推し語り聞きます
『推し語り聞きます 30分500円』
チリンチリン、と澄んだベルの音が聞こえた。喫茶店のドアから入ってきたお客さんは、私の座っているテーブル目がけてやって来る。
「ちょっと私の推しについて聞いてもらえませんか?」
「はい、大丈夫ですよ。その前にオーダーを」
手許の使い古されたメニュー表を渡すよりも前に、お客さんは店主に向かってコーヒー1つ、と告げた後、私の顔をジッと見つめ早口でまくしたてた。
「いいですか、まず私の推しは名前がいいんです」
推し活、という言葉が世に溢れるほど、推し活を楽しんでいる人は結構多い。
私は、楽しみながら推し活をしている人の『推し語り』をただ聞くだけというアルバイトをしている。
最初は暇そうにしている叔父の、喫茶店営業の助けになればと思ってはじめた。
叔父が定年後に趣味で始めた喫茶店は、商店街の片隅の目立たない場所にあったので、なかなか客足が伸びず困っていたのだ。
まず、この店に来た推し語りをしたい人は、コーヒーでもなんでもいいのでメニューの中から1つ以上オーダーをしてもらう、というシステムを採用した。
結果は上々で、喫茶店の売上げは右肩上がり、私も大学の授業の合間にアルバイトができて懐が潤った。
推しを推している人たちは、2次元や3次元の推しを愛し、応援している。ライブやイベントに行ったり、それが出来なければ動画配信やDVDを見るし、グッズを買う。同じ推し仲間と聖地巡礼に出かけたり、コラボカフェでアクスタと撮影してSNSに書き込む。推しと同じ趣味を始めることや、推しとお揃いのファッションを楽しむことも、推しの歴史を調べたり研究したりすることも全て推し活だ。
さらに、推し活をすればツライ日常を忘れることができたり、幅広い世代の仲間ができることで交友関係が広まったり、新しい知識が身につくなどの二次的な効果も生まれるらしい。
『推し語り』は、ただ推しの良さを語り、推しの布教をすることを言う。
「メンカラが赤というのも天才なんですよ。わかりますか。穏やかに見えますけど、このグループを盛り上げていこうという秘めたる情熱が赤なんです」
いつの間にかテーブルの上には、推しのアクスタや推しのキーホルダーなどが散乱している。見たことがあるようなないような、ツルツルで毛穴など存在しないアイドルの顔を私は何も言わず見つめた。
「わかりますか! 顔が大優勝なんです!」
私は何も言っていないのだが、推しを語りたい人はこちらが何を考えていても、関係なく自分の思いをぶつけてくる。同意も批判することもなく、私は穏やかな顔でその話を聞くだけだ。
このバイトを始めるまでは知らなかったのだけれど、私のように無駄口を叩かず話を聞いてくれる存在は少ないらしい。
「全国を巡るツアーがあって、もうライブも最高で気持ち良く家に帰ったんですけど、親がいい顔をしないんですよね。いつまでそんなことやってんの、お金の無駄遣いだ、早く結婚しろってうるさくて」
大変ですね、と顔を少し歪めて頷く。ただそれだけで、話をしている人は満足してお金を払ってくれる。
喫茶店の店内だから、暑い日も寒い日も快適に過ごせるし、仕事の内容は話を聞くだけという簡単な作業であるこのバイト。欠点を探すとするならば、熱心に推し語りする人の熱量に負けてしまいそうになるということぐらいだ。
ある日、私はその熱量に負けてしまったようだった。高熱が出てフラフラする。
病院からの帰りに叔父の喫茶店に立ち寄り、風邪をひいたから治るまでしばらく休むと伝えた。
薬を飲んで眠ることにしたのだが、推し語りで聞いた多種多様な推しが、私を追いかけてくるという悪夢を見た。アイドル達は爽やかな笑顔のまま迫り来るし、馬や犬、ネコ、兎などの動物が足元で絡まりうまく走れないし、電車や戦闘機がビュンビュン通り越していく。推し語りで聞いてきた推したちの詳細なディテールが、無駄な臨場感を高める。
怖かった。全身から汗が噴き出し、体が硬直する。もうダメだ、と思ったところで、私の推しが手を伸ばして助けてくれた。
チリンチリン、とドアベルの音が店に響く。
「元気になったかい?」低くてずっしりとした落ち着きのあるバリトンボイスに、私の鼓動が早まる。
喫茶店を営む前は商社で働き、その頃から着ていた上等なシャツに、シンプルな黒いエプロンを合わせていて嫌みがない。ツーブロックの髪を整髪料で綺麗に整え、時折はらりと落ちてくる髪束は大人の色気を感じさせる。週に1度はジムに通い、喫茶店を閉店した後で1時間のウォーキングを欠かさない。美しい姿勢でコーヒーを注ぐその姿は、美術館に収められた絵画のようだ。
「今日もよろしくお願いします」
「無理しないでね」パチンと片目を閉じたウインクが似合う私の叔父は、私の推しだ。
誰かに語りたくてうずうずしながら、今日もアルバイトを始めた。