理論上、秒針は音速を超える。という話と、そのついで。
腕時計によると午前八時三十分らしい。駅の時計塔によると、やはり午前八時三十分。通勤ラッシュ真っ最中。誰もが右へ左へ歩いていく中、どうして僕はここに立ってるんだろう、なんて思っていたら、話しかけられた。
「腕時計、狂ってるのか?」
見知らぬ声に顔を上げ、僕は驚く。
「腕時計とそこの時計塔を交互に見てたから、気になってな。時計が狂ってるか、俺のように時計を愛しているのか。きっと後者だろ」
親しげに話してくるこの男は、もちろん僕の知り合いではない。よれたシャツを着て無精髭を生やした男は、さながら「ホームレスが競馬で百万円当て、それを資金に就職しました」といったルックスだった。「俺は山田だ」と握手を求めてくるが、記憶を辿っても下の名前は出てこない。不潔そうな手を握ることはためらわれたが、とりあえず握手には応えてみる。
柔らかい手だった。手首にはいかにも高価そうな腕時計が装着されている。右手派か、と思い左手を見ると、そちらにも時計が付けられていた。その僕の視線を追っていたらしい山田は「足首にもあるぜ」と言い、ズボンを掴んで裾をあげた。束売りされてそうな靴下両方に金色の腕時計が巻かれている。
「あなたは時計屋さんでは」
「ねえな。ただの時計マニア」
「ということは足首に合わせてベルトを調整してもらったと」
「当たり前だろ」
その時の時計屋さんはどんな顔をしたんだろうな、と想像する。
『ヘンタイが あらわれた』
『たたかう ぼうぎょ どうぐ にげる』
『トケイヤは にげた』
『しかし まわりこまれてしまった』
『しかたなく どうぐで たたかう』
といったところだろうか。その時計屋を称えたい気持ちでいっぱいになる。僕ならとりあえず殺すかもしれない。
「暇か?」ヘンタイは問う。
「暇に見えますか?」
「見えるから話しかけた」ヘンタイは答える。
「そしてあなたも暇だから話しかけた」
「人を暇人扱いするな」ヘンタイは口答えする。
「先に暇人扱いしたのはあなたですよ」
俺は見ての通りのサラリーマンだ、とヘンタイこと山田は偉そうに言うが、サラリーマンにも偉そうにも見えない。
「俺はこの近くで働いてる。ここから十分ちょっとのところだ。こんな都会で働くなんて、立派だと思うだろ」
「そんなものですか」
「そこでクイズだ」
「ブラック企業」
「お前はなんのクイズを想像したんだ」
彼は人差し指を立てた。
「巨大な時計は、早く回ると思う? ゆっくり回ると思う?」
巨大な時計。
二番目に浮かんだのはロンドンのビッグ・ベン。一番目は、「そこでクイズだ」の『そこ』とはどこだったんだろう、ということ。
「時計の大きさに関わらず時間の流れは一定ですよ」
「つれねえこと言ってんじゃねえよ時計仲間」
「時計はともかく、あなたの仲間には」
「フィーリングでいい。せかせか回りそうか、のろのろ回りそうか」
何を言いたいか察しはついたが、「大きなものはゆったり動きそうですね」と欲しがってそうな回答をしてみた。
案の定と言うべきか、それ以上と言うべきか、山田は心から嬉しそうに笑った。
「不正解! ご褒美は時計博士からの解説だ」
この茶番はいつまで続くんだろう、と時計を見るが、まだ三十一分だ。
「時計の針は内側と外側で速度が違う。外の方が円周が大きくて、同じ時間で一周するんだから、外の方が速いんだよ」
同じ一本の針なのに不思議じゃないか? と彼は続ける。「つまり、時計は大きければ大きいほど針の先は速くなる。これを応用して巨大な時計を作れば秒針が音速を超えるのも夢じゃない」
夢物語だ、と僕は思う。「大きな時計には秒針がないイメージなんですが、あるんですか」
「知らねえよ」
「知らないんですか時計博士」
「こう見えてまだ時計に魅せられて二年のビギナーなんだよ。知りたかったらスマホに『時計 大きい 秒針』とでも話かけてみな。きっとその頃、この広い空の下で俺も同じことをしている。ロマンチックなキッスの味がするだろ」
「ええ。酔いつぶれて吐き散らかしてる初老の味がします」
「ところで、」山田は僕の喩えをあからさまに無視する。「ジェット機が衝撃波みたいなのを発してる映像は見たことないか? あれは音速を超えた時に発生するものなんだ」
「鞭のバシンって音も、先っぽが音速を超えて空気を裂いた時の音らしいですね」
「よく知ってるじゃないか、マイフレンド!」
「友だち少なそうですね」
「なめるな。愛と勇気と時計が友達だ。アンパンマンより多い」
時計台を見る。三十二分。
遠近感を無視すれば、腕の時計とあの時計は同じくらいの大きさに見える。巨大な時計がものすごく遠くにあれば、やはり腕時計と同じサイズに見えるのだろう。
しかしその秒針の根本と先端ではまるで速度が違う。かたや腕時計と同じ。かたや音速を超え、鞭が空気を裂くような音を断続的に鳴らし、衝撃波を発している。
「しかも音速を超えるほど早く回っているのに、時間の流れは変わらないんだ。時計の魅力は数えきれないほどあるが、俺としてはここが最高に浪漫なんだよ。分かるか?」
「分からなくもないです」
「俺の妻ときたら一ミリも理解してくれねえんだよな」
「でしょうね」
「あまり驚かねえんだな。妻がいることを言うといつも何故か驚かれるんだが」
「そんなことより急がなくていいんですか。会社、八時四十五分始業ですよね」
「あれ? そのこと言ったっけ」
「聞きましたよ」
山田は腑に落ちない顔だったが「まあいいや」と呟いてアキレス腱を伸ばし、走る姿勢を見せた。
「巨大な秒針のごとく走ってやるよ。じゃあ、また会おうぜ」
「ええ。今晩、あなたがいつも通る路地裏で待ってますね」
山田は動きを止め、目を見開いた。
安上がりな服装。相反する高価な時計。
依頼主から詳しい話は聞いていないが、だいたい想像はできる。
僕は彼女から「この時間にこいつがここを通る」「きっとそこの時計台の時計を眺める」「いつもなぜか狭い路地裏を通って通勤している」「人気がないからやりやすいと思う」「すごく大きな時計の秒針は音速を超えるとか意味不明なことをほざく」「昔はそんな人じゃなかったのに」という雑な情報と顔写真だけを貰ってここにいる。いざ来てみたらうんざりするほどの人混みで、見つけられる気がしなかった。半ば諦めかけて「この腕時計の針先とあの時計台の針先じゃ速度が違うんだなあ」なんて思っていると、顔写真で見た男から声をかけられたのだから、感情の薄い僕でさえ驚いてしまったのも無理はない。
山田も思い当たる節があったのだろう。「そうか」と諦めるように頬を緩めた。
僕はときどきターゲットに予告をする。残りの時間を楽しんでくれ、というサービス精神のようなものなのかもしれない。
「僕は特定の仕事方法を持っていないのですが、希望はありますか」
「じゃあ、時計の針で真っ二つにしてくれ。できるだけ巨大なやつで」
「善処します」
「期待してるぜ。またな」
山田は走る。あっというまに群衆に溶けてしまうと、僕の心に寂寥感が残った。この胸に穴が空いたような感覚が、僕は嫌いじゃない。むしろ逆で、憩いの時間だった。安心できる時間だった。いくら仕事をしても何も思わない僕が、唯一自分の心を感じられる時間。
さて、このあたりに大きな時計が売っているお店はあるかな。できれば秒針があるやつ。
ポケットからスマホを取り出し、口元に寄せる。
「時計 大きい 秒針」