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春雨と犬殺し  作者: 758.aki


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1/1

春雨と犬殺し

一、


________________________________________



 四月の雨は、意地悪だ。


 まだ桜が咲いているうちに降る雨は、綺麗だった花びらを一瞬にしてゴミにするから好きじゃない。汚れて地に落ちたゴミは側溝に押し込まれ、きれいさっぱり春を終わらせる。感傷の後片付けを、誰も頼んでいないのに引き受ける。


 年をとって、どんどん嫌いになってきた。

 事務所の窓ガラスを雨粒が叩く音を聞きながら、俺 —— 神坂透、38歳、私立探偵 —— は、起き抜けのカフェオレを飲んでいた。


 一番最近の依頼は2週間前。浮気案件の証拠写真を撮って、報告書を作って終わり。事務所の家賃は来週が締め切りで、冷蔵庫と冷凍庫の中は半分がアルコール、数本の来客用の水、残りは炭水化物を含まないつまみ。


 久しぶりの電話が鳴った。

________________________________________


 電話の主はその日の午後に来た。ドアが開いて、最初に目に入ったのは、傘だった。

 パステルグリーン、細身の長傘。雨をきれいに弾いていて、濡れていない。新品の傘を几帳面に折り畳むタイプ。石畳の床に水滴ひとつ落とさず、それを持った人間が部屋に入ってきた。


 若い女だった。


 二十代前半。浅黄色のワンピース。髪は肩より少し下、ゆるくカールしている。化粧が薄く、白肌の細やかさが引き立てられている。


 しかしそれよりも眼鏡。鋼鉄製の武器のように黒光りする、存在感の強い眼鏡だ。化粧の濃さは覚悟の表われ。強いメイクのできない女は依存するしかできない、忌むべき者と誰かが言った。だがこの眼鏡は、それだけで濃いメイクにも勝る自己表現になっていた。化粧が薄いのも計算なのだろう。鼻の稜線も、口元の引き結び方も、華奢なくせに強さを表すような顔だった。


 俺を一瞥して、それから部屋全体を見回した。

 窓の外をじっと見つめて言った。


「……華散らしの雨」


 こちらに向けた言葉ではなかったらしい。

________________________________________


「神坂さん、ですよね」


「そうです」


「先ほどお電話した、真下 茉莉ましもまりです。初めまして。廣瀬さんの紹介で来ました」


 廣瀬は元同僚。今も現役の刑事で、俺が警察を辞めてからも妙に縁が切れない男だ。「いい依頼人が来たら紹介してやる」とことあるごとに言ってくれるが、いい依頼人なんて探偵のところに来るわけがない。警察にも弁護士にも相手にされない人間しかこない。いい依頼人という言葉の定義を、一度廣瀬に問い質した方が良い。


 彼女は勧められる前に、「失礼します。」と言って、応接用の椅子に腰を下ろした。


「お茶とかは結構です。どうせ飲みませんから無駄なので」


 俺は自分の椅子に戻った。デスクを挟んで向かい合う形になる。デスクは大きめ。物は最低限の筆記具とPC。俺が自分のために淹れた今日2杯目のカフェオレ。ソファーではない事務的な椅子。

 下手に居心地のいい空間を作って、依頼人に寛がれても困る。


「申し訳ありませんが、廣瀬からは何も聞いていません」


「わたしも、こちらのことは詳しく聞いていません。ただ、腕は三流だけど人は悪くない、と言っていました」


「……俺も廣瀬を紹介するなら、同じ言葉を使いますよ」


「微笑ましいですね」彼女は続けた。


「いづれにしても他に探偵の知り合いなんていないので、お願いします。三流でも、いないよりはましなので」


 俺はカフェオレを一口飲んだ。ストレートのウイスキーの方がよかった。

________________________________________


「依頼内容を聞かせてください」


 ボソッと何か言ったが聞き取れず、カップをソーサーに戻す動作を途中で止めた。


 真下茉莉は言い直した。


「……城輔じょうすけを殺した人間を、特定してほしいんです」


「殺した?」


「ええ。でも警察は動いてくれないので」


「なぜ?」


「まず城輔が犬だから。そして事件性が不明だから」


 真下茉莉は滔滔と説明を始めた。


 城輔は黒柴の保護犬で、人見知りで、よく吠える。


「引き取ってきたその日に、わたしがドアに指を挟んでしまい、紫色になって腫れたんです。でもその指を城輔が舐めたらあっという間に腫れが引いたんです」


だから名前が城輔になった。


「でもやっぱり、自分のことは治せなかったみたいです」


やっぱり、という言葉に引っ掛かったが、話を進める。小ネタで盛り上がるタイミングではない。


「死因は?」


「毒殺です。犬のおやつの中に致死量の砒素が混入されていました」


おやつは家の目の前に置いてあったらしい。茉莉の父親が散歩に連れていき、玄関に戻る直前で城輔がそれを拾い食いした。


「入社式前日の夕方の散歩までは私が連れて行っていました。就職で東京に引っ越したので、父親に行ってもらうことになったのですが、その初日に殺されました」


「殺されたとおっしゃいますが、事件ではなく、事故の可能性がありませんか?」


「可能性はあります。ただ、そのおやつに含まれていた砒素の量に、『悪意以上の殺意』が感じられると言われました。」


「誰に?」


「どうぶつ病院の先生です」


 余計なことをいう獣医がいたものだ。そんなことを飼い主に言っても誰も救われないだろうに。


「その、城輔くんが狙われたとお思いですか? 無差別のいたずらとかではなく?」


「はい」


「理由は?」


「私が城輔のことを溺愛していることを知っていて、私を恨んでいるだろう人間が複数います。わたしに向けた悪意です」


「複数?」


「ええ」


 普通、恨みの報復を受けた人間は怯える。あるいは怒る。俺には疑わしかったが、本人は自分に対する恨みだと確信を持っているようだった。にも拘わらず、この女は冷静で面倒くさそうだった。——それだけだった。


「怖くないんですか?」


「わりとよくあることです。それにやることが中途半端なので怖くはないです。」


 よくあることではないだろう。仕事柄、恨みを買いやすい人間というのを見てきたが、きっとこの女はそっち側の人間だ。


「容疑者について、教えてもらえますか」


________________________________________


 彼女は三人の名前を挙げた。


 一人目は大学院の指導教官、篠塚誠一郎教授、57歳。2か月に、本人とセクハラの示談が成立している。


 二人目は学生時代のアルバイト先の書店の店長、橋爪修、36歳。同じくセクハラ案件。1か月前。ただしこちらは当人ではなく、会社から示談金を受け取っている。橋爪は左遷された。


 三人目は大学院の同期、綿貫聡、25歳。アプリの共同開発者で、コンペの賞金一千万円を折半した相手。3か月前。

 俺は、それぞれのことをメモしながら、頭の中で同時に別のことを考えていた。


 こういうケースは、依頼人本人が最も怪しい。


 自作自演。被害者のふりをして、探偵を動かし、何かを隠す。あるいは何かを仕込む。それが目的というのはよくある話だ

 でも今この瞬間、俺がそれを口にする必要はなかった。憶測による発言でクライアントを失っていいと思える、金銭的余裕はない。それに彼女はいま味方を獲得にきている。断ろうとすれば、今度は俺が敵認定されてしまうかもしれない。もっと面倒だ。


 同時に、成功報酬はもらえないだろうという予感がした。


________________________________________


「聞いていいですか」


「どうぞ」


「篠塚先生と橋爪さんは、あなたに何をしたんですか? セクハラ、と言いましたが——具体的には?」


「話すより読んでもらった方が早いです。」


 手渡された紙は2枚あった。一枚は篠塚教授に宛てた覚書き、もう一枚は橋爪店長の所属する会社に宛てたものだった。

 どちらも、容疑者2名が言ったカギカッコ付きのセリフ以外の文章はおそらくAIに書かせている。そして二人とも同じようなことを言っていた。


 篠塚教授は「もうすぐ卒業だと思うと切なくておかしくなりそうだ。/いろいろな話をたくさんしたけれど、どうしても本当の君にたどり着けていない。あとはもうセックスしかない。一回でいいから君とセックスがしたい。/本当にきれいな肌をしているね」等々。


 他人の口説き文句を、悪意を持って書き言葉にすると気持ち悪いものができる。五十七歳のジジイが狂ってしまったとしか思えない言葉が並んでいる。それをさらに、敵意をもって書けと指示されたAIが、系統別に分け、「勘違い」「相手を蔑んでいる」「誇大妄想」とか、いちいちタイトルをつけて、なお感じ悪く仕上がっている。


 しかし探偵の目はごまかせない。


「ずいぶん本気にさせましたね」


 少しは素の感情が見られるかと思ったら、狙いはまったく外れたようだ。俺を睨みつけて言った。


「何を言っているんですか? そんなことはしていません。担当教官なので、失礼がないようにしていただけです。」


 本心だったのは意外だった……。きわめて冷淡な口調だった。


「それを汲み取れない相手の責任ということ、ですね?」


「そう書いてありますよね? 分かっているなら変なこと言わないでください。びっくりしました。」


 俺はカフェオレを持ったままだった。少し考えた。


「では、橋爪さんは?」


「あの人は本当にやばかったです。『信頼していたのに裏切られた』と言われましたけど、どこからどんあ信頼が生まれたのか全く分かりません。でも全然話が通じなくて」


「恋は盲目」とか言ったら、また怒るだろうな、と思って我慢した。あんまり茶化すと仕事を逃しすだけでなく、セクハラと言いだして俺にまで覚書を出してきかねない。


「だから本人と話すのは諦めて、面倒だったけど会社と話をしました」


「綿貫さんについては」


「えっと……。賞金の件ですね」

 彼女は初めて、少しだけ間を取った。「分配の割合にちょっとした誤解があったみたいなんです。私が騙したみたいに取られちゃって。」

 彼女の目が、わずかにずれた。窓の方に。雨粒が流れる窓ガラスの方に。


 ほんの一秒。もしかして迷っている? 自責の念? だがそれだけだった。

________________________________________


「報酬なんですが……」


 話題を変えようと言いかけた俺の言葉を遮るように彼女が言った。


「廣瀬さんからこちらの調査料を聞いてます。足元を見られるのは嫌いなので。1時間2万円、経費別。成功報酬は犯人が特定できた時点で50万円」


「今回は1時間3万円、そのかわり成功報酬は20万円でかまいません。」


「理由は?」


「警察と同じです。お話を伺った限りでは、事件の可能性は高くない。犯人特定に至る可能性が低いので成功報酬を下げて、その代わりに、時間単価を高くしました」


「わかりました。つまり、成功という形にはならなくても、時間をかければそれに応じた成果、情報は増えるということですね?」と言った。


「そういうことです。ご理解いただけて助かります。」


「それでしたら、経過報告は即時でお願いします。LINEがいいです」


「問題ありません」


 彼女は立ち上がり、コートの前を合わせた。


「報告は短い方がいいです。ファクトだけでも。私が欲しいのは情報なので」


「了解しました」


「ではよろしくお願いします」


 彼女は右手を差し出した。

 握手? 一瞬、自分の勘違いだと思った。若い女性が握手だと? 俺は混乱した。


 握手なんてものは、ごつい男が握力を誇示するためにやるもの。もしくは友愛の情を示したふりをして、その力でマウンティングするものだ。男女間での握手なんて、キャバクラでなければセクハラ案件だ。


「……こちらこそ、よろしくお願いします。」


 彼女の手は、白くて薄くて、爪が短かった。やわらかくて、骨が細かった。


 真下茉莉が出ていった後、俺はしばらく、閉まったドアを見ていた。


「そうきたか……。反則だろ……」


 思わず声に出した。握手でこんなに敗北感を味わったのは初めてだった。そりゃあ恨み買うわ…。


 廣瀬にいい依頼人の意味を聞くまでもない。……最悪だ。



________________________________________

二、

________________________________________


 翌朝、俺は三人分の資料をデスクに並べた。


 篠塚誠一郎。橋爪修。綿貫聡。


 今日のカフェオレの1杯目を飲み始めながら、どこから手をつけるか考えた。警察なら最も怪しい人間から当たる。だが、全員が動機を持っているようでいて、全員そのレベルに達していない。


 セクハラ示談を払った篠塚教授…2か月前に、たった2週間で解決している。

 

 会社ごと訴えられた橋爪店長…解決済み。1か月前に、2週間で。

 

 賞金を騙し取られた同級生…問題になったかどうかさえよく分からない。

 

三者三様に真下茉莉に絡め取られている。そして三者三様に、絡め取られた自覚が、おそらく中途半端にしかない。


 それが、厄介だと思った。

________________________________________


 結局、真下茉莉がリストアップした順番で当たることにした。茉莉もそれで問題ないとLINEを送ってきた。午前中は篠塚教授の周辺から調べた。


 大学のウェブサイトに顔写真がある。白髪混じりの、いかにも温厚そうな学者顔。専門は英米文学。著書が四冊。役職もいくつか持っている。絵に描いたような「社会的立場のある人間」だった。


 示談の詳細は当然、表には出ていない。だが大学内で多少は知っている人間がいるらしいことは、SNSの断片的な書き込みから読めた。当事者の名前は出ていない。ただ「あの先生、去年色々あったらしい」という類の話が、ちらほら残っていたが、世間の注目は集めなかったようだ。


 俺は大学院の近くの喫茶店に入り、ゆっくりと腰を掛けて廣瀬に電話をかけた。


「神坂か。もう動いてるのか、早いな」


「不安定な歩合制なんでな」


 廣瀬は電話口で遠慮なく笑った。「だから、辞めない方がいいって言っただろ?」


「遅いわ。篠塚誠一郎って教授、知っているよな?」


「真下さんの指導教官だったやつか。名前と、示談したってことだけだよ。ただ被害届が出ているわけじゃないから、うちが動いた話じゃない」


「詳細、わかるか」


「わからん。弁護士を使ったかどうかも俺は知らない。彼女に直接聞けよ」


「だよな…。本屋の橋爪の方はどうだ?」


「ああ、あっちは会社が入っているからちょっとくらいは分かる。少し待ってな」


 と電話が切られると、十分後に鳴った。廣瀬は、ざっくりとした情報しかないが、と前置きしたうえで、意外に詳細な情報をくれた。素直にそう言うと、


「捜査をしないとういう判断をするだけでも、これくらいの情報は持っておかないと、後で何言われるかわかったもんじゃないからな。今の世の中は」


「それを警察外部の人間に話すことは、コンプライアンスとか、リークとか、プライバシーとか…」


「それはこっち側で飯を食っている人間が言うことだぞ。探偵のセリフじゃないだろ」


「分かっている。気を使ってやっているんだよ」


「刑事気質が抜けないってか?」


 廣瀬は笑いながら電話を切った。

________________________________________

 

 篠塚教授には、夕方に接触した。

 

大学の正門近くで張っていたら、四時過ぎに出てきた。思っていたより小柄だった。写真で見るより老けて見える。足取りが少し重い。


 俺は近くの自動販売機の前で缶コーヒーを買うふりをしながら、その後を追った。教授は大学の裏手にある駐車場に向かわず、正門の方へ歩いた。


 横に並んでから、声をかけた。


「篠塚先生ですよね」


 教授が顔を上げた。警戒の色が一瞬よぎる。


「どちら様ですか」


「神崎と言います。ある件について、少しお話を聞かせていただきたくて。真下茉莉さんについてです」


 苛立ち、あるいは怯え少しだけが見えた。しかし何も言わない。こちらの言葉を待っている。


「失礼しました。私は私立探偵の神坂と言います。真下さんが事件のようなものに巻き込まれているので、関係者にお話を伺っているところです。ご迷惑をおかけするつもりはありません。」


 その言葉には反応を見せず、篠塚教授は沈黙のまま歩いた。俺も黙ってついていった。

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 地下鉄の駅の入口を通り過ぎ、緑の多い公園に入っていったところで教授は口を開いた。


「時代なのかなと思うんですよ」


 教授はゆっくり言った。


 「よく言うじゃないですか、『今はそれダメなやつです』って。あれですよ。わざわざ『いま』ってつけている時点で限定的な意味しかないんです。わたしがしたのはもちろんいいことじゃないですよ。ダメな事でしょう。でもセクハラじゃないです」


「そうなんですね」


 相槌で先を促す。


「私の恋愛感情は本物でした。NGでも本物です。でもセクハラは考えもしなかった。彼女のリアクションを見てもね。あれをセクハラと言ってしまうのは本人の感情的に間違っています。でも時代的にはあっている。立場の上の人間が、口説こうとして、受け入れられなかったら、それはセクハラ」


 そこで止まった。だいたい予想していた通りだ。話が変わったのはその後だ。


「……父親が出てきたんです。その話は聞いていますか?」


「いえ、初耳です」


「私は、父親の嫉妬を買っていたんです。私と彼女が二人で出かけて、映画や食事やお酒を一緒に行っているのを、彼女は隠していませんでした。」


「あの…。二人で飲みに行ったのは、あの時が初めてではなかったのですか?」


「違いますよ。たしかに、覚書にもそうは書いてないですよね。誤解するように誘導していましたね。断れない状況で誘われたから、仕方なく付いていったとなっていましたね」


「それも違うと?」


「映画を見に行こうと言ってきたのはむこうです。」


「なんか、話が全然違いませんか?」


「あの時は、わたしにもよくわかってなかったんです。……最初、真下さんは何の警戒心も抱いてなかった。わたしの好意には気づいていても、口説いてくることは想定していなかったみたいだし、仮にそんなことがあってもひとこと断れば引き下がると思っていたのでしょう。だから自分から映画でも誘ってきたし、私におごらせておいしい食事、いいお酒を飲んでいたんです。」


「失礼ながら、よくある話といえば、そうかもしれません」


「お恥ずかしい話、真下さんの大学院卒業を目の前にして、私は卒業式の日にいきなり告白する高校生みたいになってしまったんです。それまで当たり前に目の前に彼女がいた毎日が、一気に過去のものになるのが受け入れられなかった。それまでの、適切な距離感で、変な意味でなく仲良くできていたのがなくなる喪失感が怖くて、いい年こいて暴走しました。


 それでも彼女は真摯に向き合ってくれました。そしてわたしは、想いが全く届かないことに落胆していました。正直、その、性的なことをしたかったというのは、ほんの少しのおまけみたいなもので、今後も時々あって楽しい時間を過ごせればそれだけで満足したのかもしれません。」


「なるほど」


「でも、彼女はその距離感で友人を続けられるタイプの人間ではなかった。それこそ、彼女の生きた24年間のことをたくさん聞いてきていましたから、私との関係も、卒業までとわかっていました。口では篠塚先生は『特別な人』です、とか言っていましたけど、彼女は簡単に嘘をつきますし、『特別な人』っていうのは割と軽いんです。」


「だからって…」


「ええ。強引で直球過ぎました。ひとつだけ言い訳しますが、思い出が多すぎました。恋人でもないのに本当に何でも話しました。専攻のダニエル・キイスの話から、アニメ、漫画、ゲームといった彼女の好きな事、政治と国際情勢、海外旅行と留学と日本の英語教育、生まれて初めての記憶、初恋、親兄弟、親戚と家族の新年会、中学高校時代の部活と勉強と進学の話、これから先の人生の展望、好きな食べ物と飲み物、ワインとカクテル、ジンとウォッカとラムとテキーラとウイスキー、日本酒と焼酎、深谷の新戒ネギ、とちぎ小江戸のヒメキュウリ、黒崎三浦大根、丹波松茸、東沢のウニ、白川シロアマダイ、気候変動と太陽の黒点運動…。


 本当に何をみても思い出がついて回るくらいです。この公園でも、二十年後の子育ての話しをましたね。」


 そういう記憶が全部のしかかってくるのが怖かった、篠塚教授はそういった。


「もちろん断られたんですが、さっきも言った通り、その時の彼女は同情的でした。問題は帰宅後です。父親と話をして、嫉妬にかられた父親が怒りだし、あとは彼女に好意を寄せていた他の男たちにも彼女は話をしたので、そういう男たちが寄ってたかって彼女をたきつけて、私を実際以上の悪者にした。『あれはヤバい男だ。すぐに訴えろ、嫌なら代わりに俺が言ってやる』みたいになったんだと思います。

 そういうことをしそうな彼女のファンが何人かいることも知っていました。」


「それでその父親とは?」


「直接会って土下座しました。あんなに単純に怒っている男と対峙したのは人生の中で何回もないです。一切の話が通じなくて、ただただ怒り散らして、ペットボトルを投げ、机を蹴飛ばし、最後はやっぱり殴られました。わたしはその時は、完全に萎れていて何も言い返すこともできなかったです。


 ……でも、今になって思い出すのは、そのとき父親は、怒りながら言っていたんですよ。娘は楽しそうに出かけて行っていたとか、誕生日ケーキとか、おいしいものを食べさせてもらって喜んでいたとか、家で話をしていたと。


 妻子持ちだけど、だったらまぁ、いいかと思っていたとまでね。じゃあ、彼は娘を何か喜ばすことをしていたかと言えば、何もしていません。そんなだから、なおさらわたしが腹立たしかったのでしょうね。


 でもそれだけ放置していたなら、最後まで出てこなきゃいいのにとは思います。わたしが何か言えたもんじゃないですけど」


「いま真下さんへの未練とか、恨みとか、そういったものはないですか?」


「まさか! そういう感情はないです。今回の件がセクハラというカテゴリーに当たって、加害者に括られてしまったことにしょげています。忘れてもらう以外にその回復の手段がないことに参っています。ようやく自分なりの整理が少しずつ、ついてきたところです。それを受け入れて忘れるのは、まだこれからです」


「ありがとうございました。大変参考になりました」


「こちらこそ、こんな話は誰もできないのでありがたかったです。でもこんな話でよかったんですか?」


「ええ。そもそもが、事件かどうかを見極めるところから始まっている調査なので、じっくりお話を聞かせていただくことが一番だったので十分です。あ、一応、4月1日は何をされていましたか教えていただけますか?」


 真下茉莉には、すぐに報告をいれた。


『報告です。篠塚教授と接触し、お話を聞きました。ハラスメント当日の言動について、卒業式のパニック的な行動と自己分析し、深く反省しているようでした。これ以上、真下さんの人生にも、自分自身の人生にも波乱を巻き起こすつもりもありません。今回のことについては、本人だけでなく、かかわらせてしまったすべての方に本当に申し訳なく思っているとのことです。また、城輔くん殺害の4月1日については大学院の入学式でした。なお調査時間は三時間三十分』


 返信は30秒できた。


『ご苦労様でした。引き続きお願いします』


 愛犬が殺されたと本当に思っていたとして、こんな話を聞いて彼女は何かを判断できるのだろうか。父親の件もそうだが、初めて耳にすることが多々あった分、あらたなトラブルを誘発するような気がして仕方なかった。





_______________________________________

三、

________________________________________



 翌日、群馬県高崎市に行った。


 橋爪修が飛ばされた書店は、駅ビルの大きなワンフロアの方の店ではなく、駅から五分ほど離れた三階建ての古いビルだった。営業時間中に、店舗にいることを確認して閉店時間に合わせて外で待っていると、それらしい男が出てきた。


 36歳。写真で見たよりくたびれていた。ネクタイはしていない。自転車乗り場に向かったのですぐに呼び止めた。


「橋爪さんですか?」


 男は警戒した顔をした。篠塚教授より、警戒の色が濃い。


「誰ですか?」


「探偵です。真下茉莉さんに関係することで、少し話を聞かせてください」


 橋爪は俺を見た。目に、ぐちゃぐちゃしたものが混じっていた。怒りと、悲しみと、あともう一つくらい、名前をつけにくいものが。


「まだ何かあるんですか?」


「それを調べに来ました。」


 橋爪は少し黙った。初めて考えているようだ。


「……どういうことですか? 俺が何かするとか思っているんですか?」


「依頼人は真下茉莉本人です。」


 あえて質問には直接答えなかった。また沈黙。橋爪は、会社と真下家から接近禁止を指示されていた。


「へえ。……何があったか知りませんけど、俺じゃないですよ。」


「そうだと思います。」


「ほんとに俺じゃない。会社からも散々言われた。ストーカーだって、異常だって。でも俺は……」


「場所を変えましょう。缶コーヒーでよければおごりますよ。」


「コーヒーなら缶じゃなくて、ちゃんとしたカフェにしてください。まだ店が開いている時間です」



__________________________________



 閉店間際のカフェは空いていた。席に着いた橋爪は、自分から何があったか聞いてきた。俺は真下茉莉から聞いた話を伝えた。


「ただの推測ですけど、茉莉ちゃんは自分でもやり過ぎちゃったと思っているのかもしれない。俺は篠崎っていう大学院の先生の話を聞いていたから、相当慎重に近づいていたんですよ」


「本人から聞いていたんですか?」


「あの子、自分のことをペラペラしゃべるでしょ? あれ全部、自己正当化のためです。自分は悪くない、ただの被害者で、自分自身には恥ずかしいことは何もないっていうことをアピールしているんですよ。俺もヤバい馬鹿なジジイがいたもんだと思って聞いていました。でもね……」


「でもあなた自身も同じような目にあった?」


「はい。そういう風に仕立て上げられました。誰も俺の言う話をまともに聞いてくれなかった」


「だから復讐した?」


「まさか。……それに恨むのなら茉莉ちゃんよりも会社ですよ。あんなにビビり倒して、言いなりになって200万も払って、それを俺の給与から天引きして、群馬まで飛ばして、終いには、ことを荒立てるつもりなら解雇だとまで言いやがった。俺は独身ですよ。不倫でさえない。ちゃんと休みの日に誘って映画デートして、手を握ったらセクハラで左遷、っておかしくないですか?」


「どうしてそんなことになったんですか?」


「あの父親です。血相変えて店に怒鳴り込んできて、お客さんの前で娘を傷物にしやがったと掴みかかってきたんです。俺はなんでそんなことになったんだか分からなくて、何かの間違いだと言いました。


ところが、他のスタッフが警察より先に本社の人間を呼び出して、呼び出されたそいつは俺には何も聞かずに謝り倒して…。


平日の開店直後で、お客さん自体少なかったし、動画を撮られもしてなかったみたいだから、まぁ会社としてはなんとかその場さえ納めれば、って考えたんでしょうね。」


「真下さん本人はその場にはいなかったのですか?」


「彼女が来たのは翌日です。両親と一緒に。こっちは本社の役員と俺。……あの時の茉莉ちゃんはすごかったなぁ。父親の方は娘の手前、少し落ち着いていましたけど、茉莉ちゃんは文字通り200万円ひったくったんですよ。


母親はその時、お金は受け取らなくていい、好きになっちゃったのはしょうがないもんね、ってなんというか、場違いなんだけど本当のことが見えている感じだったんですよ。母親にも俺のことを話していたんでしょうね。でもそれもスパッと


『そういうのいいから。黙って』って言って、鞄にお金をしまい込みました。その様子を見ていろいろつながりましたよ。


 茉莉ちゃんは、わざと父親を怒らせてひとりで店に殴りこませて、店に脅しをかけた。逆上した父親でそのまま翌日も会社を牽制し、人のいい母親で少し場を和ませて、自分は金をふんだくった。両親ともあの子の手駒にすぎないのかもしれません」


「やりすぎ、っていうのはそういうことですか。でも、女子の学生がそこまで策を練りますか?」


「俺の勘違いかもしれませんが、少なくともそう感じました。以前から親のことをちょっとあざけりながら話す事もよくありました。たとえば、父親は酒飲みで雑な感性しか持っていないくせに、自分のことを情に厚い人間だと思い込んでいる。母親については、自己評価が低すぎてイライラする、とかね。


 もっとも茉莉ちゃんは人のことをほめるタイプじゃないです。シニカルに切れ味のいい悪口で笑いを取る子でした。でもいい勘をしていて、あぶなっかしい感じはしなかった。自分のことを嫌いそうな人にはすぐに大きく距離をとるんです」


「あなたは、だいぶ距離を詰めることができた?」


「悪い質問だ」橋爪は笑った。すっかり打ち解けてくれたらしい。


「もう全部しゃべるから聞いてくれない? あれは罠みたいなものだよ。たしかに、茉莉ちゃんは一度だって俺のことを好きとは言っていない。でも、自分の好きな食べ物、好きな飲み物、酒、マンガ、アニメ、小説、映画、はまっているゲーム、洋服、香水、ベッド、枕、犬と猫、メガネ、椅子と机、モスバーガー、ヨーグルト、そんな話をどんどんするんだよ。俺が知らなければスマホの画面を見せて教えてくれたりもしたし、俺が興味を見せると、喜ぶ。


 そりゃあ、脈アリって思うでしょ。デートだって誘うでしょ。でもミスった。


 あの子は自分の恋愛話だけは全然しなかったんですよ。全くモテないわけでもないし、男性経験がないわけじゃない、と言っていました。他のことは何でも事細かに話すのに、そのことを話したがらないその理由をちゃんと考えていればよかったんだよ」


「その理由というのは?」


「まず、潔癖症。普通の意味で潔癖症だったけど、性的な潔癖症は想像以上だった、ってことかな。


 あと、もしかしたら性的にストレートじゃなかったのかも知れないし、本当は処女だったかもね。推測だけど。そしてそれを素直に認めることもできなかった。


 そんなことを言えるのも、手を握ったからなんだよね。握ってみて初めて分かった。あの時の反応にはびっくりした。普段のキレキレのドSとは全然違って、急に怯える少女になっちゃったんだよ。ほぼフリーズ。


 顔が赤くなって、こっちもドギマギしちゃった。照れているのかとその時は思ったけど、大間違い。本当にダメな事だったみたいだね。だったらそんな匂わせすんなよ、って話だよ。


 勇気を出しておおきな一歩を踏み出したつもりだったけど、大きく人生踏み外したよ。」


 もう、今日飲みに行かないかという、ありがたい申し出を俺は丁重に辞退して、新幹線に乗り込んだ。上りの新幹線終電は、早い。


________________________________________



 新幹線の車内で報告を入れる。


『橋爪さんと接触。敵意は会社にはあるが、真下様に対しては見られない。すでに過去のこととして思い出話のように語っていました。目新しい情報はなし。事件当日は勤務、早番とのことでした。裏はまだ取っていません。調査時間五時間。何か気になることがあれば、おっしゃってください』


 返信は一分で来た。


『ありがとうございます。現段階では気になることもありません』


 それだけだった。

 俺は画面を見ながら、昨日と今日で聞いた二人の話を頭の中で並べた。


 篠塚教授は「本心だった」と言った。橋爪は「罠みたいなもの」と言った。二人とも、嘘をついているようには見えなかった。そして二人とも、真下茉莉を恨んでいるかと言えば、そうじゃなかった。


 それが奇妙だった。


 普通、示談金を払わされた人間は、もっと怒る。もっと恨む。それなのにこの二人には、どこかに「仕方なかった」という諦めが混じっていた。楽しんでいたといったら言い過ぎなのだろうか。


 もちろん、真下茉莉は法を犯していない。間違いない。しかし、本当に被害者だろうか。彼女が匂わせぶりだったことも、確かだった。そして要領が良すぎる。


 次は綿貫聡。 一番想像がつかない相手だ。




________________________________________

 四、

________________________________________


 翌々日、綿貫聡に会った。


 事前に連絡し、指定されたカフェに行くと、綿貫は先に来て待っていた。25歳。眼鏡。細身。俺の緑色のドクターバックを見つけると、軽く会釈をしてきた。警戒はしていなかった。むしろ、明るかった。


「ごめんなさい、名前を忘れちゃったんですけど、探偵さんですよね?」


「はい。神坂と申します。」


「ご用件は、真下のこととお聞きしましたが?」


 真っ直ぐな目だった。なんの偏見もなくただ聞いてきている。


「ええ。真下茉莉さんとあなたの間にあったことをお聞きしたくて。」


「言うほどのことはないと思っているのですけど…?」


「彼女はそう思っていないようです」


綿貫は少し黙った。


「言うべきか迷っているなら、話せる相手は俺しかいませんよ。賞金の件、聞かせてもらえますか」


「ええ、まぁそうですよね。賞金の一千万円は二人で折半しました」


「その時に、トラブルになったんですよね? 分配率で?」


「ええ。賞金が僕の口座には200万円しか振り込まれなかったのです。彼女のところには800万円。真下に聞いたら、最初から僕にもそういう話をしていて、事務所にも話を通してあると言いました。もちろん聞いていません。話が全然わからなくて、事務局に確認したんです。そしたら、やっぱり担当の方も疑問を持っていたらしくて。」


「開発はほぼ、あなたが一人でやったと聞いています」


 綿貫は少し笑った。否定しなかった。


「そうです。アプリ自体はすべて僕が作りました。でも真下がいなければ、世に出なかった」


「どういう意味ですか」


「僕、人見知りなんです。」


 綿貫はカップをソーサーに戻した。

「コンペの資料を作って他人に見せるのも、問い合わせのメールを送るのも、受賞コメントを考えるのも、全部できない。直接会っていなくても、メールだけでもなんか怖いんです。アプリの中では自己主張できるけど、それを人に見せたり、説明したりする部分が、根本的に無理で」


「それを真下さんが?」


「全部やってくれました。完璧に。僕が何も説明しなくても、意図とか狙いとかこだわりとか、わかってくれたんですよ。受賞スピーチなんて、俺より俺らしくて。なんでこんなに俺のことわかるんだろうって、ちょっと感動したくらい」


「今は、俺と普通にお話しできていると思いますけど?」


「最近、急に克服できて来た気がするんです。トラブルも含めて彼女のおかげかもしれません。」


「好きになりました?」


「それはないですよ。そういうんじゃないです。真下も恋愛はできない人だと思います。」


 分かる人には分かるんだな、と思った。俺には分からなかったし、前の二人にも分からなかった。俺は少し間を置いて考えた。俺は何のためにここにいる? 真下茉莉はなぜ綿貫の名前を挙げて、俺と彼に話をさせているんだ…?


「それで、結局どういう話で落ち着いたんですか?」


「コンペの事務局に間に入ってもらって、半分の500万円ずつで。彼女が言うには折半という言葉は、ただ二つに分けるという意味だと思っていた。半分ずつとは知らなかった、ってことでしたけど、嘘でしょうね。」


「半分でも多いと思いませんでしたか」


「思いませんでした」即答で続けた。

「あの時の僕は真下がいなければゼロだったので。200万でも、ちゃんと説明してくれれば納得したかもしれません。500万円なら十分です。コンペを取ったおかげ就職先もすんなり決まりました。対人恐怖症みたいなのもだいぶなくなってきて、楽になりました。」


 これも嘘ではない。この男は本当にそう思っている。


「真下さんのことを、どう思っていますか」


 綿貫はまた少し笑った。今度は、少し違う色の笑顔だった。


「すごい人だと思っています。僕にはない部分を全部持っている。一緒にいると、——正直、助かるっていうより、怖いくらいで。でもその怖さが、嫌いじゃない」


 俺には、その気持ちが少しわかった。わかること自体が、少し嫌だった。


「真下さんとお近づきになったきっかけを伺ってもいいですか?」


「ええ。その賞金を取ったアプリです。もともとは、大学のサークルが一緒で、顔と名前くらいは知っていましたけど、サシで話をするような間柄ではなかったです。院に上がってから、僕の考えているアプリの話を彼女が聞きつけて、コンペに出すことを提案してきたんです。」


「それまで特に仲が良かったわけでもないのに、急に?」


「賞金を取れると思ってくれたみたいです。僕はそれがうれしかったし、真下はいくらでも金が必要でしたから。」


 俺は一瞬、驚きを見せてしまったのかもしれない。カフェオレを飲んでごまかそうとしたが、綿貫は意外に目ざとかった。


「ちょっと間違えたかもしれません。……えーっと。控えめに言って彼女は金遣いが荒いんですよ。ソシャゲのガチャ課金とかグッズのコンプリートすごいし、動画とかAIのサブスクリプションは何種類も入っているし、携帯は必ず最新の最高機種でしたね。PCも相当なハイスペックでしたよ。ゲームで負けちゃうのが嫌って理由で。だから通信速度も最速。あと食事。なんでもない普通の日のお弁当に三千円くらい払っていました。フカヒレの高級中華とか、段々になっている和食とか、うなぎ、てんぷら、刺身、ステーキだったら絶対にフィレ肉。洋服は僕詳しくないですけど、結構なブランド品みたいでした。


裕福な育ちではないと聞いています。ただ、『ハズレをひくのが本当に嫌い』っていつも言っていました。『お金がないせいで行動が制限されるのは我慢ならない』も口癖でしたね。今月いくら使ったかわからない、なんてこともしょっちゅう言っていました」


「だいぶしっかりしている方だと思っていました。」


 俺は素直な感想を言った。


「しっかりしていますよ。たっぷりお金をかけてしっかりした自分を仕上げているんです。誰だって完璧ではないでしょ。お金を使わずに仕上げることはできなかった、ってそれだけのことなんでしょう」


報告をした。


『綿貫聡さんと接触。前の二人よりも敵意は見られませんでした。どちらかというと感謝さえしているように見受けられました。事件当日は入社式、初出勤でした。裏はこれからです。所要時間は2時間』


今回も返信は早かった。


『ありがとうございます。報告書をお待ちしております』


 真下茉莉の言う、『わたしを恨んでいるであろう』三人全員と話し終えて、俺は事務所に戻った。報告書を書かなければならない。


 資料を並べ直して、ちゃんとしたカフェオレをいれ、飲みながら整理した。


 三人とも、印象だけなら黒より白に近い。


 そして俺には、もう一つ気になっていることがあった。


 真下茉莉は、本当に犯人を捜したいのか? 


 いや、もう一つあった。犯人は本当にこの三人の中にいるのか? 



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 五、

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 廣瀬に会ったのは、その夜だった。


 昔の馴染みのバーで、廣瀬はハイボールを、俺はスコッチのストレートをチェイサーありで頼んだ。ウィスキーは高級品でなくてもうまいというのが俺の持論だ。


「で、なんで俺に紹介したんだ。こんな意味不明な案件」


「神坂だから」


「それは理由とは言わない。」


「警察の案件じゃないといくら言っても、真下さんは引き下がらなかった。しつこかったよ。お断りをしてから何時間粘ってきたかな? とにかく部屋から出ない。あちこちに電話して、ネットで調べて、俺に聞いてきて、また電話して、ネットで調べて、俺に聞いての繰り返し…。で、いい私立探偵を教えろと言い出した。浮気調査と迷いネコ探し以外のことができる、ちゃんとした探偵を紹介しろ、とね。」


「なるほど。つい最近まで現役だった元刑事、豊富な現場経験、警察をやめた理由は自己都合。探偵としては最高の経歴だろ。なんでそれを三流というかな。」


「なんとなく…な。あるいは、もっとも信頼できる同僚のうちのひとりだ、とか言ったほうが良かったか?」


「いや、正解。三流でもいないよりはいい、って言っていたから。」


 廣瀬は実に楽しそうに笑った。


「で、お前の見立ては?」


「その前に警察の見解を聞かせろよ。」


「ん? 公式見解と変わらないよ。事件性は低い。被害にあったのは犬だけ。人間には何の被害もない。物証もない。事故だと考えるのが普通だろ。違うのか?」


 違わないよな、と思う。


 でも、そんな報告書でいいのだろうか。


 部屋に戻って、三人分の資料を見比べてみた。


 篠塚教授…セクハラで示談金200万円。仕事への影響はほとんどなく、家族にも知られていないため、問題を再燃させることはリスクを高めることでしかない。ただし、真下茉莉に対する未練は残っている。


 橋爪修…同じくセクハラ。会社が間に入り、同じく200万円で示談。会社に恨みがあると断言。示談金額にも不満。未練あり。結婚していない、また会社に知られているので、開き直っているが、もう一度となれば失うものは相当大きい。


 綿貫聡…アプリコンペの賞金の配分についてのトラブル。被害額は計算方法によるが、俺の見積もりなら600万円。真下茉莉が最大貰えるのは200万円として、一瞬でも振り込まれたのが800万円で、その差額という計算だ。


 もっとも犯罪をしかねないのは、橋爪だ。失うものは少なく、未練はタラタラだ。篠塚教授はまだまだ守るべきものがあるから、恨みがあっても一歩踏み外すだろうか? 綿貫はいったん被害にあいかけたが、納得しているように見える。


 それも、三人が嘘をついていなかったなら、というのが前提条件だ。嘘はなくても、必要な情報をすべてもらえたとは思えない。三人ともよくしゃべってくれた。しゃべり過ぎかもしれない。疑っていい。


 嘘ということで言えば、真下茉莉の依頼そのものを疑ってみるべきかもしれない。何かおかしい。しかし、真犯人を探す以外の目的があるのだろうか?


 真下茉莉に連絡を入れる。

『申し訳ありません。もう少し調査が必要です。報告書の作成にも少しお時間をいただきます。できましたら、またご連絡いたします』


 結局、先延ばしにした。まだできることがある。


 返信はなかった。


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  六、

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 仕事帰りの真下茉莉の父親に声をかけた。


「茉莉さんから依頼を受けて、篠塚さんと橋爪さんにお会いしました。例のトラブルの件で、二人に話を聞いたので、お父様から直接お話を伺いたいと思いまして」


「いまさらですか? 娘本人がそんな依頼を?」


「間違いなくご本人です。身元確認はしています。茉莉さんはワンちゃんが亡くなったことについて調べてほしい人間が三人いるとのことです。そのうち2人は真下さんも接触していたとのことで、お話を聞きに来ました。」


「そういうことですか。それで、犯人は分かったのですか?」


「まだ断言はできません。真下さんには心当たりがありますか?」


「逆怨みが動機なら、俺が知ってる二人なら、二人ともある」


「二人それぞれについての印象はどうですか? もちろん良いわけはないとは思うんですけど」


「話をするのもイヤだね。篠塚教授ってのは俺とたいして変わらない年で、娘に色目使いやがって。信じられん。本屋の店長は、純粋に好きだっただけで、何が悪いんだって開き直って。あんな男どもに茉莉がひかれるわけないのによ」


 真下父は、嫌だといいながら一気に言って、ため息をついた。


「あいつは、優しい子なんだよ。他人に冷たくすることができないんだ。ついつい親切にしちゃうんだ。止めときなって何度も言うんだけど、優しすぎて無理みたいなんだよな。だから、ろくでもない男が寄ってくる。本当ならいまごろ素敵な彼氏のひとりくらいいるはずなんだけどな。恥ずかしがりやだから、それも難しいんだよな。まぁ、彼氏なんかいなくてもあいつが幸せならそれでいいけど、どうも運が良くないんだよな…」


「昔から、なんですか?」


「うーん。まぁ、そう言ってしまえばそうなるかな。かわいそうなんだよ。あいつは何も悪くないのに、すぐに巻き込まれる。その度に傷ついて…本当にどうしようもない時には俺もでていくけどな。かわいそうだよ。


 もう少し、他人との距離を最初から取れればいいんだけど、そこはやっぱり優しさが邪魔しちゃうんだろうな。」


 俺は親のひいき目はこれくらいで切って、本題に入った。


「城輔ちゃんが亡くなった時のことを詳しく教えてください。落ちていた団子みたいなものを食べたと聞いていますけど」


「うん」


「場所はわかりますか?」


 俺はストリートビューの画面を見せた。


「本当に家の目の前だよ、城輔を狙って食べさせるために置いてあったとしか思えない。たしかこの辺り」


 真下父は、家の門柱を指さした。


「それを躊躇わずに、止めるまもなく食べたということですよね? 普通、犬は匂いを嗅いでから食べるイメージですけど」


「門の扉を開けたり、水やトイレの片付けをする準備で、少しバタバタしていたから、多少そういうことはあったかもしれないけど、時間はごく短かったはずだよ」


「それからの出来事を教えていただけますか?」


「そこは俺も分からないんだよ。なにしろすぐに出勤だったから、5分も家にいなかったんだ。妻が夕方に帰ってきたら、もう死んでいたらしい」


「得体のしれない物を食べたのに、様子を見たりとかしなかったんですか?」


「しなかった。あとで動物病院の先生にも怒られたけど、そんなにまずい事とは全く思わなかった。いままで城輔の面倒はほとんど茉莉がみてたから、俺、犬のことよく知らないんだよ」


 あまりショックを受けている様子にも見えなかったが、そこには触れないでおいた。


「ということは、動物病院で最初にお話を聞いたのは奥様ですか?」


「そう」


「できれば、動物病院と奥様にもお話を聞きたいのですが…」


 真下父に動物病院の名前と、真下母の連絡先を教えてもらい、俺は翌日に行くことにした。



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 まず先に動物病院へ行った。事前に電話で要件を伝えてあったので、獣医師は要領よく様子を教えてくれた。来院した時には死後8時間程度は経っていたこと、充分な致死量の砒素であったこと、混入させたエサの量がそもそも多かったこと。


「つまり、どう思われましたか?」


「確実に殺せる方法だと思います」


「道端に落ちている団子を食べたと思いますか?」


「散歩中の拾い食いであれば、普通は飼い主が途中で止める時間があるくらい大きなエサです。見ていないなら仕方ないですが…」


「毒が入っていると知っていて、敢えて放っておいたとか、もっと悪い可能性もあると?」


「仕事柄いろいろなペットさんの死を見ていますが、大事な家族を殺しておいて動物病院に来る人はいませんよ。」


「家族の間で情報共有がなかったとしたらどうです?」


「そこまでいくと獣医師の立場を越えた話でしょう。」


 報告書には載せません、個人的見解で構いませんと言って、俺はもう一度聞いてみた。


 その日の夕方には、真下母にも話を聞いた。改めて廣瀬とも話をしてから報告書を仕上げ、真下茉莉に連絡を入れた。明日、来ると言う。



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七、

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 真下茉莉は、この前と同じ服装だった。ただワンピースの色が浅葱色から、薄桃色になっただけだと思う。


「シーズン毎に同じ形のものを三色買うんです。そうすれば、買うタイミングも決まるし、着るときも迷いませんから。シャレた服装は好きじゃないけど、みっともない格好はできない。それだけです。」


 綺麗な服で、色白の肌によく似合っている。美人だよな、と思ったが言うことも態度で示すこともやめるに越したことはない。なにしろ相手はセクハラ二件で400万円せしめた強者なのだ。


 今日は、カフェオレを用意した。真下茉莉は、以前にいらないと言いましたよね? と確認してきたが、俺はその言葉を退けた。


「こちらが報告書です。三人の中に犯人はいません。はっきりとしたアリバイがあり、裏も取れました。」


「それだけですか? わざわざ呼び出す理由があるのだと思っていました。」


「察しがいいですね。その通りです。これより先はどうしても、依頼人であるあなたの意向をいま一度確認しながら話をするべきだと。……あなたは、城輔くんが殺されたのは、自分に対する嫌がらせだと言っていましたが、今でもその考えは変わりませんか?」


「どういうことでしょうか?」


「近年改正された動物愛護法は、大きく厳罰化されて、動物を所有物と見るよりも、大切な命あるものと扱われています。もちろん、人を殺す殺人罪なら死刑まであり得るのに対して、犬を殺した場合では、最長でも5年の禁固刑。大きく違いますが、それでも人間の所有物とみなされていた昔の法律とは大きく違います。」


 まだ続けるか? という意味で俺は真下茉莉の眼を見た。何も揺らいでいない。


「これは自分の飼い犬だったとしても同じです。自分の所有物だから、生殺与奪の権利を持つとはなりません。解釈はむしろ悪いほうに影響するようです。そしてその割に、あなたを傷つける復讐の手段としては、回りくどい」


 俺は、封筒に入ったもう一つの報告書を出した。


「先程の報告書は、明白な事実だけに基づいた間違いのないものです。他方こちらは、犯人の特定につながる、しかし不都合な真実を含む可能性のある、推理です。ただおそらくこれを出せば、警察は事件として立件するでしょう。その程度の説得力はあります。


 しかしこの推理が真実と証明するには、立件では足りません。真下家のみなさんにも事情聴取を受けていただくでしょう。警察が本気で捜査すれば現場検証、科学調査はもちろん、犯人逮捕、起訴まであります。となればおおごとです。新聞雑誌テレビ、ネットニュースに真下家の名前くらいは出る可能性があります。」


 真下茉莉はまだ揺らいでいない。


「こちら、お受け取りになるということであれば、成功報酬の20万円を頂きます。お読みなってから、警察へ提出するもよし、ネットに公開するもよし、廃棄するもよし、です。」



「一つ聞いていいですか」


 彼女が言った。


「どうぞ」


「あなたは、私のことを、どう思っていますか」


 俺は少し驚いた。脈絡がない。


「どういう意味で、ですか」


「広い意味で」


 俺はカフェオレを持ったまま、少し考えた。


「悪意のある人だとは思っていません」


「でも、と言いたそうですね?」


「でも、という続きを期待していますか」


「少し」


 俺はカップを置いた。


「あなたが何かをしたとき、周りの人間は自分が傷つけられたとは気づかない。それどころか、当然の帰結だったと妙に納得してしまう。それは、強い正義感のせいかもしれません」


「褒めていますか?」


「少し褒めています。ただ、手放しで褒められるほど単純じゃない。正義感が強くて、意外に感情も強い。結構やっかいな人かな、と思います」


 彼女は、俺を見た。


「正直ですね」


 真下茉莉が、笑った。


 今までで一番、人間らしい顔だった。しかし、それもほんの一瞬。 


 彼女は、調査料金と経費と成功報酬を現金で支払った。最後まで冷静だった。


 窓の外で、風が吹いて、木の葉が揺れた。感傷の後片付けをする春の雨は、とっくに仕事を終えていた。


 明日になれば篠塚教授は大学院で研究をしているのだろう。橋爪はコンビニの袋を下げてベンチで昼飯を食っているだろう。綿貫は会社員として新しいアプリを作っているだろう。


 そして真下茉莉は、どこかで誰かと話しているだろう。完璧な角度の眉で、計算された口元で、自分の周りの情報をどんどん公開して、相手に理解を要求し、少しの好意は喜んで受け取るが、一線を越えたら徹底的に排除する。攻撃する。


 それは犯罪じゃない。


 でも反則だ、と思う。


 3杯目のカフェオレを淹れながら、俺は窓の外を見た。


 曇り空が、少しだけ明るくなっていた。


 でも、まあ、いい。


 あの依頼人はまた何かやらかして、また誰かに恨まれたとか言って、またここに来るかもしれない。


 釈然としない俺は、それでも多分、引き受ける。


 最悪だ。


 真実を知った彼女がどうするか、少し気になる。真実は最初から知っていたのかもしれない。真下茉莉は、誰が犯人であっても悪は悪と言い切りそうではある。隠蔽は悪だ、という考え方の持ち主だろうが、公表したらどうなるか、どこまで想像できているのだろうか?


 まぁ、どっちでもいい。彼女が時代の産物なら、面倒なことだ。


 俺は、とりあえず廣瀬を呼び出して、1杯奢ってやるとしよう。





 了


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