1章の1 この人こんなんでいいのかしら
泥縄第二高校の男子・スシは、たるんで、だらけて、緩んで、油断していた。
9月も下旬になっていたが、まだ暑さが残っていた。翌週に衣替えを控え、制服夏服のシーズン終盤の木曜日、放課後の生徒会室。
後期から生徒会長になって半月ほどたつスシだが、まだ役職が板についていないばかりか、何に関しても身が入らない様子だった。
まあ、スシがこんなふうにフヌケになってしまった過程において、情状酌量するべき点が、ないわけではない。
スシは、4月から9月半ばまでの前期生徒会執行部にも非正規役員として参加していて、生徒会長職の人間や副会長から、さまざまなむちゃぶりを受けていた。奮闘の結果、懸案事項もすべて解決を見て、さらに彼女までできて、状況がいい方へいい方へ転がって、人生の絶頂期と錯覚するような出来事がいろいろ起こりすぎなのである。
しかし困難を克服できたのは、スシだけではなく役員全員の頑張りがあったからだ。スシと同様に困難を越えたほかの役員も「彼女ができた」以外はスシと同じ境遇と心境なわけだ。しかしほかの役員はそこまで浮かれていないのだ。「スシは生徒会長のくせに、一人で浮かれて一人でフヌケになっているのはどういうものか」という声が上がるのは時間の問題と、心配されるところなのである。
ここで簡単に、泥縄第二高校の前期生徒会執行部が、この年の3月下旬から9月半ばに経験した出来事を振り返ってみる。
泥縄第二高校と系列の泥縄第一高校は、隣同士の県にある。両校はここ数年来、学校経営側に「どちらか一方でも生徒数の下限を割り込んだら即統合」という方針を突きつけられていた。生徒は現在通っている校舎に統合になるならまだしも、隣県の相手の校舎に統合されたらどうやって通っていいかわからず、「生徒数を減らしてはいけない」という呪縛におびえていた。
3月下旬、泥縄第一の生徒スシが父親の転勤で隣の県へ引っ越すことになり、泥縄第二への転校を選んだ。泥縄第二生徒会はスシの転校で泥縄第一の生徒数が下限割れするのを防ぐため、身代わりの生徒を1人泥縄第一へ送り込むこととする。生徒会長のクロハが自らその任に当たったが、泥縄第二の人数も下限ギリギリなので1人減は痛く、また人柱のような理由でクロハを転校させることをよしとしない副会長マヤの意向もあって「クロハは実際には泥縄第二にいないけれど、見た目はいるようにする」という方針が立てられた。クロハは泥縄第二に籍を置いたまま泥縄第一に出向となり、泥縄第二の全校朝会などで生徒会長のクロハが必要な局面では、マヤやほかの役員がクロハ会長に「化身」して埋めた。
ここで出てきた「化身」という概念にも説明が必要であろう。ここでの「化身」というのは早い話、不在の役員の穴を、ほかの役員が埋める行動のことである。本当はいない人間があたかも存在しているように一般生徒に思わせる、高等技術である。
誰かに化身しようという人は、具体的には、本人の制服を着て、本人と同じ髪型をして、本人がメガネをかけているなら同じようにメガネをかけて、本人と同じデオドラントを使って、本人のような声を出して、本人が言いそうなことを言う。ある人間に別な人間が成り済まして、いない人間をいるように見せかけるという、あまり表立って言えない方法ではある。
役員総出で化身をしていると、Aさんの穴を埋めたBさんが急に必要になるというのはしょっちゅうで、急遽CさんがBさんの穴埋めをするというような、化身の穴埋めの穴埋めもよく行われていた。穴埋めの穴埋めは計画的に行われたこともあるが、たいていはアクシデントなど、のっぴきならない状況で泥縄式に行われた。
なにしろ人手不足で、男子が女子に化身させられることや、その逆も日常茶飯事だった。
学校経営側に生徒数の操作が知られるとまずいので、情報が漏れないよう、役員が化身している事実は一般生徒にもないしょとされた。その一方で、泥縄第二・泥縄第一とも管理職層を除く教職員は、役員と化身の秘密を共有する味方だった。
前期が終わる間際に泥縄第一の併設中学3年生が1人、春を待たずに高校に飛び級進学したことで(実際には中等部で学びながら、飛び級進学したことにした)泥縄第一の人数問題は解決。クロハは少し前に無事、泥縄第二に戻って来れたのだ。
役員が全員で頑張って、前期の半年間、なんとかバレずに化身の日々をやり遂げたのだ。
スシは、秘密保持に心を砕きながら化身を強いられる日々が終わって、心の自由を謳歌していたというわけだ。
(オレは解放されたんだ。やることやったんだ。あとは流れでやっていけばいいんだ)
スシは会長席でひとりニタニタしていた。
そんなスシを、室内にいた残りの役員5人が「この人こんなんでいいのかしら」という目で見ていた。
スシを含めた6人の後期執行部メンバーを簡単に紹介する。後期から役員に加わったキラを除く5人は、前期から活躍している人たちだ。
生徒会長の男子・スシ。2年1組。身長169センチ。髪は普通の男子くらいの長さ。泥縄第一高校から4月に泥縄第二に転校してきた。泥縄第一の人数が存続基準を割り込みそうになり、統合危機を招いた張本人。前期は人数外の役員(当時の呼び方はシークレット・エージェント)として行動し、後期から会長。女子のような声を出せるのが特技。学校から30キロ離れた家からバイク通学をしている。
副会長の女子・マヤ。身長169センチ。髪型はロングのストレート、前髪は七三分け。ですます調の丁寧な言葉遣い。人の話の腰をなるべく折らないように努めていて、自分の我慢で場が丸く収まると思えば言葉を飲み込みがち。前期にスシに告白され、後期から彼女になった。
書記長の女子・キラ。2年1組。身長158センチ。髪型はロングのストレート、前髪は七三分け。新聞部兼務。明るくて勝気、生徒に人気がある。後期生徒会長選挙に出たが、運動期間の途中で選挙戦から撤退し、立会演説会では生徒にスシへの投票を呼びかけた。スシに対して熱烈な想いを抱いており、マヤのことを目の上のたんこぶのように思っている。
書記次長の女子・クロハ。2年1組。身長169センチ。変装用かと見まがう大きな黒いプラスチックフレームのメガネをかけている。髪型はロングのストレート、前髪は真ん中分け。前期には会長を務めていた。精神年齢はお局OL並みと言われている。マヤの親友。スシはクロハのことを、先代会長としてとことん尊敬している。
非正規役員の男子・カニ。2年1組。身長169センチ。女子4人と同じく髪を肩甲骨の下端まで伸ばしていて、普段は業界人のように後ろで束ねている。銀縁メガネ。生徒会役員は連続でも通算でも2期までという規定に従い、自身2期目の前期で退任。しかし「役員の仕事は多くて大変だから」と非正規役員として残った。性格は温和。成績は学年1位をキープする学業特待生。
非正規役員の女子・オロネ。2年1組。身長169センチ。髪型はポニーテール、前髪は真ん中分け。ほかの女子が白のソックスなのに対して、ダークブラウンのニーハイソックスを着用。彼氏(カニ)がいるにも関わらず、学校の男子人気ナンバーワン。オロネが応援に行った運動部は試合で負けないという伝説を持つ、泥縄第二高校を代表する勝利の女神。スシと同学年ながら、スシのことを弟のように思っている。非正規役員になった経緯は、カニと共通。
早い話、役員は全員2年1組で、キラを除いて全員身長169センチだ。安直な設定と言われそうだが、これは前期からそうなので、みんないきなり大きく伸びたり縮んだりしないので、これはこれで進めさせてほしい。
キラを除く5人は、顔の輪郭、左右眼球間距離、耳たぶの位置と形状、前歯の歯並びなどが大差ない。前期には、これらが相互に化身する上で大きく役立った。キラだけは、ほかの女子3人と顔つきが別系統だ。
役員の女子4人は全員、泥二カミセブン(泥縄第二高校の評判の美少女のような意味合い)に数えられている。もっとも、泥二カミ「セブン」と言いながら現在までに8人確認されており、全部で何人なのかもはっきりしない。
スシは、まだニタニタしていた。
本当は、いいことばっかりのときこそ気を抜かず、忍び寄る影を速やかに察知して、人知れず解決するのがカッコいいのだが。特に生徒会長という立場にある者は、いろいろと先手先手を打っていくようだと、ほかの役員から喜ばれたり、一般生徒から「さすが」という目で見られたりすると思うのだが。
(もう化身は2度とやらなくていいんだ。もう女子の制服を着なくていいんだ。女子の制服を着て一般生徒に「あいつほんとはオトコなんじゃねえの」と思われるんじゃないかとビクつく必要もないんだ)
スシは、どちらかというと根が単純なのだろうか。うれしくて浮かれているときには、ただうれしくて浮かれるだけで、自分でああだこうだと考えなくなるタイプらしかった。悪気があってのことではないだろうから、周りが何か言ってあげるといいのかも。
キラが、役員に特に急ぎの仕事がないことを確かめて、鞄からスマホを取り出した。
いま生徒会室にいる6人の中で、前期に役員でなかったキラだけは、ほかのメンバーに化身したことがない。それゆえキラは、いずれ自分も化身が出来るようになりたいと強く願っていた。
キラは身長がほかの役員ほど高くなく、顔つきもほかの役員とは違っている。周囲が本人と区別できないのが化身というものの完成型だとすると、そこへ到るにははるかな道のりが待っているだろうと、キラ自身も思っている。しかしあきらめずに、まず第一歩としてほかの役員の声色からマスターしようと、スマホの音声を使った練習に取り組んでいた。化身は一般生徒にないしょなので、キラは化身につながる声色の練習も教室ではなく生徒会室でするようにしていた。
練習を始めようとしたキラに、ほかの化身経験者の役員たちもアドバイスしてあげようと一斉に目を向けたが、会長のスシだけは緊張感のかけらもなかった。
キラはスマホで後期生徒会役員女子の声を再生して、それに続けて自分もしゃべり始めた。
「体育実技は、いちいち追試はしないって。Repeat again」
「体育実技は、いちいち追試はしないって」
スシはキラが練習するのを聞いて、教材で使われているセリフが、前期にクロハ会長(肩書は当時)に化身したマヤ、つまりクロハ会長(中身マヤ・肩書は当時)が発したものだと気づいた。
(あ、これは、女子水泳実技テストのときのやつだ(「生徒会、ないしょの欠員1」4章の1))
キラの練習が何を目的としているかは、化身と声色に取り組んだ経験のあるスシにはすぐ理解できた。英会話練習のように、本人の話し方と話す内容をなぞる。そうすることで本人のキャラクターが把握できて、本人がいかにも言いそうなことが口から苦もなく出るようになるだろう。
しかし化身ができるならともかく、声色だけできても普通はそんなに意味はない。せいぜい仲間内でモノマネをするのに役立つくらいだろう。別人の声色をあまり躍起になって練習すると「オレオレ詐欺の電話をかけて息子を装う気か」と疑われそうだ。
一生懸命練習するキラを見て、スシは逆に少しブルーが入っていた。
スシとしては、化身の日々はもう終わったものとしたかったのだ。
(もう問題は全て解決したんだし、化身にはすごく大変だったことも、やましいこともあったから、蒸し返さないでほしい。できれば忘れたい。そっとしておいてほしい)
あれ? スシくん、いまなんて思った?
(だから、もう問題は全て解決したんだし、化身にはすごく大変だったことも、やましいこともあったから、蒸し返さないでほしい。できれば忘れたい。そっとしておいてほしい)
おいおいスシくん、困るよ。「生徒会、ないしょの欠員1」のラスト近くに「ちょっと厳しくちょっと楽しい任務を、仲間と一緒にやり遂げた。決して表には出せない日々、でも決して忘れない。スシはそう思った」と書いてあるでしょ。それなのにスシくんがいきなり化身のことを忘れちゃったら、そのときの盛り上がりはどうなるのよ。
(それはそれ、これはこれ)
彼女ができたとたん、彼女ができるきっかけとなった化身のことは忘れたくなったスシくん。でも世の中というものは、欠員1で半年乗り切っても、それで万々歳といかないことも多いじゃない? 苦心と努力と奮闘で欠員1を乗り切ったことで、逆に「欠員1でも乗り切れましたね。じゃあまた何かあったら欠員1は大丈夫ですね」と言われたり、はたまた「欠員1でもいけたなら、もうちょっと頑張ってもらえば、欠員2もいけるんじゃね?」と言われたりするんじゃない?
スシくんに最初に言っておくけど、今回スタートする「生徒会、ないしょの欠員2」というお話は、みなまで言うと「苦労して乗り切った半年の日々が終わっても、そう簡単に化身しなくてよくなるわけではなかった」という性質の話なのよ。
キラの声色の練習は続いていた。
「そうなの? いやねえ。Repeat again」
「そうなの? いやねえ」
役員女子の声をなぞるキラのしゃべりがだんだん上手になっているのが、スシにもわかった。
「スシくん、ちゃっちゃと校歌作っちゃおうか。Repeat again」
「スシくん、ちゃっちゃと校歌作っちゃおうか」
キラはもともとクロハやマヤと声質が近いこともあり、声色はすぐに一般生徒の前でも通用するクオリティになると、スシには思われた。
(キラさん、なかなかやるな。すごい熱心だな)
スシは感心した。感心はしたが、その目にはまだ緊張感がなかった。
スシは口にこそ出さないが、キラのことを「買った英会話教材が高かったから、必要以上に一生懸命にやっている人」のようだと思っていた。口にこそ出さないが「そんなに一生懸命やっても、もう声色や化身に備える必要なんかないのに」とも思っていた。
キラとスシを、少し離れた机に腰掛けたクロハ、オロネ、マヤが見ていた。3人とも目が笑っていなかった。