僕の肉を咥えさせる。血だって喉の渇きをいやす助けにはなるだろう。
次に人差し指を切り落とした。
彼女の口に咥えさせて、顎を掴んでゆっくり咀嚼させる。
中指、薬指、小指……
指がなくなったら、今度は手首。少し大きいかな? 骨に沿って、五つの肉片に切り分けた。
切断面を彼女の口に近づけて、血を舐めさせる。その時、ちろ、と、かすかに動いた彼女の下が、僕の血を舐めた。やった、生きたくれた! 僕の血を飲んで、肉を食って生きてくれた!
僕が彼女を解体して食べるなんて言う選択肢は、この世のどこを探しても存在しない。だから、僕はまた腕を切り落とす。肘……肩といって、完全に左腕を切り落とした。
次は足だ。
手を切り落としてから幾日か経った。左手の傷口は、腐りだしたのでライターで溶かしてしまった。そうか、このライターで肉を焼けば食べやすくなるんじゃないか?
そうに違いない。そんなことも思いつかないなんて、どうやら僕の頭は鈍っているらしい。
左足の指からいった。根元に刃を添えて、左手で抑えようとして、そうだ無いんだった、と抑えるのを断念。右手の力だけで圧し切る。ライターで時間をかけて火を通し、それを彼女の口に運んでやる。心なしか、数日前より血色が良くなっているようだった。自分から口を動かしてくれる。良い傾向だ。
足の指を全部切り落としてしまったので、次は足の甲の肉を削いだ。土踏まずの方も削ぎ、残ったのは骨と、その間に詰まる肉と神経、筋肉。
ライターで火を通して、調理。このころには彼女は自分で座ることができるまでには回復していてくれたので、僕は紙皿に焼肉を盛って手渡しておいた。
足首まで骨だけになってしまった。次は脛とふくらはぎだ。
膝まで骨になった。最近、意識が朦朧とする回数が増えた。反対に、彼女は元気だ。なんと、僕のことを見つめてくれるようになっていた。
膝の関節が自然にはがれて落ちた。太ももの肉を剥ぎ取って、足の付け根から下はすべて取ってしまった。彼女と僕の体温は反比例している。
次は性器だろうか。それとも上半身? だとしたら み み …… 鼻 …… ? 唇 と……か 目玉をくりぬくのは最後 彼女が 見られなく なる か ら
『……本日午後三時、五か月前に崩落したきり、数々の要因に邪魔されて復興が進んでいなかった、白木丘トンネルの中から、若い男性と女性とみられる死体が発見されました。死体はほとんどが白骨化しており……』