第二話 別れの夜
月は雲の合間に隠れたり現れたりしながら、蒼白い光を地上に注いでいた。
セレンは、荷物を鞄に詰めながら、胸の奥にこびりついた問いを押し殺していた。
これは夢じゃない。
現実なのだ。
今夜、自分はこの国を去る。
「セレン、ちょっと」
母の声が震えている。振り向くとそこにははさみを持った母。
教科書で見た男は髪が短かった。そういうことだろう。ぶわっと湧く涙を堪えながらつとめて明るく言った。
「かわいく。切ってね」
手入れを怠ったことの無い長髪がざくりと落ちていく。
全て終わった後に鏡を覗き込むとそこには、ショートヘアーの自分。若干ボブよりなのは母なりの気遣いだろう。
母はその後何も言わずに、淡々と準備を進めていた。街の外れにある地下水道のルートを、魔力で干渉されにくい古い紙に描いて渡してくれた。
「兄さんのところへ行けば、安全よ。あの人は――信じられる」
母エリサの声は静かだったが、その奥にある焦燥は、言葉以上に伝わってきた。
家を出て、夜の石畳を歩く。
アルデリアの町は静かだった。魔法の光でゆらめく街灯が、夜風に揺れて影を落とす。
セレンは街を見上げた。
高くそびえる尖塔、漂う魔力の匂い――すべてが美しく、夢のようだった。
ここが自分の居場所だった。否、そう“思い込もうとしていた”場所だったのだ。
ふと、母が立ち止まった。
そこは、町の外れにある廃屋だった。今は使われていない古い倉庫の裏手に、地下水道への隠し扉があるという。
「ここで――お別れよ」
月が顔を出し、エリサの表情を淡く照らす。
その顔に、セレンは見たことのない痛みを見た。強く、そして壊れそうな光。
「ねえ、教えて。……どうして、私を“女の子”として育てたの?」
沈黙が、風の音の中に沈んだ。
そして、ぽつりと母が語り始める。
「……あなたには、双子の妹がいたの」
セレンの目が揺れる。初めて聞く言葉だった。
「でも、生まれてすぐに死んでしまった。生き残ったのは、あなた――男の子だった。でもあのとき、私は思ったの。この国で男に生まれた子は、すぐに“奪われる”って」
声が震えていた。
「だから、産婆に幻影を見せる魔法をかけて、報告を“逆”にしたの。亡くなったのは“男児”だと。あなたを――“セレン”を、女の子として育てた。間違いだったとは思ってないわ。そうするしか、なかったのよ」
セレンはただ、母の顔を見つめていた。
その目に、あふれるものを押し殺すような決意が宿っていた。
「……ごめんね。ずっと、嘘をついて」
風が吹いた。春の夜の冷たさが肌をなでる。
セレンは何かを言おうとした。けれど言葉にならなかった。
ただ、そっと母の手を握った。
「ありがとう、お母さん」
それが、彼のすべてだった。
隠し扉が軋む音を立てて開かれる。
古い階段を降りれば、あとは闇の中を進むだけ。
その先にあるのは、これまでとまったく違う世界。男だけの国。魔法の存在を否定し、科学と軍事によって繁栄してきた大国、ヴェルンシュタール。
セレンは最後にもう一度、振り返った。
母は立ったまま、手を振っていた。
涙はなかった。ただ、強く、揺るがず、笑っていた。
扉が閉まり、夜が完全に口を閉ざした。
少年は、仮面の魔女だった過去を捨て、
――運命を歩き始める。