1-名前は青井輝吉
(参った…いや…こんな事あるか…?)
青年は一人佇む。
往来には様々な恰好をした老若男女が行き交っているが、日本人らしい顔立ちの人物は誰一人としていない。
建物はどれも石造りで、現代建築ではほぼ必須とさえされるコンクリートはまるで見当たらない。
中には大きな斧を担いだ大男も見受けられ、馬車や甲冑姿の兵士も定期的に目にする。
いかにもテンプレートな"異世界"といった雰囲気であった。
「…というかもう異世界そのものじゃん!」
青年は一人頭を抱える。
***
「さてと…まずは状況の整理だ。」
身をリクルートスーツで固め、右手にはビジネスバッグを持った7:3分けの青年、「青井輝吉」は、川沿いに設置されていたベンチに腰を落ち着け思案する。
川には幼い子供が数人戯れており、見ていると此方の心まで解されてくるようだ。
「まず、ここが異世界っていうのは間違いない。こういうのは異種族とか魔法とかが登場するのがお約束だと思うが、今の所それは見当たらないな…」
"お約束"というのは、輝吉はこういった異世界転生物のフィクション本を読み漁るのが趣味の一つであったことから。その為、現在の状況にもある程度適応しており、そこまで焦りを見せる事はなく冷静に状況を分析しているのである。
「時勢については…まぁ具体的には分からんが、基本的には皆平和に暮らしている風に見えるな。少なくとも戦争中だとか、そういう国に飛ばされたわけではないと…。」
もし戦争中の国に飛ばされたのであれば、転生キャラには特殊な力が与えられるのが定石だが、あいにくそのような事は無いらしい。
「ま、ある程度は分かった。テンプレもんの異世界ならこっちのもんだ。川で呑気に遊んでやがる子供の言葉を聞く限り日本語も通じるらしい。後は金銭の問題だが…」
そういって輝吉は財布の中を開くと、万札が数枚と小銭が少々。免許証や定期券も入っているが、これに関してはこの世界では間違いなく役に立たないだろう。
「かといって、この万札がこの世界で役に立つとも思えんけどな…」
ボーナスが入った直後であったため、財布の中はそれなりに潤っている。しかし、それは日本国内での話であり、どこの国か、そもそも地球ですら無いかもしれないこの場所では宝の持ち腐れだった。
「やれやれ…課長の飲みに付き合わされた結果、居酒屋を出るとそこは異世界って…どんなシチュだよ…」
そう言うと輝吉は、ベンチから重い腰を上げ、人の往来の多い大通りへと足を踏み入れた。