第39話
更に月日が流れ、食糧も尽きかけた頃だ。鈴はただ兄の帰りをひたすら待つという事に縛られた生きる屍と成り果てた頃ともいえる。今まで誰かが訪れたことなど一度としてなかった境内から物音が聞こえてきた。鈴がその音を聞き逃すはずもない。
兄が帰ってきた。
そう思って鈴は飛び起きようとしたが、まともな食事も取れずに衰弱して痩せ細った身体では、起き上がるのもやっとだ。そしてヨロヨロと引き戸に近づいて開けようとしたときだ。
「こりゃあ今年も草刈りのしがいがありそうじゃ」
初老の男性の声が聞こえてきた。明らかに兄ではないことに気づき、鈴は引き戸から離れた。
老人の正体はこの神社の神主だ。といっても、ここは境外末社で本社は麓にある。ここには年に一度手入れに来る程度で、その日が今日なのだ。なのでその姿は神主らしくなく、どう見てもただの掃除夫だった。
鈴は今まで以上に息を潜め、大人しくした。外からは老人が言っていたように草刈りの音が延々と聞こえてくる。時折やれ腰が痛いだとか、やれ暑いだとか、やれ腕が疲れただとか、愚痴が聞こえてくる。そんな中、鈴はひたすら厄災が通り過ぎるのを待つしかなかった。
「うーっはぁ。さて、昼にしようかの」
老人は伸びをすると草刈りを止めて道具を置き、代わりに持ってきた弁当を拾い上げた。そしてお堂に近づき、賽銭箱の脇を通り過ぎ、階段を上がった。
その音に鈴は反応し、リュックサックに手を掛ける。中には兄に託された父親の日記が入っている。なにを無くしてもこれだけは無くせない。
老人は階段を上りきらず、途中でクルリと向きを変えると階段に腰掛けた。そして弁当箱を広げて食べ始めた。
鈴は老人が引き戸を開けないようなので、緊張が解けて胸を撫で下ろした。しかし危機が去ったわけではない。直ぐに気を引き締めた。
老人は昼飯を食べ終えると、お茶を飲みながら境内を眺めている。小鳥の声を、木々のざわめきを聞きながら休んでいるようだ。早く居なくなってほしいのに、老人は鈴の願いとは裏腹にノンビリとしている。
鈴は緊張の所為か、喉がカラカラになった。水が飲みたい。でも今そうやって物音を立てるのはマズい。ひたすらに耐えるしかなかった。
暫くすると、いびきが聞こえてきた。どうやら老人は座ったまま眠ってしまったようだ。
鈴はここぞとばかりに水筒を取り出し、蓋を開けて水を注ぎ、飲んだ。そして蓋を閉めようと蓋を水筒に被せようとした。
「ふあっ!」
突然の老人の奇声。
「ふお。はぁ、眠ってしまったかの」
どうやら目を覚ましたらしい。鈴は蓋を水筒に被せようとした姿で身動きが取れなくなってしまった。
「ああ、茶を零してしまった。まぁよい。さて、残りをやっつけてしまおうかの」
老人は腰を上げ、ひと伸びすると道具を取りに戻り、再び草刈りを始めた。鈴はその音に紛れさせながら蓋をして、水筒を仕舞い、安堵の息を漏らした。しかしまだ安心はできない。老人はそこに居るのだから。
ただひたすらに草を刈り、時折引き抜く音だけが境内に響いた。その間に鈴はいつでも逃げ出せるよう腹ごしらえをし、リュックサックを背負った。もう待つのは終わりだ、とでも言わんばかりに。
小一時間もすると草刈りの音が止んだ。老人は道具を置き、別の掃除道具を持つとお堂へ向かった。賽銭箱の落ち葉を取り除き、軽く拭き上げる。階段に足を掛けると、欄干を雑巾で拭き始めた。そのままお堂をぐるりと回りながら、擬宝珠を拭き、欄干を拭き上げた。続いて箒に持ち替え、外縁を掃き掃除して乾拭きをする。
鈴はいつ引き戸が開かれるか気が気でなかった。その緊張感に耐えきれず、ちょうどお堂の裏手に老人が行ったと思われるタイミングで、力を振り絞って引き戸を勢いよく開け放ち、お堂から飛び出した。
「うひゃあ!」
お堂の裏手から老人の驚く声に続けて、尻餅をついたような音が聞こえてきた。
鈴はそんな音を気にせずお堂の階段を駆け下り、雑草で見えなかった石畳でできた参道を駆け抜け、デコボコの石階段を降りて鳥居をくぐり抜けた。何度も転びそうになりながらも山道を駆け下りた。
あの老人が整備したのだろうか。兄と共に通ったときより、かなり歩きやすくなっている。
そして一気にあの案内板の立てられていた分岐点が見えてきた。鈴は足を緩めて後ろを振り向いた。そこに追いかけてくる老人の姿は無かった。辺りにも人影はない。静かな山の中、鈴の五月蠅い呼吸音だけが響いている。
案内板まで辿り着くと足を止め、息切れが収まるまで休息をした。水を飲み、老人が追いかけてくるのを警戒しながら。
結論から言って、老人は追いかけてこなかった。誰も居ないのに扉がいきなり開くことはよくあること。神の悪戯くらいにしか思わないからだ。鈴の姿を見たわけではないので、またかくらいにしか思っていないだろう。
鈴は息が落ち着いてくると、ゆっくりと下山し始めた。その山道はやはり兄が通ったときより明らかに整備されていて、靴を履いていなくてもかなり歩きやすい。歩きやすいとはいってもここは山道。気を抜けば足を滑らせ大怪我をしてしまう。この間のように。
しかし何処で道を間違えたのか、一向に山から下りる気配が見られない。それどころか登り道になっている。兄と違う道を歩いているなどと夢にも思っていない鈴は、なんの疑いもせずそのまま進んでしまう。
日が暮れても麓に降りることなく、山道は続いている。鈴は兄が禁止していたランタンを使って足下を照らし、歩き続けた。
時折木の枝が折れるような音が聞こえてくる。野生動物でも居るのだろう。鈴はそんな音が聞こえてくる度にビクビクと怯えて足を止め、様子を窺っては逃げるようにその場を離れた。
初めのうちは興奮して気を張っていたが、それよりも疲れの方が勝っていき、歩きながらウツラウツラしてきた。山道を右へ左へフラフラと歩く。お腹も空いている。そういえば、今日の分をまだ食べていなかった。
しかし今は食べるより眠い。
眠いけど歩かなきゃ。
なのに足が前に出ない。
コクリコクリと半分以上夢の中に居ながらも、歩かなければという強迫観念でもあるのかというように、半歩にも満たない歩幅で一歩、また一歩と足を擦るように歩く。そしてついに意識を失い、倒れてしまう。
「痛っ」
その痛みで目を覚まし、再び立ち上がって歩く。
立ち木にぶつかる。
山道から外れる。
木の根に躓く。
藪に突っ込む。
上げたらキリが無いほど居眠り歩きをし、目を覚ます。そしてとうとう、転んだくらいでは目を覚まさなくなった。




