プロローグ 日常
今日も完璧な日だった。
寒さも和らぎ、生きとし生けるものが活動を開始する頃。新学期にふさわしく、碧眼を彩る学校用の薄めのブラウンメイクも金糸の髪を巻いたヘアアレンジも完璧だった。
華奢な脚を彩るフレアスカートと重厚なローブをふわりと翻しながら、その子は鏡の前で微笑んだ。
「うん。今日も可愛い」
アルデリア魔法学園の制服は、自由なアレンジが許されている。その自由の中で、セレン・ヴィレルは“華やかに生きる”ことを選んでいた。
街路の桜が花をつけ、石畳の道にピンク色の影を落としている。春はこの国がいちばん美しく見える季節だった。
「おはよう、セレン!」
学園の門をくぐると、すぐに声が飛ぶ。振り返れば、いつもの顔ぶれ。リーナに、アンに、ステラ。みんなが口々に褒めてくれる。
「そのリップ、春限定の?」
「髪、巻いた?超似合ってる〜!」
「ふふ、気づいてくれてありがとう。朝ちょっとだけ時間かけたの」
セレンの返しはいつも柔らかくて、絶妙だ。嫌味にならず、けれど確かに“自分の魅せ方”を心得ている。誰もが自然と好意を抱くのは、そうしたセレンの空気を読む力と、人を包む明るさがあるからだ。
女だけの理想郷、アルデリア。魔法という奇跡に選ばれたこの国で、セレンは“少女”として、何の疑いもなく日々を過ごしていた。
だが、この日常には重大な秘密がある。
セレンは——男だった。
けれどその事実は、母しか知らない。セレン自身も“男であること”を意識せず生きてきた。魔法の国アルデリアで“女児”として生まれ育てられ、彼自身もまた“セレン・ヴィレルという少女”として、日々を楽しみ、学び、輝いていた。
教室に入り、窓辺の席に腰掛けると、隣に座っていたリーナが小声で言った。
「ねえ、セレン……今日からの魔法史って、建国期の話なんだって。重そう……」
「そう?私、けっこう好きだよ。昔の話ってロマンあるし」
魔法史の授業は、セレンのお気に入りの時間でもあった。
教師が黒板の前に立ち、教科書を開く。
「では始めましょう。今日は、アルデリア建国の起源についてです」
教室の空気が引き締まる。
「では、教科書の十三ページを開いてください」
教師の合図とともに、教室中でページをめくる音が重なった。教壇に立つのは、魔法史担当の老女——ロジーナ先生。小柄で背筋の曲がったその体からは想像できないほど、彼女の声はよく通る。
「さて、生徒の皆さん。アルデリアは何年前に建国されたか、答えられる方?」
静寂の中、セレンがそっと手を挙げた。リーナが横で目を丸くする。
「セレンさん、どうぞ」
「二十年前、です」
「正解です。今から二十年前、産業大国ヴェルンシュタールでは、女性に人権がなく、参政権も、財産を持つ自由すら認められていませんでした」
ロジーナ先生の声に、教室の空気が少し重たくなる。
アルデリアは、女性たちが抑圧から逃れ、自由と誇りを取り戻すために築いた国。授業で何度も聞いた話だが、それを「実感」している生徒は少ない。この世代は自由を得た後に産まれた世代だからだ。
「しかし、そんな時代に現れた一人の女性が、運命を変えたのです。その名はメアリア・エル=ディアナ。彼女は魔法に目覚め、同じく魔力を持つ女性たちを率いて蜂起しました」
教科書の挿絵には、長い赤髪を風になびかせた女性が描かれている。貧民街で身を売る生活をしていたという彼女が、魔力を得てヴェルンシュタールの中枢にまで影響を及ぼしたというのは、まるで伝説のようだった。
「彼女の登場以降、次々と女性達は魔法の才能に目覚めていきました。彼女は魔力に目覚めた多くの女性たちと共に、新天地を目指しました。そして彼女は現女王として今も君臨しています」
「それが、アルデリア建国のはじまり……」
隣のリーナが小さくつぶやいた。
セレンは頷きつつ、窓の外に目を向けた。
かつての命を懸けた戦争の末に得られたこの安寧の地。けれど、セレンにとってはずっと、家であり、故郷であり、温かく優しい“日常”そのものだった。
だが、セレンは疑問を持ってしまった。女性しか魔法が使えないはずなのに、なぜ男である自分が魔法を使えるのだろう。
それまで何度も胸の奥に沈めてきた問いが、ほんの少しだけ、輪郭を持ちはじめた。
授業の終わりを告げる鐘の音が鳴る。
教室に広がる談笑と椅子を引く音の中、セレンはゆっくりと立ち上がった。
何も変わらない一日。
でも確かに、心の何かが揺らぎはじめていた。