雨の日の記憶4――再会、そして別れ
「……君のことが好きだ」
ふだんあまり感情を表に出さない彼の言葉。それだけで、私には十分だった。
「彼女のところに行ってあげて。あのままあそこにいられたら、困るでしょ」
彼に、新しいビニール傘とタオルを渡した。彼は戸惑いながらも、部屋を出ていった。ずぶ濡れで外に立っている、あの女性のところへ。
ほんの少し開けたカーテンのすき間から、二人が見える。
彼女が傘を取って歩き出す。彼はそれを見送る。そう、これで終わり。彼は私のところへ帰ってくる。
まっすぐ歩いていた彼女が、ふいに地面に崩れ落ちた。彼は、傘を投げ捨てて駆け寄る。
「……リサが」
彼は今、彼女と寝室にいる。倒れた彼女を心配して、ずっとそばについている。
まだ世の中に知られていない逸材を求めて、多方面にアンテナを張っていた。そんな時に出会ったのが、彼の音楽だった。折れてしまいそうなギリギリのところに立っていながら、必死に自分の居場所を求めている。そんな姿が胸に響いた。いったいどんな人が、こんな音楽を紡いでいるんだろう。いつしか、彼の姿を追い求めていた。
小さなライブハウスで偶然見かけた彼は、生気を失っていた。そばによると、酒のにおいをさせていた。「もう音楽はやらないんですか」思わず声をかけた。放っておいたら消えてしまいそうなほど、彼は弱っていた。それでも、何となく感じるものがあった。彼はきっと這い上がれる。そばにいて、それを見守るのが私の使命なのかもしれない。
無気力なまま日々を過ごしていた彼に、そっと寄り添った。もう一度、あなたの音楽を聴かせてほしい。彼は少しずつ、心を開いてくれた。その目に少しずつ光が戻っていくのが、嬉しかった。
「……僕のそばにいてほしい」
口元に手をやる、いつもの癖。支えていたつもりが、いつしか彼は私にとって、なくてはならない存在になっていた。音楽だけではなく、そのすべてに惹かれていた。背中を丸めて、ギターを弾く後ろ姿。低音で、少しゆっくりした話し方。台所に立ってこちらを見る、リラックスした笑顔。
寝室のほうを見る。扉は閉まったまま。物音ひとつしない。
二人はどうしているんだろう。扉を開ける勇気はなかった。でも、意識はずっと寝室に向けられていた。何も手につかない。その時間は、ひどく長く感じられた。
そのとき、寝室のドアがそっと開いた――出てきたのは、彼が「リサ」と呼んだ、あの女性。サイズの合わない、彼の大きなトレーナーを着ている。
「ユウね、寝ちゃってる」
彼女は少し足をふらつかせながら、ソファに座って私を見た。「だから、起こさないようにそっと出てきたの」
お水、くれる? そう言って、彼女は私に笑いかけた。突然のことに動けずにいた私は、あわてて台所へ行ってコップに水を注いだ。
「ありがとう。えっと……橘みずき、さんだよね」
「はい……えっ?」
「雑誌で見たの。社長さんだよね。ユウたちのバンドもお世話になってる」
そう言うと、彼女は水をおいしそうに飲んだ。
「ユウのこと、心配してたの。寂しがり屋だし、大丈夫かなって。だから、よかった」
迷いのない、まっすぐな言葉。そうか、この人が、彼の心の中にいた女性……。
彼女はふいに立ち上がって自分の荷物を開けると、突然私の目の前で着替え始めた。彼のトレーナーをソファに置き、まだ少しふらつく足で玄関へと向かう。
「濡れた洋服、捨てておいてくれる?」
「――待って。あなたの体は大丈夫? 彼に、何か言わなくていいの?」
彼女はそれには答えず、私の顔をじっと見た。吸い込まれそうな、強いまなざし。
「私と一緒にいたら、だめなの。ユウのこと、よろしくね」そして、ドアは閉じられた。
一瞬の出来事に、頭がついていかない。玄関のドアをぼんやりと見る。
そうだ、彼はどうしているだろう。寝室へ行き扉を開けると、彼はベッドの脇の椅子でまだ眠っていた。昨日はかなり遅くまで作業していた。きっと疲れが出たんだろう。
その寝顔は、今まで見たどれよりも幸せそうだった。
思わず、そっと髪に触れた。涙がこぼれた。こんなに近くにいるのに、どうして……。
「……リサ?」
彼は目をさますと、すぐにベッドを見た。「リサは、どこ?」