第三話 灰と鉄の国
薄暗い地下水道を、セレンはひとり歩いていた。
頭上には無数の管が張り巡らされ、どこからか水が滴り落ちる音が響く。灯りは持たされていたランプひとつ。魔法が使えない今、それすらも頼りなかった。
歩きながら、母の手の温もりを思い出す。
あの最後の笑顔が、頭の中でゆっくりと滲んでいく。
やがて、視界の先に扉が見えた。錆びついた鉄の門。
無骨で重厚なその存在感は、まるでアルデリアとヴェルンシュタールの差異を象徴しているかのようだった。
扉が軋む音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、灰みがかった金髪を芝生のように生やした男だった。黒い服に身を包み、鋭い灰みの瞳がセレンを見下ろしている。
実物の大人の男を見るのは初めてのセレンは面食らってしまった。黒い服も相まってまるで熊のようだ。大きい体躯に恐怖さえ感じる。
「……お前が、セレンか」
低く、くぐもった声だった。
セレンはすぐには答えられずに、一呼吸おいて答えた。
「……はい」
セレンが答えると、男はふっと小さく息を吐き、鉄門を完全に開けた。
「俺はアーヴィング・ヴィレル。エリサの兄だ。ここから先は俺が保護する。言われた通り、アルデリアでの生活のことは一切口にするな。女言葉も、癖も、全て忘れろ」
「……はい」
「はいではない。今の返事は“了解しました”だ」
「……了解、しました」
アーヴィングの目が一瞬だけ和らいだように見えたが、すぐに背を向けた。
「ついて来い。馬車を待たせてある。お前は今から“セレン・ヴィレル”として、俺の養子ということになっている」
「ヴィレル……」
それは、母の姓だった。彼は小さく呟いたあと、唇を噛んだ。
どんな形でも、母との繋がりが残ることが、唯一の救いだった。
馬車に乗り込むと、車輪がガタンと軋み、鉄の大地を進み始めた。
セレンは窓の外に目を向けた。夜明け前の空はまだ灰色で、街並みには煤が薄く降り積もっている。煙突が無数に立ち並び、煙が空へと昇っていくその光景は、アルデリアの光と魔法の輝きとは対極だった。
彼はその中に、一瞬、母の姿を探してしまう。
もちろんいるはずがない。
ここは、灰と鉄の国。
魔法を「迷信」として禁じ、女性を「弱き者」として見下ろし、強さと技術だけを価値とする国。
そして、セレンが男として生きていくことを、唯一許された場所だった。
「急だが、今日からお前には軍事学校へ入ってもらう。入学試験は手配済みだ」
「軍事、学校……」
「当然だ。お前は“男”だ。女のように魔法など使えぬ分、腕力と知力で生きることを求められる。それが、ヴェルンシュタールの“正義”だ」
セレンは何も言えず、視線を落とした。
馬車はしばらく進み、大通りに入る。
蒸気機関車が鉄橋を駆け抜け、労働者たちが煤だらけの顔で早朝の工場へと向かっていく。
“この世界の理不尽”が、音と臭いで全身にのしかかる。
だがその中で、セレンは感じていた。
かすかに――胸の奥のどこかで、何かがざわめいていた。
魔法ではない何かが、ここでの生に触れようとしていた。
炎のような熱さでもなく、光のような明るさでもない。
もっと、無機質で冷たい。
けれど確かに、彼の中で何かが目覚めかけていた。
そうして彼は、この国での“新たな生”を受け入れる。
かつての魔女の仮面を脱ぎ捨てた、ただの“少年”として。