プロローグ
臭い……。
いつもの仕事を終えて、母さんと住む木造のあばら家の扉を開けると、すぐにその異臭が鼻をつく。
「ただいま母さん。いらっしゃい、おじさん」
扉が開いたのは分かるはずだし、俺が今こうやって挨拶したというのに、床の薄汚れた布の上で抱き合ったまま微動だにしない二人。
どうやらタイミングが悪かったらしい……。
母さんもおじさんも、俺に気づいてはいるようだが返事を返す余裕がないらしい。それならそれでいい。俺は埃まみれの床にあぐらをかいて座った。
仕事帰りに買ってきた安いパンをかじる。値段不相応な不味さに堅さだけど、それを言い出したらキツイだけで、ろくな給金をくれない仕事の方にも文句を言いたくなる。
だけど、俺みたいなスラムの娼婦の子供を雇ってくれている時点で、とても感謝しなければいけないとも分かってる。こうやって今日を生きていけるのも、そのおかげだって。
でも、こんな日常がいつまで続くのだろう……。
「よぉ、ボウズ。さっきはすまんな、返事できなくてよ!」
「おかえり、坊や。今日もパンは買えた?」
「気にしてないよおじさん。今日も買えたよ、母さん」
いつの間にか身体を離し、擦れきれたぼろ布でお互いを拭きあっている二人が話しかけてきた。もう慣れたこととはいえ、十歳の俺の前で身体を拭きあう娼婦の母とその客。それを見ながら安いパンを頬張る自分。
くだらない。
なんてくだらなくて救いのない日常なんだろうか。仕事のために少し街の方へ歩けば、両親と手をつないで幸せそうにしている同い年ぐらいの子供がいる反面――俺のようにあばら家で、薄汚い母と男の情事を眺める子供がいる。
「ボウズ、まだしみったれた金もらいながら働いてンのかよ」
「……働かないと食えないし」
「ばっか野郎、おまえ。「人生は博打」だぞ! 生きるも死ぬも、栄えるも廃れるも運任せよ!」
そう言って、母さんを抱き寄せた男はニヤニヤとした顔で俺を見る。前歯は何本も抜け落ちており、顔には無数の傷跡が残っている。今では見る影もないが、この男は一昔前まで冒険者と呼ばれる仕事をしていた。
冒険者――かつて、この大陸にまだまだ未開の地が多く残っていた頃に人々はその地を駆け巡り、新たな資源や土地を発見した。どんなに危険な場所だったり強大な怪物が生息していようと、その者たちは恐れず、歩みを止めることはなかった。そんな偉大な者たちを人は冒険者と呼んだ。
それが、大昔までの冒険者。
今ではもう、未開の地など残っていない。冒険者の仕事は怪物退治と護衛が主流になっていった。それでも、実力のある者は大金と名誉を手に入れる。逆にそうでない者は、目の前の男のように落ちぶれる。
まさに博打のような商売……それが今の冒険者。
「それで。おじさんは博打に勝ったから、今日は来てるの?」
「その通りよ! この間の魔族との戦争で、英雄サマって呼ばれるようになった男がいてな。ソイツは帝国生まれの冒険者らしいンだが、この王国にも凱旋にくるかどうかって賭けをしてよ……」
「それに勝ったんだ、おじさん」
「そういうことよ! 英雄サマはこの王国にも来てくれンのさ! さらにはこんなスラムの近くまでお通りになられるらしいぜ!」
英雄サマサマだ、と抱き寄せた母さんの髪に紫色の汚い唇を落とす男はその後も、愉快そうに賭けの内容をベラベラと話す。俺は指についたパンクズを舐めながら、それを聞き流した。
英雄サマ……。
こんな薄汚い子供には、遠い世界の存在。魔族との戦争については聞いていたけど、俺は魔族が人類の敵だってことぐらいしか知らない。というよりはそれ以上のことは知る必要がない。俺にとっては、人類の敵よりも今日生きるための金が必要だ。
「……坊や、英雄サマに弟子入りでもしてみたらどうかしら」
男の胸の中で、俺を見ながら母さんはそう言う。分かってはいたが、母さんにとって俺は邪魔な存在なんだろう。仕方なく育てているだけで本当なら、そこら辺で野垂れ死にしてくれればいいのにと思っていることは知っていた。
俺と母さんの関係は決して良いものじゃない。
母さんにとっては誰の子かも分からない子。強いて言うなら、俺の前だと興奮する客がいるから、そのための道具。そして俺にとって母さんは、愚かでどうしようもない女。娼婦ができるのは今だけ。歳をとれば、相手にもされなくなるのに、稼いだ金は酒に浪費している。
なるほど……。
こんな生活をいつまでも続けるぐらいならいっそ、その賭けもアリなのかもしれない。男が言っていた「人生は博打」という言葉は、意外と的を得た発言だ。
どうせこのままでは、そう遠くない未来に俺は餓死するだろう。今でさえ満足に食えていない状況で、成長すれば確実に足りなくなる。どのみち死んでしまうなら、いっそ命を賭けてその博打を打ってみよう。
「おじさん……英雄サマはいつ来るの?」
「あ? なんだよ、まさか本気で弟子入りする気か?」
「そうだよ」
肯定すると、男は胸に抱きしめている母さんの髪を撫でる手を止めて、唾を飛ばしながら大きく口を開いて笑う。
「ばーか、おまえ。英雄サマがお前みたいな、瞳孔の開きっぱなしの危ない眼したガキを弟子にしてくれっかよ! ほら、オマエが余計なこと言うからボウズが夢見ちまう」
「あら……坊や、良いじゃない。いってみなさい」
「オマエは追い出したいだけだろ、ボウズを!」
そう言って、二人して顔を見合わせて下品に笑う。なんとも汚い絵面で、今の俺の現状を表しているようだ。笑っていろよ、今は。この賭けに勝ってやる。その時は思いっきりお前らを笑ってやる。
「いいから教えてよ、おじさん」
「あー、仕方ねぇなー。気分も良いし、教えてやるよ」
☆
騒がしい。
それが街の方へ出た、俺の最初の印象だった。いつもは無駄にだだっ広い街道に、数人が歩くのみ。たまに馬車が通るぐらい。それなのに今日は、溢れんばかりの人が埋め尽くしている。
人、人、人。
どこを見渡しても人の群れ。強いて言うならば、馬車が通れるように街道の真ん中は空けてあるぐらい。後はほとんど人に埋め尽くされており、いつもならスラムの子供である俺が近づいたら、嫌な顔をしながら離れていくのに今日は、誰一人としてこちらに見向きもしない。
英雄サマが来るからだ。
今日はおじさんに聞き出した英雄サマ、凱旋の日。こんなスラム近くのしょぼくれた街ですら、凱旋してくれるとても優しい英雄サマ。そんな英雄サマだ。きっとこの賭けは上手くいく。
「英雄様よ!」
どこからか黄色い声援が一つ。それに続いて、一斉に英雄サマを呼ぶ声が飛び交う。最初のように黄色い声援から、男の野太い声まで飛び交い、その英雄サマに少しでも見てもらおうとしている。
「きた……」
大人の群れで街道の真ん中が見えなかった俺は、少し離れたところまでいって、さびれた家の壁をよじ登り屋根に立った。そして英雄サマの乗った馬車を見て、俺はそう呟いた。
馬車から手を振っている英雄サマらしき男は、俺の思っていた外見とまったく違っていた。俺はもっと長い髪に、王子様のような顔をした男だと勝手に思っていたが。
英雄サマ――その男は、ボサボサの短い黒髪にあごひげをたくわえ、額には十字の傷跡がある。大柄で厳つい顔をしたその姿は、英雄サマというよりは、スラムに出入りしている危ないおじさんに似ていた。
「……あれが……英雄……?」
思わずそう呟いてしまったけど、それも仕方ない。あの外見を見て、誰が英雄だと思うだろう。ただの怖そうなおじさんだ。それに、ずっと不機嫌そうな顔で手を振っている。心の底から嫌そうだ。
まさかあんな感じだとは思わなかった……。
俺の賭けも、あっさりと負けてしまうんじゃないかと思うような外見だった。しまった。こんなことまったく想定してなかった。どうする。いや、それでもやるしかない。
屋根から飛び降りた俺は、足に響く痛みに耐えながら離されないように馬車の後を追う。人だかりの真ん中を通っているからか、その速度はゆっくりで子供の俺でも追えるほどだった。
しばらくすると、馬車は一軒の大きな木造の宿に止まった。この辺りはわりと良い暮らしの人間が住んでいるから、見つかったら追い出される。そう考えた俺は、できるだけ物陰を選んでその様子を見ていた。
英雄サマは馬車を飛び降りると、不機嫌そうに宿の中へ入っていく。
ここからだ。……ここから、俺の命を賭けた博打が始まる。一つでも失敗すれば終わり。スラムに逆戻り。最後の賭けに負けても終わり、その時は俺に死が訪れる。
ゆっくりと深呼吸をしたら、心を決めて物陰から走り出す。
「……ん? こら、ボウズ! 止まれ!」
英雄サマの入った宿めがけて、一心不乱に走る。宿の前に立っている騎士サマがそんな俺を止めようとしてくる。普通なら、ここで抑えられて終わりだろう。そう、普通の子供なら……。
「くらえっ! 変な白い腕っ!」
変な白い腕――気がついたら、いつの間にか使えるようになっていたソレは、俺の腕を白いナニかが包み込み、補強してくれる力だ。それは、壁さえも貫通させてしまうほどの力。
「ぐほぉっ……!」
子供だと思って油断していた騎士の腹に、拳を一発。ソレは鎧を壊しながら、その腹に衝撃を与えた。
不意の強力な一撃に、騎士はそれだけで気絶して、地面に倒れてしまった。ごめんなさい、騎士サン。でも俺の未来のためなんだ、許してほしい。将来の俺に免じて。
俺はその勢いのまま、宿の中に突っ込み、辺りを見回す。
英雄サマはいない……。カウンターにいる若い姉ちゃんが、驚いた顔で俺を見ているだけだ。一階にはいないということは、二階だ。どうせこの姉ちゃんが叫びだしてしまう。その前に二階へ上がりきる!
二段飛ばしで階段を駆け上がった俺は、ちょうど英雄サマが部屋に入るのを見かけた。これは好機だ。なんて運が良いんだ、俺。
「英雄サマっ!」
英雄サマの入った部屋の扉を叩く。何度も何度も、強く強く叩く。
「なんじゃい! うっとうしい!」
そうしていると、英雄サマが勢いよく扉を開いた。
「あぅっ……」
その扉を縋りつくようにして叩いていた俺は、開いたその勢いで地面を転がり、情けない声を出してしまう。はやく立たなきゃ、時間は少ない!
「……うぐっ。英雄サマ! 俺を弟子にしてください!」
「間に合っとるわい」
俺の一世一代のお願いを、あっさりとそう言って切って捨てた英雄サマはそのまま、扉をしめようとする。はやい、返答も断りも早すぎる!
「弟子にしてくれないなら、ここで死にます!」
そう叫んだ俺は、懐に隠していたナイフを取り出して、自分の首に向けて英雄サマを精一杯睨んでみせる。
「……小僧。わしは、笑えん冗談は嫌いじゃ……」
さっきまで興味なさげに俺を見ていた英雄サマの顔が、真剣なものへと変わった。成功だ。まずは、ちゃんと俺に意識を向けてもらわないことには賭けすら始まらない。
「本気です……。俺はここで弟子にしてもらえなかったら、そのうち死にます。だったら……ここで命を張った博打をした方が良い」
「子供がそこまで言うか……。小僧、わしの弟子になったとして、なにを求める。なにを得ようと考える」
「別に、なにかを得ようとは思ってない。ただ、無様に汚く死ぬのだけは嫌なんです! 俺は……俺が納得できるような生き方をしたい!」
そこまで俺が言い切ると、英雄サマはあごひげを撫でながら、なにかを考え込んでいるようだった。お願いします。どうか、どうか。俺にはこの博打しか残っていない。勝つしかない。
「……はぁ。なんの因果かのぉ。こんな近い間で二人目とは」
考えるのを終えた英雄サマは深くため息をついた。そして、俺を憐れむような眼で見る。
「わしの負けじゃ……。おまえ、名前は?」
「ないです」
「……名すらないのか。そうじゃの……」
俺の上から下をジロジロと見る英雄サマは、不意に俺の眼を見て、なにかを考え出した。やっぱり、この眼は不気味だろうか。いつも客や母さんに獣のような眼だと言われているから……。
「タイガじゃ……」
「え?」
「だから、おまえの名は今からタイガじゃ」
「はぁ……?」
「昔、実家で見た先祖の書き記した本に出てくる、タイガという生き物にそっくりの眼じゃ。だからおまえはタイガじゃ、今日から弟子じゃ」
「……あ、ありがとうございます!」
俺は勝った。この賭けに勝った……!
「はぁ……。とにかくおまえの親のとこにいくぞ。金も払ってやらにゃならんからなぁ」
「金、ですか……?」
「そうじゃ。おまえを勝手に連れて行けば、そりゃ誘拐じゃろうが」
そうか、母さんに金を払って俺を買うってことか。そこら辺のことなんて、まったく考えてなかった。ただ、弟子になれるか死ぬかのことしか頭になかったから。
「ほれ、なにをしておる。いくぞ」
「はい! あ……」
「なんじゃ?」
「宿の前の騎士サマを……気絶させちゃいました……」
「おまえのぅ……」